北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

参議院選挙戦に突入

2007-07-12 23:14:35 | Weblog
 いよいよ参議院選挙が公示されました。案外長い選挙戦の幕開けです。

 年金問題、政治と金の問題、閣僚の辞任など与党にとっては逆風と言われる中での選挙戦の始まりですが、噂や雰囲気に惑わされずに、真剣な一票を投じたいものです。

 ややしばらくは選挙一色になりそうな月の後半。真に心を打つのは誰?どの党?
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「東京を造った人々1」からもう一話~後藤新平物語

2007-07-11 23:45:40 | 本の感想
 先日も紹介した「江戸・東京を造った人々1」(『東京人』編集室 編 ちくま学芸文庫)からもう一話のご紹介。なんといっても東京の都市計画といえば後藤新平。
 後藤新平に関する章は越澤明先生が執筆されています。

 後藤新平は安政4(1857)年に東北地方の現在の水沢市に生まれました。彼の一族には高野長英がいて、本人も医学を勉強し、医師として身を立てましたが、やがて内務省の衛生官僚として官僚人生を歩み始めたのでした。

 やがて彼は陸軍にいた児玉源太郎の信頼を得て、日清戦争で得た植民地である台湾に赴くことになりました。当時の台湾は衛生状態がきわめて悪い島でしたが、島内を調査してもらった東京帝大教授バルトンから、「この島の衛生状態を改善するためには上下水道を整備することと、同時に街路を拡幅・新設するような都市計画を実施すべきである」という報告をうけました。

 後藤新平はこうして台湾において、産業開発と衛生改善のために先行的なインフラ整備をするという原体験を得ることになります。

 やがて彼はその経験を満州事変前の満鉄の経営に生かし、満鉄が鉄道駅を中心とする市街地を自ら計画し、インフラ整備を先行させることで大連や奉天(瀋陽)をはじめとする都市づくりを実現させたのでした。

 やがて彼は日露戦争後の明治41(1908年)に第二次桂内閣の逓信大臣として内地に迎えられました。そして大正5(1916)年には寺内内閣の内務大臣に就任。明治中期に計画された東京市区改正設計(当時の東京都市計画)は大正の頃には関心が薄れ、計画は縮小され細々と続けられていたのですが、後藤と彼のブレーンである佐野利器(としたか)の手によって都市計画法をつくりました。

 しかしこのときにこの法律を審議する過程で、土地増価税や未利用地税のような開発利益を公共に還元するための条項は大蔵省の反対にあってことごとく骨抜きにされたのだと言います。
 
 この章の執筆者である越澤先生は「都市計画の事業財源が確保されなかったため、府県や市はなかなか事業実施に踏み切れなかった。日本では震災や戦災という災害の後でしか都市計画が実行されなかった原因は立法時のいきさつにある」と断じておられます。

    ※    ※    ※    ※

 さて、大正9(1920)年に後藤新平は東京市の市長に就任。東京大改造プランとして東京市の年間予算が1億数千万円の時代に、街路、下水、公園、学校など15項目のインフラ整備のために8億円がいる、という後に「後藤の大風呂敷」と揶揄される計画をぶちあげました。

 彼は大正12(1923)年の4月に東京市長を去ります。そしてその年の9月1日に発生したのが関東大震災でした。

 大震災の翌9月2日に山本権兵衛内閣の内務大臣に就任した後藤新平はすぐさま帝都復興の基本方針をまとめ、構想を世の中に発表しました。このときに彼が東京市長だった頃の計画は非常に役立ったのだと言います。

 後藤新平は東京市復興のために、帝都復興院を設立して自ら総裁を務めました。そして政府としての復興案をまとめ上げてこれを政府提案としたのですが、これを審議した審議会はことごとくこの案を誇大妄想として攻撃します。そして大幅な予算縮小を主張したのでした。

 政府の中には怒りに燃えて議会を解散すべしという強硬論を唱える者もいましたが、後藤はこれをこらえ、縮小修正予算案を受け入れ、これにより帝都復興計画が確定をしたのでした。

 世間の無関心と当時の有力者たちの反対を考えると、よくぞここまでやった、というのが正直な評価なのかもしれません。

 しかし、このときにこの計画に反対した者の名は忘れられ、じっと耐えながら計画を立て実行した後藤新平の名が消えることはないでしょう。
我々はいまこのときの遺産の上に生きています。

 歴史をひもとくと、なぜあのときにここまでやっておかなかったのか、と臍をかむような事柄は多いものです。百年先を見通して計画を立てそれを実行できる英雄は極めて少ないと言えるでしょう。

 後藤新平は昭和4(1929)年に復興の完成を見ずして亡くなりました。

 良き指導者が偶然いたというのは東京にとって最大の幸福だったのかもしれません。
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Green、cool!

2007-07-10 23:03:56 | Weblog
 梅雨らしい雨が降っています。地域によっては災害が発生しています。
 これだけ時代が進歩しても、なかなか災害は防げないものなのですね。

 屋上緑化や壁面緑化は、一時もてはやされましたが、最近はどうもあまり主流になりきれていません。
 やはり管理が難しいのと、屋上に重たい土などを載せようと思うと、本来必要のない荷重がかかるために建物の構造そのものがワンランク上の規格にする必要があるためです。

 従来の規格のままで載せられる荷重の限界を考えつつ、屋上を緑化しようと思うと土の厚さを薄くしなくてはならず、そういうことだと所詮植えることのできる植物には限りがあります。

 逆に全面に土を載せなくても屋上が緑になる発想がないか、といろいろと探したところ、根っこの部分は植木鉢にして、ブドウのようなツル植物をネットの上に広くはわせるという技術もあることを知りました。

 屋上が緑であることの意味は、緑を景観として楽しめるわけでもないので、居住者にはあまり関係がありません。却って近くのより高層の建物からの景観を楽しませることにはなるかもしれませんが。

 また微気候への貢献も、屋上付近の風で熱が奪われるために住んでいる人たちへの貢献もそれほどではないと言われています。

 しかし今や直接的なメリットや効果を求めるよりは、周囲のために自分たちができることをするという価値が見直されているような気もします。

 わが機構が持っているストックでどれくらいのことができるでしょうか。社会への貢献とはなにか、を考えてみたいと思います。

    ※    ※    ※    ※

 知人と飲みながら、もう少し「緑について詳しいことがカッコイイという時代にならないものか」という話になりました。
 
 アニメを見て、Japan,cool!とは叫んでも、Green、cool!とはならないものでしょうか。
 街を歩いていて木の名前がわかるってかっこよくありませんかねえ。
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「江戸・東京を造った人々」を読む

2007-07-09 23:15:36 | 本の感想
 朝一番の飛行機で東京へ。札幌は涼しかったなあ。

 この札幌への行き帰りの中でずっと読んでいたのが、「江戸・東京を造った人々1~都市のプランナーたち」(『東京人』編集室編 ちくま学芸文庫)です。

 この本は、あとがきによると、「雑誌『東京人』に1988年4月号から1992年12月号までの五年間にわたって連載された47本の人物像を、二つのテーマに分類し、再編集したもの」だそうです。

 その一つ目のテーマがこの1巻目の「都市のプランナーたち」で、東京というまちの都市計画や施設作りに情熱を燃やした男たちの物語になっています。そしてもうひとつの2巻目は「文化のクリエーターたち」という表題で一冊になっているのだそうですよ。

 今回私が読んでいたのはこの1巻目の「都市のプランナーたち」の物語です。

 登場するのは江戸を本格的に開いた徳川家康に始まって、幕府の役人たち、玉川上水を造った玉川家、江戸時代に多かった大火災からまちを守ろうとした知恵伊豆こと松平信綱、渋沢栄一に後藤新平、東京タワーを造った前田久吉まで、まあ実に多彩な人たちばかりです。

 東京を便利にしようとした男や、東京に産業を興そうとした男など、それぞれの業績は大きなものがありますが、この本でも多くの登場人物が苦労したのは防災の問題、特に火災対策でした。

 江戸時代で最大の大火は、明暦3(1657)年正月18日に発生した、いわゆる明暦の大火です。昼過ぎに本郷の本妙寺から出火した炎はおりからの強風にあおられて、たちまち周囲を焼き、次々に延焼範囲を広げて行きました。
 この大火は結局二日後の20日の朝方まで燃え続け、焼死者数は十万人以上と喧伝されたと言います。

 江戸城の天守閣もこのときに焼けたのですが、「軍用に益なくただ観望に備ふるのみ、これに財力を費やすべからず」という保科正之の意見が採用されてこの後再建されることはありませんでした。

 この大火の後にはいろいろな防火策が講じられ、屋根の庇(ひさし)を取り払って道幅を広げたり、広小路と呼ばれる空き地をつくったりしました。上野広小路など今でも地名で残っていますね。

 防火堤が作られたり、大火から数年後の寛文元(1661)年には新しくわらぶきや茅葺きの小屋を建てることを禁止し、そうした屋根には泥を塗るようにさせたりもしました。
 
 このころになると江戸も膨張を始め、昔は場末だった寺や歓楽街が市街地の中心を占めるようにもなっていました。そうして明暦の大火のあとに松平信綱は江戸の改造計画を実行して行きました。

 信綱のやり口はなかなかに厳しくて、陰でなじる者も多かったようですが、信綱は「かようなことは相談しているといたずらに日を重ねるのみである。だから後日、失策があったら自分が責任を取ればよいという覚悟で取りはからったのである」と言っていたとか。

 また日頃から、「人の分別は遅くともよいものもあるが、われらごときの分別は即座にはっきりさせないと間に合わぬことが多い。たとえば火事が起こったという時に、考えてから対策を立てるようでは火事は大きくなってしまうし、喧嘩が起こった場合に、さあどうするか、と判断してから決めるようでは埒があかない。役人の分別とはよかれあしから即座に料簡がなければ役に立たないものだ」とも言っていたのだそうで、さすがは希代の実力派老中です。

     ※    ※    ※    ※

 こんなエピソードがあるそうです。上野仁王門下の町屋が市街整備のために移転を命ぜられたときに、住民たちはたまたま通りかかった信綱に、なんとか移転計画を中止してもらいたい、と訴えたのだそうです。

 そのときに信綱は「うまい毒まんじゅうを食って死ぬか、それとも灸をすえて養生長生きいたすか」と言ったのだそう。

 住民たちはその意味がわからずに、なお嘆願を続けたのですが、横にいた役人が「まだわからぬのか。伊豆守様が毒まんじゅうと仰せられたのは、このままこの地にとどまって、もし火事でも起こしたらただではすまない、ということだ。だが移転すれば火事があっても通常の作法ですむ。それを灸をすえて養生とたとえられたのだ」と諭し、住民たちもようやく納得したのだとか。

 時代は下って後藤新平が関東大震災の復興計画を立てたときには、壮大な計画であったもののときの議会からの反対にあって計画は大幅に縮小の憂き目にあいました。

 少しの苦しみに耐えて、ゆたかな社会を作り出すことができるのか、安楽な今に甘んじて同じ轍をなんども踏むことを繰り返すのか。

 防災史を眺めていると、理想の計画と反対縮小の小競り合いの歴史のような気がします。

 どれだけ明るい未来を指し示し、少しの苦しみに耐えてくれるように世間を説得できるのか。行政や指導者は常にそのことに心を砕いていて、それを果たした者だけが名を残すということなのかもしれません。

 理想の計画を世間に納得させる能力が今も昔も求められています。
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レモン蕎麦に挑戦

2007-07-08 23:54:14 | 蕎麦打ち
 札幌に帰省した三日目。今日は次女の友達が我が家に遊びに来るというので、手打ちそばを振る舞うことにしました。
 
 粉はときどき使う、更級蕎麦の美味しいお店から購入。1kgが630円とは、これでふつうに食べられるのなら超お得です。

 更級の粉は黒っぽい田舎蕎麦と違ってつながりが悪く、打つのが難しいのですが、そこは修行の見せ所です。

 ふつうに更級蕎麦を打っても面白くないので、今日はレモン蕎麦に挑戦。柚子蕎麦ならば柚子の皮をおろして混ぜることで柚子の香りがかぐわしい蕎麦ができるのですが、それをレモンでやってみようという趣向です。

 更級蕎麦は水ではつながりづらいので、お湯を使ったりして粘り成分のグルテンをそば粉からできるだけ引っ張り出してつながるようにするのですが、その工程の最後にレモンの皮をおろしたものを入れてみました。

 後はふつうにのして切ればできあがりなのですが、やはりレモンを入れたことでかなりつながりの悪い生地になり、生地が割れてきたりして最後はやや苦戦しました。

 ふつうの更級蕎麦なら細く長く打つことができるのですが、やっぱり変わり蕎麦は慣れないと難しいものです。


 あとはこれを茹でて出すのですが、ふつうの更級蕎麦も打ってみて盛りつけて比べてみると、ほんのすこしだけレモン蕎麦の方が黄色い感じ。そして実際に食べてみると…、うーん、どうだろう…、それほどレモンの爽やかな感じが上手に出ませんでした。


このレモン蕎麦は、札幌市内の評判のお店でも出ているメニューなのですが、やはり一度本物を食してみないといけないようです。何が違うんでしょうね。

 実験台になってくれた我が家の家族にも娘のお友達にも感謝です。こういうことをするから親父の評判がおちるんだな、反省しよ。

  
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カーナビのトラブル

2007-07-07 23:32:04 | Weblog
 久しぶりの我が家で息抜き中です。

 朝に、壊れたテレビを家電リサイクルセンターに持ち込むことになっていました。テレビを車に積んで、リサイクルセンターをカーナビで探そうと地図情報の入ったDVDディスクをナビに入れたところ、正常に動きません。

 ディスクを正常に読み取らないばかりか、イジェクトボタンでディスクを取り出そうとしても出てこなくなりました。

 とりあえずリサイクルセンターは地図で探してたどり着き、今度はカーナビの修理のために車を買ったお店にまっしぐら。どうしちゃったんだろう。

  *    *    *    *    *

 車を買ったショップにたどり着いて、カーナビが壊れたようなんですが、と告げると早速様子を見てくれて、一言。
「これ、ディスクが二枚入ってますね・・・」「ええ・・・?」

 どうやら慌ててディスクを入れた際に、上は地図情報のDVDだったのですが、重ねておかれていた音楽用データの入ったCDとを二枚重ねて入れてしまったようなのです。
「そういえば、なんだかディスクが厚いなあ、と思ったんです」

 振り返ると思い当たることはあっても後の祭り。とりあえずはずしてメーカー修理でお願いしようということにして、ダッシュボードをはずしてカーナビの本体をはずしてもらうことにしました。

 30分くらいかけて本体をはずしてもらったところ、「これ、ディスクが見えるので、通電してひっぱればディスクがとれるかもしれませんが、どうします?もしかしたらディスクが傷ついちゃうかもしれませんけど」とのこと。

 これでメーカーへ持って行ったらまた時間とお金がかかると思い、「じゃあやってみましょう」と決断。

 再び配線丸出しの車へ向かって電気をいれてイジェクトボタンを押しながらペンチでディスクを引っ張り出してみたところ、おお!無事にディスクの取り出しに成功したのでした。助かったー。

 慌てて何かをするとロクなことがありません。今度からは慎重にここが懈怠と改めて反省をしました。

 それにしても二枚重ねてディスクを入れてしまうとは・・・、失敗、失敗。

 
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札幌帰省と不思議な出会い

2007-07-06 23:46:35 | Weblog
 夕方の便で札幌へ。二ヶ月ぶりの帰省です。

 空港からJRに乗り、家の近くの駅で降りて改札を出ようとしたところで知人から声を掛けられました。

「あ、こままささん?」
「あれ、こんにちは。こんなところで偶然ですね」

「送別会に出るために帰ってきたの?」
「え?だれの送別会ですか?」

 なんと3月まで北海道にいたときに、地域の盛り上げに大活躍していたI君の大送別パーティが、私も送り出してくれた同じ会場でまさにこれから始まるというのです。

「ええ?全然聞いてませんでしたよ。そもそも今日そういうことがあると思って飛行機を押さえていた訳じゃないですしね」

 しかしこれもまたなにかの縁かもしれません。一度分かれて家で食事をしてから、ふたたび会場に向かい顔を出してみました。

  *    *    *    *    *

 私の時も50人くらいが集まってくれて賑やかに送り出してくれましたが、今回は人気者のI君だけに、さらに多くの人たちが繰り出して楽しそうなパーティの真っ最中。おまけに私の時よりも演出が格段に向上しています。

 企画・演出のコウ君に会いました。「あっ!やっぱり!来てくれると思いましたよ」
「なんだい、情報を教えてくれなかったじゃないか」
「うすうす今週末は帰省されると聞いていたんですが、敢えてお伝えしませんでした。縁があれば来てくれるかな、と・・・」
「そうなんだよ。ついさっきまで知らなかったんだけど、そういうことになっていたんだなあ」

 なぜ夕方の飛行機にして、そこから乗り合わせた電車のタイミングで知人に会えるものなのか。
 なんとも不思議なこともあるものです。

 でもおかげで懐かしい友達にも会えたし、新しい知人も紹介してもらいました。

 そういうタイミングの時はなだれ込め、ということなのでしょう。不思議な一日でした。
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「陰口」よりも「かげほめ」で

2007-07-05 23:19:37 | Weblog
 もわーっと暑い一日。雨が降らないのが幸いです。

 今日は北海道時代に知り合って、今は偶然勤め先が近い国土交通省の法律エースとの同窓会。ついでに、近くの法律屋さんたちにも声をかけて4人で楽しく語り合いました。

 場所は横浜の野毛地区で、昔ながらの飲屋街がちょっとした風情になっています。ここももう少し探検しておく方が良さそうです。

 さて、今の時期はちょうど国土交通省の幹部の移動時期と重なっていて、異動して新しいポジションに着く人などいろいろな先輩たちのうわさ話ももりだくさん。
 今日のメンバーの中からもきっと将来の事務次官や局長が出ることでしょう。法律職の人たちの頑張りと使われ方は尋常ではないのです。そしてそれに耐えた人が出世をして行くというシステム。決してエスカレーターなどではありません。

 話のなかで盛り上がったのが、国土交通省から農水省の課長として出向中の身ながらこの6月にキャリア官僚を辞めて俳優に転身をしたSさんのこと。

 さすがに法律職の仲間としては噂になっているようですが、驚くべき転身です。
「でも彼、奥さん先生だしなあ。とりあえずは食えるんだろうなあ」「第二の役所広司ですかね」などと、とかく人の噂はもりあがるものです。

 人の噂をするときは褒めるうわさ話は良いけれど、こき下ろしたり悪いエピソードをことさらに開陳するのはいただけません。
 「あの人はこういうところがすごかった」
 「ああ見えて、こういうことがあって案外優しいんですよ」  

 こういううわさ話を「かげほめ」というそうです。陰で褒めるから、ですが、そういう噂は巡り巡って本人にも周りにもよく伝わるものです。

 同じうわさ話をするなら「陰口」ではなくて、「かげほめ」でいきたいものですね。

 さて、明日からの週末は久しぶりの札幌帰省です。家族はみんな元気にしてるかな。
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日本の中世思想史をかいま見る

2007-07-04 23:19:13 | Weblog
 夜になって一時強い雨が降りました。神奈川県には洪水警報も出るほどで、雨ももう少し穏やかに降ってほしいものです。


 久間防衛大臣が「しょうがない」という発言で辞任に追い込まれました。「原爆投下もしょうがなかった」という一言が世論の反発に火をつけてしまったようですが、どうも言葉狩りの傾向がみられて、いささか不安な気もします。

 一度世間のこうした怒りに火がつくと、元の発言がどういう文脈でどのような前提で行われたかも問われることなく、問題のワンフレーズだけが飛び交って批判を強めているようにも思えます。

 もちろん唯一の被爆国として核の根絶を訴えるという運動の価値は前提なのですが、発言がやや不用意だったにしても、一国の重要な行政分野の代表を簡単に変えてしまうのだから恐ろしいものです。

 これが現代マスコミと密接不可分の現代民主主義だと言ってしまうとそれまでなのですが怖いですね。

    ※    ※    ※    ※

 ここのところ、つぎつぎに本を購入して「つん読」状態になっています。

 今読んでいるのは「日本人の信仰思想のすがた」(中島亮一著 文芸社)で、これがめちゃくちゃ面白い!日本の歴史に登場する思想家の姿とそこから派生した、主に神仏習合の有様が非常に面白く語られています。

 日本はもともと原始神道だったところに中国から仏教が伝来し、一悶着あったのですが、そこは日本人、その両者に折り合いをつけつつ、さらに道教や民間信仰を取り入れて、神仏の両方がつかず離れず進化してきたのです。
 それが神仏習合というきわめて日本的な状態でありました。

 日本人にとっては仏教の神様も、遠くから来て御利益のある神様のようなものだったわけで、それはどちらかというと仏教側からそうしたアプローチがあったのだとか。

 なかでも後の鎌倉仏教につながる、平安時代の最澄と空海の物語は目からウロコです。

 これはまた日を改めてじっくりと紹介したいので今日はここまで。こういうお話を聞くと日本の思想史も楽しくなるのですがね。
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島田紳助のビジネス本~ご飯を大盛りにするオバチャンの店

2007-07-03 23:49:43 | 本の感想
 私の好きな芸人さんの一人が島田紳助。独特のツッコミとボケが冴え渡る、日曜夜の『行列のできる法律相談所』なんかは最高です。

 その彼がビジネスとは何か、という彼のビジネス極意を表したのが「ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する~絶対に失敗しないビジネス経営哲学」(幻冬舎新書)です。

 島田紳助は普段から「資産44億円」などと週刊誌でも書かれ、それもまたネタにしながら笑いを取っていますが、本当に彼はサイドビジネスを手広く広げているのです。

 世の中にはタレントショップを展開する芸能人が多くいますが、彼自身は芸能人であることを有利に感じながらも、「本当にお客さんの期待に応えられないような商売だったら早晩つぶれる」とシビアな現実感も持ち合わせています。

 なによりこの本は、表紙に書かれているような「ビジネス経営哲学」というよりは彼自身の考え方や生き様が示されています。

 彼自身はあくまでも芸人なので、ビジネスは自分自身の「こうしたら受けるんちゃうかな」というアイディアが世の中に本当に通用するかどうかのゲームなのだ」といっています。ただしそれは芸能人の副業ということではなくて、あくまでもそれで世の中に対して勝負を挑むという意味での真剣なゲームです。

 しかし彼自身は実はビジネスが成功したとたんにもう醒めてしまって、その後でもうけを追求することには全く興味がわかないのだ、とも言っています。

 パリ~ダカールレース、通称「パリダカ」を企画したティエリー・サビーヌという人がいました。サビーヌはこれだけのレースを企画しながら、自分自身は一度もレースには参加しませんでした。そのうえ、参加者の救助に向かうヘリコプターが墜落してわずか29歳で亡くなったことで、「人を危険な目に遭わすから罰が当たったんだ」と陰口まで叩かれたそうです。

 そのサビーヌは「自分が冒険する訳じゃない。みんなを冒険の扉までつれていくのが自分の仕事だ」と言っていたのだそうです。

 伸助はその言葉が好きで、それをもじって、若くて力のあるやつに商売のマシンを与えて、ビジネスという冒険の扉の前に立たせ「おまえやったらダカールまで走りきれるよ」と言ってやりたいのだ、と書いています。

 そのときに商売を任せる相手は、「こいつを男にしたろ」と思うような惚れ込んだ相手に限る。そういうやつじゃなかったら信頼しない。ビジネスは、こいつだったら裏切られても仕方のないと思えるくらい好きになったやつとやるべきだ、そう彼は書いています。

 本の中身は、ビジネスのノウハウ本などではなくて、そうしたちょっとしたアイディアを大事にしている生き様と、そのアイディアにかけて勝負を挑み、負けたことがないという生き方の実践哲学が中心です。

 いかに彼が、真剣に取り組むがんばりと、仲間と、売る方と買う方の両者がともに幸せになるビジネスこそ本物、という感覚を大事にしているかが伝わってきます。

 本のタイトルの「ご飯を大盛りにする…」は本文からの抜粋ですが、この前後の文章がなくては彼の真意は伝わらないでしょう。本文にはこう書かれています。


「満足感と値段が釣り合っていれば客は納得する。値段に比べて満足感が大きければ、この店はお客のために努力してはるんやなあと感動する」

「別に高級料理店じゃなくても、学生向けの定食屋だってそうだ。お腹をすかせた学生の顔を見て、ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する」

「『オバチャンの店に行くのは腹一杯食えるからや』と学生は言うかもしれないが、ほんとはみんな、オバチャンの気持ちがうれしいのだ。客は料理だけを食べているわけじゃない。店の人の気持ちも一緒に食べているのだ」(本文132pより)

 彼の経営する寿司や「はせ川」には彼の信念が彼自身によって書かれて額に飾られているそうです。その中の一節は、

 人生プラスマイナスゼロである
 しかしマイナスをプラスに変えた人が勝者になる
 失敗してしゃがんだ後はジャンプです


 島田紳助、なかなかの詩人でもありますねえ。ただの芸人ではありません。

  
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