風が吹くように

 「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:5-8)

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 聖書(特に新約聖書)は、因果律の世界ではない。
 因果律、それは、原因があるから結果がある、あるいは、この結果になった原因、その特定だ。方程式、化学式…、何と言ってもいい。
 「この人がこう祈ると、こうなった」とか、「あの人が讃美したら、そうなった」とか、その類の結びつきをいう。
(その手の本は、かなり多い。)
 私も毎日祈るし時に讃美するが、「今、このように祈ると、風邪がたちどころに快癒する」という考えは、ない。

 聖書の世界は、あたかも風が吹くようなものだ。
 音によって、「風の存在」は分かる。
 が、そいつを捕まえようと思って捕まえることができるようなものではない。
 風が吹いてくれて、何かが起こる。
 今日の聖書箇所は、聖書の中でおそらく最も大切なこと「生まれ変わり(新生、回心)」について、イエスは風が吹く様(さま)に例えている。
 アウグスティヌスは、そうなろうと奮闘して回心できたわけではない。内村鑑三も、そうだ。
 「たまたま」風が吹いた。回心にマニュアルは、ない。

  絶えず祈り求めよう、風が吹くように。
 風邪の癒しを求めるのでもなく、財政の円滑を求めるのでもなく、ただただ風が吹くように祈り求めよう。

(イエスが来られる前と後とを、混同しないように。)
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