失望せずにいれば

 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:7-9)

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 種を蒔けば、必ず刈り取りをせざるを得ない。
 若い頃さんざんしでかした「数々の種まき」を、いまだにに新たに刈り取るのかと、それはとてもびっくりした。
 確かに悪い種の刈り取りは、せざるを得ない。それも義務であるかのごとく。

 「悪」とか「善」という用語は、その根底となる価値観が何であるか、ということがあるから、今まで本ブログではあまり使ったことはないと思う。往々にして、複数の価値観が併存していると思っているからだ。
 第一、前回も少し書いたが、私はヨハネ福音書のように「善悪二元論を超えたところ」に、軸足を置きたいと思っている。

 だから「善を行う」、このことばは、多義的だ。非常に多義的だ。
 そうであっても、善という種を蒔いてゆこう、蒔き続けてゆこう。
 いつ刈り取るのかも分からないが、いつか刈り取ることができるということは、どうやら確かだ。そのときに私は、やはりびっくりするのだろう。
 なによりも大切なことは、失望せずにいることだ。
 寧ろ、「刈り取り」よりも「失望しないこと」の方が大切なのではないだろうか。
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