カインの怒りはキリストがなだめる

 「彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。
 主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。
 それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創4:2-7)

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 カインとアベルは、ともにささげ物を神にささげた。
 アベルのそれを神は目を留め、カインのそれには顧みられなかった。
 怒るカイン。顔も真っ赤だったことだろう。伏せてしまう。

 私がカインの立場だったら、怒る。やはり顔を真っ赤にして。
 いや、たぶん、頭が真っ白になって、そして気絶し倒れてしまうだろう。
 隣にいるアベルと違って神から顧みられなかった、そういう状況なのだ。

 「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか」。
 「主よ、私のささげ物には、御目を留められなかったからです。アベルのささげ物には目を留められたにもかかわらず、です」。
 「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる」。
 「主よ、恐れ入ります、『正しい』ということが分かりません」
 「ああカインよ、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。愛するカインよ。」
 「主よ、主よ。その『正しく行なっていないのなら、罪』とはますます分かりません。いまにも怒りの感情が沸騰しそうです、主よ。」……


 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23-24新共同訳)

 アダム以来、人は罪を犯している。
 だから、アダムの子・カインは「正しい」というのが出来ない
 ここでいう「罪」は、(アベルへの)殺人という具体的行為だ。
 その類の心象や衝動を有しているという点で、私たちはなんら変わらない。
(アダムが善悪の知識の木の実(創2:17)を食べたから。)

 ただイエスの十字架によって「無償で義とされ」た。
 このことを信じることが出来れば、その人はとても安らぐことだろう。
 誰だって、多かれ少なかれ、殺意は抱く。
 この時点でアウト、罪だ。
 そういう罪深い存在であっても「神の恵みにより無償で義とされる」ということがストンと落ちていれば、行動にまで行ってしまうことは、まずあるまい。
 その意味では、神がカインに対して仰った「罪」というのは、現在はイエスの十字架によってすっかり贖われた。
 ときは新約なのだ。

 話は戻って、私は「カインとアベル」を不思議に思う。
 ささげ物について、ふたりは何の相談もしなかったのであろうか。
 アベルは、自分のささげ物が受け入れられたときに、単純に喜んだだけだったのだろうか。隣で打ち震えるカインのことを、どう思っていたのだろうか。
 カインとアベルは一体、競争相手なのだろうか。兄弟ではなく。
 これは畢竟、アダム達の子どもだからなのだろうか。

 私は信じる、キリストがアダム以来のこの状態を快復するのだ、と。
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霊なることば

 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)

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 ほんじつ、タイトルを「霊なることば」とした。
 霊? この取扱注意かつ茫漠とした用語もまた、私は滅多に使ったことがないはずだ。
(なぜ「取扱注意」なのかというと、たとえば「オーラの泉」とかいうテレビ番組が流行っているそうで、その番組の説明を読んでいて、やはり今はまずいと思う - こういう時勢だということが「取扱注意」にしている理由だ。)

 それでも書き留めておきたい。
 「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」。
 イエスのお言葉は、そこで聞いていたであろう人々にも、2000年のふるいを経て「聖書」という書物を通して接している我々にも、霊として作用し、そしてこの霊は「いのち」を与えてくださる。

 イエスの言葉は、霊だ。
 「ことば」というのは、単なるコミュニケーションの道具にすぎない。
 コミュニケーションといっても多種多様だ。
 法律、通達、同僚・友人との会話、店でのやりとり、そして家族とのひととき。
 だが、そんな次元をはるか通り越してしまって、「ことば」は霊であり「いのち」を人に与えるものへと昇華する。

 「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)
 数多く流通する「ことば」達は、人と人とのコミュニケーション手段の域を超えない。
 ところが、その「ことば」が「神」として振る舞うとき、「いのち」が与えられる。
(「神」が「ことば」を発されたとき、か?)
 「いのち」というと、脈々としたエネルギーの塊、そういうイメージがあるが、私は人それぞれだと思っている(たとえばルカ2章でのシメオン)。
 逆境には、少しだけかも知れないが強くなったような気がする。
(誰にだって「逆境」は、ある。)

 私にとっての「ことば」は「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)、これが、そのような類のものとして働いてくださった。
 あれこそ決定打というのだろう。もう1年近く前のことだ。

 一方、「肉は何の益ももたらしません」、人がどたばたやっても、「得たいもの」は得られないということだと思う。「どたばた」、これこそ「肉」だ。
 「霊なる言葉」を頂けるために唯一許されている「肉」とは、それを願い祈り求める行為なのだろう。
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