北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

まちのなかに広場はいかが

2007-07-19 23:10:58 | Weblog
 ここへ来てあまり気温が上がらず涼しい日が続きます。梅雨が明けたら暑くなるのでしょうけれど。

 今日は公園緑地行政の諸先輩に集まっていただき、「広場」について意見交換をしました。

 皆さんは「広場」というとどういう場面を思い起こすでしょうか。駅前広場?ラジオ体操?神社やお寺の境内?それとも学校のグラウンドでしょうか。

 実は「広場」というのは都市計画法上にも道路や公園などとともに、都市施設の一つとして位置づけられているのです。

 しかし都市公園が住民の住む近隣住区と呼ばれる単位に街区公園(昔は児童公園といいました)、近隣公園などが計画的に整備されているのに対して、広場の方はあまり計画的に整備されているとはいえません。

 東京で見かける広場と言えば皇居前広場や、規模は落ちますが新橋駅前の機関車のおいてある広場のようなイメージです。

 これがヨーロッパなどへ行くと、市役所前や教会の前には必ずと言って良いほど市などが開かれる広場があるものです。そこでは広場に面したカフェがテーブルや椅子を持ち出して市民が集い憩う空間として文化としても立派に日常の生活にとけ込んでいます。

 日本の場合、町が発展する歴史の中で広場が登場するということがほとんどありませんでした。強いて言えば市などは神社や寺の境内か村はずれの空き地に突然掘っ立て小屋が造られ、市が終わればまたあっという間にもとの静かな場所に戻るという形が主だったと言います。

 市の場としても広場はふつうの空間にはなり得なかったのです。

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 しかし日本の場合、スペースを場として常設にするのではなく、場の機能を使い分ける知恵が発達していたとも言えそうです。

 畳の部屋に布団を敷けば寝室に早変わりするというわけです。

 神社のお祭りのにぎわいも、いつもにぎわう必要はなくて、市が開かれたり祭りが行われるときだけにぎわっていれば良いのかもしれません。

 ここでいう広場に期待されることは、日常のにぎわいの空間ということです。まちなかに都市公園があったとしてもその多くは端を道路で切り取られ、その外の物販や飲食機能とは切り離されてしまっていることが多いものです。公園がそのまま建物の前に広がらない理由は、建築基準法が建物を造るときは道路に接していなくてはならない、ということを規定しているからだと言われます。
 それとても法律で担保された空地ならば認められるはずなのですが。

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 機能としての広場機能ならば、まちなかの歩行者天国がまさに広場の機能を果たしています。車が通らないまちなかの通りには飲食の屋台が出たり物販のワゴンが出たり、そこここでイベントが行われてにぎやかですよね。
 
 そこで夫婦や恋人が笑顔で語らい、ここを利用する人たちのコミュニティが形成される…、それこそがまさに広場に期待される機能です。

 私たちは道路を広場的に使わせてもらうことでときどき喜びを味わっています。しかし発想を転換すれば、普段こそ広場的に使って、ときどき車を通ることをしぶしぶ認めてあげる、という主客が逆転したまちの作り方だってあるのではないでしょうか。簡単な話ではありませんが。

  

   

 ビルが高層化するときには、公開空地と言って敷地を一般に使えるようにすると高さのボーナスがもらえたりします。東京ミッドタウンでもそうした空地が上手に作られていますが、所詮建物の付属物としてしか見られていないのが残念です。

 まちのなかに広場がある、そんなまちができたら斬新なのですがね。

 
コメント
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