偶像礼拝

 「私のたましいを御手にゆだねます。
 真実の神、主よ。
 あなたは私を贖い出してくださいました。
 私は、むなしい偶像につく者を憎み、
 主に信頼しています。」(詩31:5-6)

---

 「 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」(出20:4)。

 十戒の中の、偶像礼拝を禁じたくだりである。
 神のみがほめたたえられる存在なのであり、それ以外は神ではない。
 ところが人間は、作り物を神に似せて、神を拝むように拝みたくなる。
 この旧約の時代であれば、バアルやアシュタロテといったものたちだ。
 今、これらバアルやアシュタロテは、ない。
 ところが人間はどこまでも形あるものを拝む傾向があり、今度はただの人間という「もの」を拝んでしまう。
 神以外のものを神として頼りすがろうという性向は、どこまで突き詰めていっても残る人間一般の性向であり、肉の性質なのである。
 もしこの性質が人間になかったならば、カルト教団は生まれないだろう。

 十戒に照らしてに罪と定められてしまうこの肉の性質も、十字架と復活のキリストは、その業によって赦して下さっている。
 その赦しは、ただ神の恵みである。
 だから、単に「むなしい偶像につく者を憎」むだけの時代はとうに終わり、どこかで偶像にすがってしまうこの肉について、主キリスト・イエスの赦しにどこまでも信頼するのである。
 律法が罪を自覚させ、キリストの赦しに気付いたときにその罪から解放されるのだ。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )