北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「東京を造った人々1」からもう一話~後藤新平物語

2007-07-11 23:45:40 | 本の感想
 先日も紹介した「江戸・東京を造った人々1」(『東京人』編集室 編 ちくま学芸文庫)からもう一話のご紹介。なんといっても東京の都市計画といえば後藤新平。
 後藤新平に関する章は越澤明先生が執筆されています。

 後藤新平は安政4(1857)年に東北地方の現在の水沢市に生まれました。彼の一族には高野長英がいて、本人も医学を勉強し、医師として身を立てましたが、やがて内務省の衛生官僚として官僚人生を歩み始めたのでした。

 やがて彼は陸軍にいた児玉源太郎の信頼を得て、日清戦争で得た植民地である台湾に赴くことになりました。当時の台湾は衛生状態がきわめて悪い島でしたが、島内を調査してもらった東京帝大教授バルトンから、「この島の衛生状態を改善するためには上下水道を整備することと、同時に街路を拡幅・新設するような都市計画を実施すべきである」という報告をうけました。

 後藤新平はこうして台湾において、産業開発と衛生改善のために先行的なインフラ整備をするという原体験を得ることになります。

 やがて彼はその経験を満州事変前の満鉄の経営に生かし、満鉄が鉄道駅を中心とする市街地を自ら計画し、インフラ整備を先行させることで大連や奉天(瀋陽)をはじめとする都市づくりを実現させたのでした。

 やがて彼は日露戦争後の明治41(1908年)に第二次桂内閣の逓信大臣として内地に迎えられました。そして大正5(1916)年には寺内内閣の内務大臣に就任。明治中期に計画された東京市区改正設計(当時の東京都市計画)は大正の頃には関心が薄れ、計画は縮小され細々と続けられていたのですが、後藤と彼のブレーンである佐野利器(としたか)の手によって都市計画法をつくりました。

 しかしこのときにこの法律を審議する過程で、土地増価税や未利用地税のような開発利益を公共に還元するための条項は大蔵省の反対にあってことごとく骨抜きにされたのだと言います。
 
 この章の執筆者である越澤先生は「都市計画の事業財源が確保されなかったため、府県や市はなかなか事業実施に踏み切れなかった。日本では震災や戦災という災害の後でしか都市計画が実行されなかった原因は立法時のいきさつにある」と断じておられます。

    ※    ※    ※    ※

 さて、大正9(1920)年に後藤新平は東京市の市長に就任。東京大改造プランとして東京市の年間予算が1億数千万円の時代に、街路、下水、公園、学校など15項目のインフラ整備のために8億円がいる、という後に「後藤の大風呂敷」と揶揄される計画をぶちあげました。

 彼は大正12(1923)年の4月に東京市長を去ります。そしてその年の9月1日に発生したのが関東大震災でした。

 大震災の翌9月2日に山本権兵衛内閣の内務大臣に就任した後藤新平はすぐさま帝都復興の基本方針をまとめ、構想を世の中に発表しました。このときに彼が東京市長だった頃の計画は非常に役立ったのだと言います。

 後藤新平は東京市復興のために、帝都復興院を設立して自ら総裁を務めました。そして政府としての復興案をまとめ上げてこれを政府提案としたのですが、これを審議した審議会はことごとくこの案を誇大妄想として攻撃します。そして大幅な予算縮小を主張したのでした。

 政府の中には怒りに燃えて議会を解散すべしという強硬論を唱える者もいましたが、後藤はこれをこらえ、縮小修正予算案を受け入れ、これにより帝都復興計画が確定をしたのでした。

 世間の無関心と当時の有力者たちの反対を考えると、よくぞここまでやった、というのが正直な評価なのかもしれません。

 しかし、このときにこの計画に反対した者の名は忘れられ、じっと耐えながら計画を立て実行した後藤新平の名が消えることはないでしょう。
我々はいまこのときの遺産の上に生きています。

 歴史をひもとくと、なぜあのときにここまでやっておかなかったのか、と臍をかむような事柄は多いものです。百年先を見通して計画を立てそれを実行できる英雄は極めて少ないと言えるでしょう。

 後藤新平は昭和4(1929)年に復興の完成を見ずして亡くなりました。

 良き指導者が偶然いたというのは東京にとって最大の幸福だったのかもしれません。
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