「『赦す』とは

 「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(マタイ18:21-22)

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 あれはもう、何年前のことだろう?
 上の聖句を電話越しに耳にして、同意を求められた。

 その頃と今とでは、上の聖句について考えていることは随分異なる。
 今はこう考えている。
 「赦されたんだ、莫大に赦されたんだ。だから、赦そう、何度でも赦そう。」
 十字架によって赦されて、そしてその十字架は赦されたことの象徴だ。

 昔日の電話の主は「77回許せばいいのよね?」と同意を求めた。
 正確さなど全く不要な局面だったから、「そう、そうですよ」と応えた。
 あのときは、すぐにでも直接会うべきだったのだろうか?
 そんな自責の念をも、みずから赦し続ける。

(ちなみに「電話の主」は、教会の人ではない。)
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