朝一番の飛行機で東京へ。札幌は涼しかったなあ。
この札幌への行き帰りの中でずっと読んでいたのが、「江戸・東京を造った人々1~都市のプランナーたち」(『東京人』編集室編 ちくま学芸文庫)です。
この本は、あとがきによると、「雑誌『東京人』に1988年4月号から1992年12月号までの五年間にわたって連載された47本の人物像を、二つのテーマに分類し、再編集したもの」だそうです。
その一つ目のテーマがこの1巻目の「都市のプランナーたち」で、東京というまちの都市計画や施設作りに情熱を燃やした男たちの物語になっています。そしてもうひとつの2巻目は「文化のクリエーターたち」という表題で一冊になっているのだそうですよ。
今回私が読んでいたのはこの1巻目の「都市のプランナーたち」の物語です。
登場するのは江戸を本格的に開いた徳川家康に始まって、幕府の役人たち、玉川上水を造った玉川家、江戸時代に多かった大火災からまちを守ろうとした知恵伊豆こと松平信綱、渋沢栄一に後藤新平、東京タワーを造った前田久吉まで、まあ実に多彩な人たちばかりです。
東京を便利にしようとした男や、東京に産業を興そうとした男など、それぞれの業績は大きなものがありますが、この本でも多くの登場人物が苦労したのは防災の問題、特に火災対策でした。
江戸時代で最大の大火は、明暦3(1657)年正月18日に発生した、いわゆる明暦の大火です。昼過ぎに本郷の本妙寺から出火した炎はおりからの強風にあおられて、たちまち周囲を焼き、次々に延焼範囲を広げて行きました。
この大火は結局二日後の20日の朝方まで燃え続け、焼死者数は十万人以上と喧伝されたと言います。
江戸城の天守閣もこのときに焼けたのですが、「軍用に益なくただ観望に備ふるのみ、これに財力を費やすべからず」という保科正之の意見が採用されてこの後再建されることはありませんでした。
この大火の後にはいろいろな防火策が講じられ、屋根の庇(ひさし)を取り払って道幅を広げたり、広小路と呼ばれる空き地をつくったりしました。上野広小路など今でも地名で残っていますね。
防火堤が作られたり、大火から数年後の寛文元(1661)年には新しくわらぶきや茅葺きの小屋を建てることを禁止し、そうした屋根には泥を塗るようにさせたりもしました。
このころになると江戸も膨張を始め、昔は場末だった寺や歓楽街が市街地の中心を占めるようにもなっていました。そうして明暦の大火のあとに松平信綱は江戸の改造計画を実行して行きました。
信綱のやり口はなかなかに厳しくて、陰でなじる者も多かったようですが、信綱は「かようなことは相談しているといたずらに日を重ねるのみである。だから後日、失策があったら自分が責任を取ればよいという覚悟で取りはからったのである」と言っていたとか。
また日頃から、「人の分別は遅くともよいものもあるが、われらごときの分別は即座にはっきりさせないと間に合わぬことが多い。たとえば火事が起こったという時に、考えてから対策を立てるようでは火事は大きくなってしまうし、喧嘩が起こった場合に、さあどうするか、と判断してから決めるようでは埒があかない。役人の分別とはよかれあしから即座に料簡がなければ役に立たないものだ」とも言っていたのだそうで、さすがは希代の実力派老中です。
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こんなエピソードがあるそうです。上野仁王門下の町屋が市街整備のために移転を命ぜられたときに、住民たちはたまたま通りかかった信綱に、なんとか移転計画を中止してもらいたい、と訴えたのだそうです。
そのときに信綱は「うまい毒まんじゅうを食って死ぬか、それとも灸をすえて養生長生きいたすか」と言ったのだそう。
住民たちはその意味がわからずに、なお嘆願を続けたのですが、横にいた役人が「まだわからぬのか。伊豆守様が毒まんじゅうと仰せられたのは、このままこの地にとどまって、もし火事でも起こしたらただではすまない、ということだ。だが移転すれば火事があっても通常の作法ですむ。それを灸をすえて養生とたとえられたのだ」と諭し、住民たちもようやく納得したのだとか。
時代は下って後藤新平が関東大震災の復興計画を立てたときには、壮大な計画であったもののときの議会からの反対にあって計画は大幅に縮小の憂き目にあいました。
少しの苦しみに耐えて、ゆたかな社会を作り出すことができるのか、安楽な今に甘んじて同じ轍をなんども踏むことを繰り返すのか。
防災史を眺めていると、理想の計画と反対縮小の小競り合いの歴史のような気がします。
どれだけ明るい未来を指し示し、少しの苦しみに耐えてくれるように世間を説得できるのか。行政や指導者は常にそのことに心を砕いていて、それを果たした者だけが名を残すということなのかもしれません。
理想の計画を世間に納得させる能力が今も昔も求められています。