汚れた霊につかれた人

 「イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。

 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。」(マルコ5:2-8,15)

---

 とあるサイトから全くの偶然に、「アンチ某巨大掲示板ブログ」に行き着いた。
 「この某巨大掲示板には、こういう問題があります」という事例が、山のように列挙されていた。
 その中に「爆笑問題の太田さん」をターゲットにした事件というのがあった。
(私は彼を全く知らない。お笑い芸人ですか?)
 「スレ」(?)のタイトルが3つか4つ引用されているのだが、それらは「いのち」や「尊厳」を故意に且つ直接的におとしめる文章であった。
 ただただ驚くほかなかった。

 いろいろと思いあぐねているうちに、「こういうタイトル」を付けてその掲示板にいろいろ書き込む人々というのが、…なんとも気の毒に思えてきた。
 なぜかというと、冒頭に挙げた「汚れた霊につかれた人」の話を思いついたからだ。

 体躯はあっても「いのち」はない。
 五体満足でも汚れた霊にとりつかれている。

 上の巨大掲示板の件は、突出した例にすぎない。
 マテリアルに捕らわれきってしまった人たちを始めとして、もはや「汚れた霊につかれ」ていない人を探すことの方が難しいようにも思える。

 じゃあお前はどうなんだと言われそうだ。
 教会に行く前の、私の物質至上主義といったら、なかった。
 「あの私」が今、「物質至上主義」をネガティブに書いているだなんて。
(無論私にだって、生活してゆく上での金銭が必要なのは大前提だ。)

 また、私も間違いなく、「掲示板」で「同じこと」をやっていたはずだ。そしてそのことを、悪いとも何とも思わなかったに違いない。

 このような変化は、自ら喜ばしい。
 今思うところは、「イエス」が全て、ということだ。

 さて、私はあまり元気とはいえない。
(「あまり」はよけいかもしれない。)
 ときたま、もし自分が「元気」であったなら、と思うことがある。
 が、今の私は、「この元気とはいえない私」なりのやりようというものがある、と思っている。
 なくした右足を嘆いて一生を閉じるか、右足がないことを自覚してどうするか…。
 これもまた、イエスが与えてくださる「いのち」にかかわる話だ。
 私についてこの話でたとえるなら、右足を失ったかわりにいのちを拾った、そのような感覚がとても強い。

(ただ、当たり前かつ「幸い」なことに、「私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません」ピリピ3:13。)

 上に書いた某巨大掲示板を、5年ほど前だろうか、見たことがある。
 2人の神学生が、ののしりあってケンカをしていた。
 以来、見に行ったことはない。

 五体満足ながら汚れた霊につかれ続けたままか。
 右足失っても、与えられた「いのち」を得るか。
 あなたのところにも、イエスは舟をこいで向かっておられる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )