いつも共にいる

 「たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。」(イザヤ30:20)

---

 少し前、孤独に悩んだ時期があった。
 その「感触」は、もう随分前に、やはり孤独を思ったときと、ほぼ同じものだった。
 ただ、少しだけ違っていた。
 その孤独感自体はあっても、「誰か」がいつも共にいる、という、確信めいたものがあったことだ。

 「誰か」、という呼び方はおこがましいだろう。
 私はその「誰か」を「神」だと決め込んでいたものだから。
(「イエス」と呼んでもいいのだろうけど、なんとなく「お父様」と呼んでいる。)
 「誰か」が神であり、私といつも共にいてくださるという根拠なき?確信の程は、今、とても深い。

 上の聖句にあるように、今日も私の目は「私の教師」を見続けている。
 神……。
 そうであれば世間の波風のことなぞどうでもよい、そう実にあっさり割り切ることができたから、あの孤独感の「感触」からは、じきにあっさりと抜け出ることができた。
 ちなみにその前の時は、抜け出るのに相当の時間を要したものだ。当時、既に教会には随分通い詰めていたのだが。

 神が共におられる(イエスがおられる)、 ”心底” そう思えるというのが「信仰」というものではなかろうか。
 信仰、即ち義であり、それは自ずと善行に進ませるはずだ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )