水脈

(1)
 「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ伝11:25)

(2)
 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ伝4:14)

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 いのち。
 死んでも生きる、そのような「いのち」。
 「いのち」が具体的に何であるかを今の僕が記述することは、能力的にできないことだ。
 一生論考したって、到底できないと思う。
 ところで最近、どうも調子が良くない。
 それでも、この「いのち」、死者を生かす「いのち」という水脈、これが脈々と流れている。
 最低限の事柄はきっちりこなす。会話も食事も身の回りのことも、億劫ではない。
 第一、忍耐できる。
 昔はこれらが全然だめだった。
 「いのち」とは何ですか? ということのヒントにもならないように思うが、取りあえず書いてみた。

 さて、ヨハネ伝でイエスが仰っていることは、実に一貫性がある。
(福音書全体がそうなのだろうが。)
 そう気付いて、(2)を引用。
 「決して渇くことのない水」、いったん水門が開くや、あふれ出して泉ほどにも大きくなる。
 「渇くことのない水」、これが、(1)での「いのち」。
 一度いのちが流れると(「渇くことのない水」の水門が開くと)、「いのち」は絶えることなく、その水脈が流れ続ける。
 たとえ表出していない水脈であっても、いい。流れていることには、かわりはない。
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