北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

東京自転車巡り~小石川・護国寺・雑司ヶ谷・池袋・早稲田

2007-07-22 23:02:18 | 東京探検
 朝方は雨が降っていて、(今日はまち巡りはできないかな)と思ったのですが、9時前に上がり今日も自転車巡りをすることができました。

 考えてみると梅雨の季節を通じて、週末に雨が降ってまち巡りが中止になったということがありませんでした。お天気の神様に見守られているようです。
 自然霊のお稲荷さんにご挨拶をしておくことにいたしましょう。

    ※    ※    ※    ※

 今日も文京区春日の貸し自転車場で電動自転車を借りてまち巡りに出発。よくよく調べてみると、春日という地名は春日局が拝領した土地からきているのだとか。意外なところで歴史にふれることができるものです。

 今日まず見に行ったのは、文京区の播磨坂と呼ばれる延長約500mの区間の道路です。ここは戦災復興時に環状3号線として計画を去れたのですが、ここだけができて桜並木として有名になったものの、その前後が全く整備されていない現状にあります。

  

 「東京都市計画物語」の著者である越澤明先生は「この道路こそ、東京復興計画の挫折を象徴する情けない現実の姿である」と断じています。

 実際に見に行くと桜の木が大きくなり、地域の花見の名所として愛されているということは分かりますが、道路の機能としてはそれは徒花(あだばな)であって、人流や物流をになう都市インフラとしては全く機能していない現実がよく分かるのでした。

 インフラ整備はお金だけではできませんが、現在の東京都のような景気の良いときにこそ子々孫々のための百年の計にたった都市整備が求められることでしょう。
 その象徴をまさにここに見ることができました。

    ※    ※    ※    ※

 続いては東京大学付属植物園である小石川植物園。

  

  

 入り口に「入園券は向かいのタバコヤで買ってください」とあるのが面白い。自ら券売をする手間を省くという意味では近隣のお店と連携するというのは面白い方法です。

 さてこの植物園、遠く歴史をたどるとその事始めは将軍職に就く前の徳川綱吉の白山御殿の跡地に徳川幕府が作った「小石川御薬園」に遡ることができます。

 その後八代将軍徳川吉宗の時代にはここに「養生所(あるいは施療院ともいう)」が設けられ、その井戸の跡が今でも残されています。明治10年からは東京大学付属植物園として管理されていますが、植物学上の幾多の大発見がここでなされているのです。

 関東大震災時にはここへ避難してきた人も多く、最後の居住者が退去して復興がなされたときの記念碑が今でも残されています。探せば災害の痕跡というのはあちらこちらにあるものです。

  
    ※    ※    ※    ※

 そこから池袋方面へ向かって護国寺へ行きました。こういうところも思い立たないと案外行かないものでしょう。

  

 雑司ヶ谷の墓地にも行って、小泉八雲のお墓を探しましたが残念ながら見つけられませんでした。次こそ。

 雑司ヶ谷には庶民の信仰を集めた鬼子母神があります。なんだか神様なのか仏像なのかがよく分からないままに信仰を集めているようすが伺えて、神仏習合時代の有様が想像できました。
 でも今はお寺としてお参りするのが正しいのです。

  

 鬼子母神は、他人の子供を食う恐ろしい鬼でしたがお釈迦様に自分の子供を隠されて、子を失う親の悲しみを知り、それからは子供を守ることを誓ったのだとか。
 そのため、恐ろしい鬼ではないことから「鬼」の漢字から角を取った文字で表されているのだそうですよ。

  

    ※    ※    ※    ※

 あとは池袋~早稲田~大久保~神楽坂などを通って帰ってきました。訳も分からず毎週走り回っていますが、そろそろいろいろな土地が有機的に結びついてきました。
 やはり継続は力なりですね。
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北東京を巡る~谷中・根津・王子・十条・板橋・巣鴨

2007-07-21 23:03:36 | 東京ウォーク
 気温もそれほど上がらず涼しいくらいの一日。日差しも弱くて外を巡るには最高の一日。週末は東京巡りです。

 文京区春日にある貸し自転車場を起点にして、今日は北方面への足を伸ばすつもりです。

 今日は電動自転車を借りてみました。どんなものだか一度乗ってみたかったのです。料金は他と変わらず一日500円。左に電気のはいるスイッチがあって、右にはふつうの自転車と同じく三段の変速機能もついています。スイッチを入れなければ少し重たいだけの普通の自転車です。上り坂にだけ使えば良さそうです。

  

  

  

 そんな自転車でまずは「谷根千(やねせん)」と呼ばれる、谷中・根津・千駄木方面へ向かい、根津神社へ。

  

 ここ根津神社は、日本武尊が千駄木の地に祀ったと伝えられる古い神社で、文明年間には太田道灌も社殿を奉建しているそうです。江戸時代の五代将軍徳川綱吉が、世継が定まった際に現在の社殿を奉建し、千駄木にあった旧社地から今の地へ御遷座したのです。
 宝永二年のこのときに五大将軍綱吉は、世に『天下普請』と言われる大造営を行ない、現在の権現造りの社殿・唐門・楼門・透塀等をつくり、これらは昭和六年国宝(現重文)に指定されています。

 後に六代将軍家宣は正徳四年に、江戸全町より山車を出し、俗に天下祭と呼ばれる壮大な祭礼を執行しましたが、江戸の三大祭りとは、山王祭、神田祭、そしてこの根津神社のお祭りなのそうだそうですよ。いや、立派な神社でした。

    ※    ※    ※    ※

 続いては谷中~千駄木の裏路地の密集地帯を散策。へび道路と呼ばれる左右にくねくねと曲がった道路を走ると「なんでこんな道路ができたのか」と不思議に思います。

 密集地区によく見られるのは元気のある商店街。よみせ通りを走っていると「谷中銀座」という路地があったので入ってみると、これがまた人通りが多く賑わいにあふれています。

  

 お腹がすいたので立ち食い蕎麦屋さんに入れば、店主のお爺さんとも会話が楽しめます。
「おじさん、地図にある『夕焼けだんだん』ってなあに?」
「そりゃ、店の前にある階段がそうさ」

  

「なんで『夕焼けだんだん』って言うんですか?」
「あの段々から観る夕焼けがそりゃきれいでな、それで夕焼け段々って言ったんだ。今はビルが建っちまって駄目になったがナ。このあたりは東京でもひときわ高いところでナ、富士山もよく見えたもんであちこちに富士見○○という地名があるんだよ」

  

「へー、おじさんは何でも知ってるねえ」「へっへっへ~」

 こういう会話ができるのが商店街の触れあいですね。それに、ただの階段が「夕焼けがきれいに見えた」というだけで地域の名所になるというのもすごい。地域の財産はこんなところに転がっているのか、という思いです。

    ※    ※    ※    ※

 それから今日は庭園巡りとしゃれ込みました。まずは六義園(りくぎえん)。

  

 ここは柳沢吉保が元禄15(1702)年に築園した本格的な大名庭園です。明治時代になって三菱の創業者岩崎弥太郎の別邸となり、その後昭和13年に岩崎家から当時の東京市に寄付され、今では国の特別名勝に指定された貴重な文化財です。すばらしく目の保養になりました。
 六義園の六義とは、中国の詩の分類法(詩の六義)にならい、古今集の序にある和歌の分類の六体に由来したもなのだとか。名勝はその名の由来を知るにも教養が必要なのです。

    ※    ※    ※    ※

 六義園に来たならすぐ近くにあるのが旧古河庭園です。ここは上野御徒町にある旧岩崎邸の洋館設計や鹿鳴館、ニコライ堂などを手がけ日本の建築界に偉大な足跡を残しているジョサイア・コンドルの設計した洋館が残されています。

  
  
 そしてこの西洋建築に、日本の庭園技術を併せ、洋風と和風の組み合わせの妙が観られるこれまた名園なのです。

 こちらの洋館は、内部の見学の時間帯を決めたボランティアツアーによらないと見せていただけないのがちょっと残念。洋館を観たければ時間を確認してから行くのがよいですよ。

    ※    ※    ※    ※

 そこからさらに自転車を走らせて、飛鳥山公園、王子から十条の密集地区などをぐるりと観て回りました。

 最後は板橋から旧中山道を通って帰ってきましたが、この旧中山道はずーっと商店街が続いています。そうして都電荒川線と交差するところにあるのが、以前も紹介した駅直結で甘味処のある庚申塚駅。

 その庚申塚というのは、巣鴨地蔵通り商店街の入り口にある猿田彦神社と一緒になったところ。
 そうか、やっと地図が実感としてつながりました。

  

 巣鴨地蔵通りはこれまた人通りの多い商店街ですが、一番の賑わいはやはりとげ抜き地蔵として知られる高岩寺です。

 観光客の多くはここへお参りに来て帰るというパターンが多く、賑わいのある商店街として巣鴨地蔵通りを見学して、「商店街にこうした信仰を集める施設があるとにぎわう」と感じがちです。

 しかしこの中山道はずっとこうした通りが続いているわけで、そもそもは周辺の住民の人たちとの密接なつながりがベースにあるということを知ることが大切です。

 はやらなくなった商店街にお地蔵さんを置いてもそれだけでは駄目なのです。

    ※    ※    ※    ※

 電動自転車は坂道ではぐいぐいと引っ張ってくれるので非常に楽。自転車乗りとして少し恥ずかしいけれど、はまりそうですよ。

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集合住宅~みんなで住むというモノとコト

2007-07-20 23:51:35 | Weblog
 今日の午後は職員を対象としたセミナーに参加です。会場は横浜の奥にある我が組織の研修センター。セミナーのタイトルは「集まって住む・集合住宅を考える」です。

 集合住宅を造っている我々にとって、集まって住むということについてしっかりとした意識と見識を持つことは重要です。今日も興味深いお話が聞けました。

 今日の講師は、愛知産業大学の延藤安弘先生と、東北大学名誉教授の近江隆先生のお二人です。

 まずは延藤先生から。延藤先生は分譲マンションの持つ匿名性や他人と関わらない日常生活に対して、コーポラティブ住宅という社会実験で一石を投じた方です。

   

 コーポラティブ住宅をインターネットで調べると、「まちづくり関連用語集」にはこう書かれていました。

 ** 以下引用 **
 住宅の購入を考えている人たちが集まり、共同で土地を購入し、自分たちで設計と工事を発注し、住む側の要望に沿って作られる住宅のことをコーポラティブ住宅といいます。日本では、昭和40年代に提唱された方式で、約30年の歴史があります。住都公団でも公団がコーディネーターとなってコーポラティブ住宅を建設する制度があります。

 メリットとしては、まず、一般の分譲マンションよりも安く購入できることが挙げられます。一般的な分譲マンションの価格には、モデルルームの建設費、折り込みチラシ等の宣伝広告費が含まれています。その分をカットできることで、価格を原価に近づけることができます。また、自分のライフスタイルや感性に合わせて設計を進めることができる点も大きなメリットです。さらに、そこに住む人たちが共同で事業を進めますので、入居後のコミュニティ形成がスムーズになり、管理もしやすくなります。

 そうしたメリットの一方で、住宅完成までの期間が長期になりやすいことや、住む側(組合)に資金調達力がないことなど、問題もあります。

 いずれにしても、コーポラティブ住宅は、住む人による、住む人のための住宅ということができます。既成の住宅タイプから「選択」するのではなく、自分のライフスタイルや哲学、感性等を反映させた住まいを「作る」わけです。「選択」にかけるエネルギーと「作る」ことにかけるエネルギーとではその量は大きく異なることは自明の理です。ですが、あらゆる分野でニーズが多様化していくこれからの時代にとって、この方式は今後も注目されていくでしょう。
 ** 引用終わり **

 はじめから住もうと言う人たちが集まって共同で集合住宅を建てる試みを、延藤先生は京都のユーコートという取り組みで始めました。ユーコートの完成は1985年のことで、住民がそこに住み始めてからもう22年が経過しています。
 
 延藤先生は建物ができてからもずっとここで定点観測を続けて、その後の住人たちがどのような化学変化を起こしたかをつぶさに観ています。

 今回は、観察で得られた多くのネタの中から、当時ユーコートに移り住んできた子供達に着目して、今成長した彼らに「ユーコートでの生活はどうだったのか」というインタビューを行い、そこから近隣のコミュニティの価値を伝えてくれました。

 延藤先生のやり方は、スライドを二台使って交互に映像を展開して笑いを誘いながら物語を聴かせてくださいます。

 「ユーコートが完成したとき、大人たちはうれしさのあまりダンスを始めました…」

  

 「○○のおっちゃんはあまりにうれしくなりすぎて池にはまってしまいました」

  

 「このおっちゃんはその後何回こうして池にはまったことやろう…」会場の笑いを誘うスライドが繰り広げられます。

    ※    ※    ※    ※

 子供達も小さい頃からのユーコートの中庭でい年齢の友達と遊んだ日々を印象的に思っていて、「いつかは自分がここで住みたいので、お父さんお母さんには出て行ってもらいたい(笑)」という夢を持っています。

 子供達に「地域の人たちの顔が見えることのマイナスはあっただろうか」という問いをしたそうです。するとある男の子が「試験を受けて駄目だった、と思うときにもおじちゃんおばちゃんに会ってしまう。『試験どうだった?』と言われるのがいやだったなあ…」という答えが返ってきたとか。

 そういう人たちのユーコートというコーポラティブ住宅はまだ成長の途上です。

    ※    ※    ※    ※

 もうお一人の近江先生は、集合住宅が抱えている「区分所有」という法的仕組みの限界と落とし穴についてお話をしてくださいました。

  

 近江先生は、分譲マンションを「中途半端な財産だ」と考えます。持ち家ではあるが、柱や壁などは共有でもあり、自分の思い通りにはならないのです。
 共同社会を維持する義務を有していながら、その構成員は選択が不可能。財産の価値を一人で維持したり拡大することが難しく、かつまた財産の形を変えることも難しいのです。

 マンションをして「建て替わって永遠に存在する、という思想を持つ宗教的な建物ではないか、とさえ思うのです」
 「おまけに集団自決を強要されるのです。自分だけ(1戸)では死ぬこともできず、全体がもうだめだ、となったら死ぬしかないのです」

 そこで先生は、建て替えと大規模修繕の間にある建物の延命の道を探るべきで、区分が個別に死ぬことを認められるように、また建物の部分建て替えという新しい概念を加えるべく、法律をしっかりと変えて行かなくてはならないと力説されます。

「いまの区分所有法は民法の特別法なので、区分所有法に書かれていないことは民法で判断することになります。建て替えという最も大きな権利に関することは住民の4/5の賛成という多数決で可能となるのに、部分建て替えには規定がないので全員合意が求められています。これがいかにもアンバランスなのです」

 マンションという形態の財産についてこれだけまじめにお話を聞いたのは初めてだったので印象的でした。また勉強しなくてはならない分野が増えました。

    ※    ※    ※    ※

 今日の講義は集合住宅について、みんなで住むという「コト」を大事にしたコーポラティブハウスのお話と、それが自分と、みんな共有の両義的な財産性をもつ「モノ」という面から観たお話のように思いました。

 どちらも奥が深い。勉強になりました。
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まちのなかに広場はいかが

2007-07-19 23:10:58 | Weblog
 ここへ来てあまり気温が上がらず涼しい日が続きます。梅雨が明けたら暑くなるのでしょうけれど。

 今日は公園緑地行政の諸先輩に集まっていただき、「広場」について意見交換をしました。

 皆さんは「広場」というとどういう場面を思い起こすでしょうか。駅前広場?ラジオ体操?神社やお寺の境内?それとも学校のグラウンドでしょうか。

 実は「広場」というのは都市計画法上にも道路や公園などとともに、都市施設の一つとして位置づけられているのです。

 しかし都市公園が住民の住む近隣住区と呼ばれる単位に街区公園(昔は児童公園といいました)、近隣公園などが計画的に整備されているのに対して、広場の方はあまり計画的に整備されているとはいえません。

 東京で見かける広場と言えば皇居前広場や、規模は落ちますが新橋駅前の機関車のおいてある広場のようなイメージです。

 これがヨーロッパなどへ行くと、市役所前や教会の前には必ずと言って良いほど市などが開かれる広場があるものです。そこでは広場に面したカフェがテーブルや椅子を持ち出して市民が集い憩う空間として文化としても立派に日常の生活にとけ込んでいます。

 日本の場合、町が発展する歴史の中で広場が登場するということがほとんどありませんでした。強いて言えば市などは神社や寺の境内か村はずれの空き地に突然掘っ立て小屋が造られ、市が終わればまたあっという間にもとの静かな場所に戻るという形が主だったと言います。

 市の場としても広場はふつうの空間にはなり得なかったのです。

    ※    ※    ※    ※

 しかし日本の場合、スペースを場として常設にするのではなく、場の機能を使い分ける知恵が発達していたとも言えそうです。

 畳の部屋に布団を敷けば寝室に早変わりするというわけです。

 神社のお祭りのにぎわいも、いつもにぎわう必要はなくて、市が開かれたり祭りが行われるときだけにぎわっていれば良いのかもしれません。

 ここでいう広場に期待されることは、日常のにぎわいの空間ということです。まちなかに都市公園があったとしてもその多くは端を道路で切り取られ、その外の物販や飲食機能とは切り離されてしまっていることが多いものです。公園がそのまま建物の前に広がらない理由は、建築基準法が建物を造るときは道路に接していなくてはならない、ということを規定しているからだと言われます。
 それとても法律で担保された空地ならば認められるはずなのですが。

    ※    ※    ※    ※

 機能としての広場機能ならば、まちなかの歩行者天国がまさに広場の機能を果たしています。車が通らないまちなかの通りには飲食の屋台が出たり物販のワゴンが出たり、そこここでイベントが行われてにぎやかですよね。
 
 そこで夫婦や恋人が笑顔で語らい、ここを利用する人たちのコミュニティが形成される…、それこそがまさに広場に期待される機能です。

 私たちは道路を広場的に使わせてもらうことでときどき喜びを味わっています。しかし発想を転換すれば、普段こそ広場的に使って、ときどき車を通ることをしぶしぶ認めてあげる、という主客が逆転したまちの作り方だってあるのではないでしょうか。簡単な話ではありませんが。

  

   

 ビルが高層化するときには、公開空地と言って敷地を一般に使えるようにすると高さのボーナスがもらえたりします。東京ミッドタウンでもそうした空地が上手に作られていますが、所詮建物の付属物としてしか見られていないのが残念です。

 まちのなかに広場がある、そんなまちができたら斬新なのですがね。

 
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東京から札幌のパソコンを遠隔操作する

2007-07-18 23:53:00 | Weblog
 札幌の家にいる次女から電話。
「またパソコンの音が出なくなったんだけど…」

「うーむ、そういわれてもなあ…」と言いながら、パソコンの設定画面を開かせて、どこにどんな不具合があるかを聞き取りましたが、やはり話だけではどうにもできません。

 …と、そこでふと思い出したのが、windowsXPに搭載されているリモートアシスタンスという遠隔操作ができる機能です。

 これはお互いがwindowsXPで、同時にインターネットにアクセスできる状態であれば、ネットを介して遠くからパソコンを操作できるというものだったはず。

 そこでヘルプを探して、どうやったら良いかを探したところ、なんとかやり方が分かりました。

 この機能を使って、信頼できる相手に対して「招待」をして、相手が「招待を承認」すれば良いのです。

 信頼できる相手を招待するやり方として、やはりwindowsに搭載されているメッセンジャーを使います。これで札幌の妻や旭川にいる長女とチャットをすることがあるのですが、これを使えば招待ができることも分かりました。
 写真の赤丸のところにその機能がついています。

 

 そこで次女に「リモートアシスタンスで、お父さんを招待してみて」と伝えたところ、そのとおりに操作してくれて、見事にリモートアシスタンスの接続に成功したのでした。

 さて、そこまでやれたので、東京から家のパソコンの状態を見ながらいろいろと復旧を試みました。自分のパソコンの画面上で札幌のパソコンを操作しているのを見るのはちょっと不思議な感覚です。

 札幌では何もしないのに勝手に画面が動いているようで、「うわー、なんだか不思議」と娘も電話で驚いています。

 しかし、なかなか復旧がうまくいきません。復旧どころか、いろいろやっている間にパソコンの一部ソフトが止まってしまいました。そこで一度あきらめて、思い切ってこちらから家のパソコンを切って再起動をかけました。

「一度切ったので、つながったらもう一度リモートアシスタンスで接続してみてね」と電話で伝え、待つこと数分。電話が来て、「お父さん、音が出るようになったわ、ありがと!」という喜びの声。

 うーん、しかし実は私自身何をどうしたから音が出るようになったのか、全く分かっていないのです。これまたなんとも不思議な感覚です。いったい何が良かったんだろう??
 しかしまあ、とにかく復旧に成功したみたいです。

 果たしてこれで親父の株は上がったのか?という疑問を残しつつも、今日の収穫は家のパソコンでもインターネットにつながっていれば遠隔操作ができるということでした。すごいなあ。

 世の中は確実に便利になっているのですが、こういうことはやはり勉強しないと分からないものです。

 やっぱり生涯学習が必要なんですねえ。

  
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宮本常一著「町のなりたち」を読んで東京を考える

2007-07-17 23:06:50 | 本の感想
 しとしとと粒の細かな雨が降っています。地震の被災地には涙雨。復旧が進むことを祈るばかりです。


 東京をさまようように歩いていると、どうやってこんなに大きなまちができたのか、と疑問に思います。東京にばかり人がいて、地方部はどんどん過疎になるのはなぜか。

 そもそも「町」とはなにか?こういう疑問を持ったときはまずは本を読むのが一番です。

 新宿には大きな本屋さんがたくさんありますが、最近のお気に入りはジュンク堂書店。とにかく大きくて、本の種類が多いのはうれしいものです。しかし最近の私は、本がいかに多くあっても、そのなかから「これを読むべし」という一冊に出会えるようになりました。

 そうして町とは何かという疑問に答えてくれそうだったのが宮本常一さんの「町のなりたち(日本民衆史5)」(宮本常一著 未来社)でした。
  
 「元来日本は町のない国であった」とこの本は始まります。日本という国を概観すると、律令国家が成立する以前に都市らしいものは発掘されておらず、同じ時代のヨーロッパやオリエントが都市址からなっていることからして、全く違った世界であったことでしょう。

 そして日本に町が発達しなかったのは、稲作による村づくりから始まったためで、西洋のそれが交易を中心として都市が発達したのとは様相がことなるのだ、と著者は言います。

 それでいて、日本の稲作農業は食料生産の農民の経営規模が小さかったために、食料生産以外の生産は、食料生産の余力でしか行われませんでした。
 そのために、織物や農機具などの生産を行う大規模な集団組織が発達しませんでした。

 農業も、地域の土豪によって支配されることがあったとしてもそれは一種の管理であって、企業的な経営といえるものではなかったのです。

 農業経営の規模が小さく、しかも領主からの搾取がはなはだしいために、農民に蓄積が発生して拡大再生産にいたることもないという状態がおそらく12世紀の終わりまで続いたのだろうといいます。

 シナからの貨幣が流入され始めるのは鎌倉時代のことですが、それにしても日本の中には明治のはじめまで都市という概念がなかったのではなかろうか、と著者は言います。

 商工的な技術や生産技術は大陸からの渡来人たちとともに伝来をしましたが、それだけでは地方に都市的な商工社会を形成するまでに至りませんでした。

 古代に建設されて今日まで残る町はおそらく京都だけでしょう。しかしそれも町という概念ではなかったのです。

    ※    ※    ※    ※

 そのうちに生産したものと欲しいものを交換する場としての「市」が登場します。しかしこれも、何もないところに日を決めて突然に小屋が建ち物が並べられ、一日か二日経つと全く何もなくなるという姿が多く、そんな姿はつい近世まで見られた姿なのだそうです。

 今度は物流が盛んになってきます。海で船が泊まれる場所は広ければ問(とい)と呼ばれた荷物の取り扱いを行う者が現れ、物資の集散地と私費とが集まり始めます。女郎屋や宿もできてきます。

 物流と貨幣経済が盛んになってこそ自然的に人が集まってきたのが町ということのようです。

    ※    ※    ※    ※
 
 こうして著者は、城下町、門前町、宿場、市民的都市(商人町)、港町、在郷町、商業農家集落、漁業集落、などを非農業的な集落として抽出して、その歴史を縦横に語ってくれています。

 このような町がそれほど発達しない状況が長く続いたのは一つには鎖国のせいでした。また工芸工業活動も、農村の余剰労力による人力に頼ったために工場製工業までの発達が見られませんでした。それだけの力が都市自体の中になかったからでした。

 農村から切り離された都市はなく、都市が都市として発達をするのは開国からのことでした。明治期以降にようやく都市らしい姿が出始めて、いまになってやっと都市というものが我々の中に、農業から切り離されてきたのだと言います。

 日本人が農業から切り離されていない一つの事例として、耕地を持っていれば必ず農家として登録されることを上げています。農業の専業の他に、主たる収入が農業である者を一種兼業農家と言います。
 そして農業以外の収入が多い耕地持ちを二種兼業農家と呼んでいます。主たる仕事は農業ではないのに農家として登録されているのです。これが日本人が農業の中に生きている一つの伝統なのだ、と著者は言います。

 さて、そうして貨幣による交換性が盛んになり、同時に世界を舞台とした流通が現実のものとなってやっと生産から交易を主体とする、農業という生産から切り離された町が発達をしてきたと言えそうです。

 都市に人がいることが経済を生み出す時代になりました。

 日本という国の町の成り立ちを改めて考えることで農村と都市との関係を見つめることができました。

 日本はほんの少し前まで、本当に農業の国だったということがよく分かりました。 
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全国まちづくり大会二日目~大賞は「杉だらけ活動」

2007-07-16 22:17:29 | Weblog
 全国都市再生まちづくり大会の二日目です。

 新宿のビルの28階で、今日も朝10時から地域のまちづくりについてプレゼンテーションを受けていた真っ最中に、「地震!?」と誰かが叫びました。

 新しいビルのせいなのか、建物はぐらぐらとは揺れずにゆらりゆらりと揺れました。状況がよく分からなかったのですが、エレベーターが自動的に止まりやがて「東京は震度3」、やがて、「震源地は柏崎。中越地震の近くみたいだよ」という声が聞こえてきました。

 午前中は部屋に缶詰だったので地震の情報はほとんど入ってきませんでしたが、昼には館内のラジオで被害の状況が分かってきました。

 今回の全まちの発表会の中のテーマの一つは「被災地復興、連携による地域おこし」で、中越地震からの復興の様子を発表してくれていたので皮肉なものです。人的な被害が少なく、少しでも早く復旧、復興が果たされるよう祈るばかりです。

    ※    ※    ※    ※

 さて全まちでは、昨日今日と行われた交流会での発表内容のなかから印象的ですばらしいと思うものに対して、参加者の投票による賞を授与しています。

 今回のまちづくり大賞に選ばれたのは「日本全国すぎだらけ倶楽部宮崎支部(通称ミヤダラ)」の活動でした。
 日本で一番杉の多い都道府県はなんと宮崎県なのだそう。それで杉の利用増進につながるような様々なイベントや活動を行い、日本中を杉の木でいっぱいにしようというのがこの団体の目論見です。

 宮崎支部だけに、アピールのために東国原知事の等身大写真も登場。プレゼンテーションも上手でした。
 

 
 それ以外で受賞の栄を獲得したのは、上野で京成電鉄の廃駅を活用した芸術活動などが印象的でした。いろいろなところで面白い活動をしている人は多いのです。

    ※    ※    ※    ※

 学生さんたちのセッションによる発表で印象的だったのは、活動のきっかけを訊かれて、「そうですね、『いつか、どこかで、誰かがやるだろう』という気持ちから、そんなことなら『今、ここで、自分がやらなきゃ』ということに気がついたことでしょうか」という答えがありました。

 まちづくりには、その気づきが大事なんですね。改めて自分も元気をもらいました。

  
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全国都市再生まちづくり大会2007

2007-07-15 23:36:46 | Weblog
 大型の台風4号は東海沖の海上を本土と平行に走りながら東へと駆け足で走り抜けたようです。昼過ぎにはもう雨も止み、風もそれほど強くはありませんでした。
 しかしながら各地の交通機関は大きな影響を受けたようです。新幹線や飛行機も軒並み運休。今日の全国まち作り大会の参加者にも影響が大きかったようです。

 今日から明日にかけてはNPO法人都市計画家協会が主催する「全国都市再生まちづくり会議2007(通称『全まち』)」が新宿の工学院大学をお借りして開かれるのです。

 この全まち、全国でまちづくりを行っている人たちが集まって、さらに連携を深めようという目的で2004年に初めて開かれて以来、今年で4回目となる催しです。
 
 内容は、いくつかのテーマごとに自分たちの成果を披露し、意見交換をする「まちづくり交流会」、言い出しっぺの伊藤滋先生をはじめとするまちづくりリーダーによる「トークイベント」、成果を張り出すポスターセッションなどからなっています。
 
 わが機構も、まちづくり相談や密集事業などを行っているという宣伝をしていましたが、交流会などへの参加はあまり見られないのがちょっと残念。もっとこういう場に飛び込んでひたすら会話をして名刺を集めて歩けばよいのですがね。

 さて今年の全まち、テーマは「連携」ということに置かれました。
 「地域と行政の連携にとどまらず、大学、企業、商業施設、交通機関等が連携しあう、また企業にとどまらず、町づくり団体同士が連携試合、活動課題を共有して活性化して、つくり上げていくこと、また地域においてまちづくりの担い手を育てていくことが重要だと考えています」とその意味が説明されています。

 ピンポイントでねらった相手やプレイヤー同士の連携が果たせれば言うことはありませんが、物事はそれほど簡単ではありません。とにかく「犬も歩けば棒に当たる」から始まることも多いのです。

    ※    ※    ※    ※

 今日のまちづくり交流会では九州の荒尾市からの報告を面白いと思いました。そこでは、まちなかの空いているスペースにまちづくり研究所を置いて、なんとそこにワインづくりができるワイナリーを作ったのだとか。
 
 荒尾ブランドのワインで地域が面白くなり元気が出たのだそうですよ。

 九州ってあまりワインブドウができるとも思えなかったので終わった後に名刺交換をしながらその経緯を訊いてみました。
 
「先ほどのワイン作りの話を面白いと思いましたが、ワインの原料のブドウはどうしているのですか」
 すると「ワインの原料は濃縮還元ワイン果汁をアメリカから買うんです。それに水を入れてもとの濃さに戻してから酵母を入れてこれでできあがり。案外簡単にできるんですよ」とのこと。

「ええ?では地元産のワイン、ということではないんですね」
「そうですね。でも売れる何かがあるのは良いでしょう」

「確かに。でも酒造りの免許などはどうされたのですか?」
「今はまだ仮免許をもらっているようなものです。正式な免許がもらえるためには年間6キロリットルを売らないといけないのですが、そういうことになるかどうかを確かめているところです」

 荒尾市ではもう一種類、地場でとれた焼酎用の芋を、これは業者に委託して焼酎を造ってもらってもいるのだそうで、地域ブランドのお酒をNPOが作っているというのは面白い。

 今日の交流会の中でも立派な活動をしている団体が多くありましたが、やはり課題なのは「いかにその活動を継続できるための資金を集められるか」ということだと思います。ボランティア精神を支える経済も大切なのです。

 日常的に売れてお金が入ってくれるものを開発するとういことで、お酒に目をつけたという発想が面白いのです。

 ワインの売れ行きを尋ねると「まだなかなか爆発的に売れる、というわけには行きませんが、ぼちぼちです」との答えでしたが、よそから来たお客さんにたとえ美味しくなくても『ここにしかない』ワインをごちそうするということはりっぱなもてなしです。
 ほかにはない資源を探すことが重要ならば、ほかにはないものを作り上げるのと同じ事です。味はこの際二の次で、この土地のオリジナルである、という事実が大切なのだと思うのです。

 その後のトークイベントでは、ヨーロッパのワイナリー育成の話がパネリストの一人から出て、「ヨーロッパでは、大きなワイナリーには税率を高くして、小さなワイナリーには税率を小さくしているところがあります。そうやって地域の味の文化を守ろうとしているんです。日本ではそういうことをしないので、地方の蔵本がどんどん潰れて行っている。これは残念ですね」という話がありました。

 地域のオリジナルの味の文化が売れるということ。このことの大切さを改めて感じたのでした。

    ※    ※    ※    ※

 夜はもちろん懇親会の嵐。北海道からもたくさんの知人が押し寄せてきて大いに盛り上がりました。

 明日も熱心な議論をいたしましょう。
 
 
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同窓会がしたくなる年頃

2007-07-14 23:35:23 | Weblog
 台風がいよいよ本土に近づいてきて、九州は大荒れ。油断はできません。

 そういう天気ながら今日は高校の東京同窓会が新宿で開かれるのでいた。我々の幹事期は2年前に終わっていて、2年後輩ががんばって企画をしてくれたのです。

 在京組のなかから、ごく自然に「同窓会の後にも集まろう。二次会と三次会をやります」という声が上がって、メーリングリストで集合がかかりました。便利な時代になったものです。

 私は二次会からに参加したのですが集まったのは20名という濃いメンバーたち。2年前の幹事期には100名弱が集まって盛り上げたものですが、在学中に一度も会話をしたことのない同期生がたくさんいて驚いたものです。

 そして今日の二次会の20名の中にも、初めて会って話をしたメンバーがなんと4人もいました。まだまだ知らない友が多いんだなあ。

 ある先輩がかつて「人間50歳を過ぎると気が触れたように同窓会をしたくなるんよ。もうなんの利害関係も発生しなくなるんだなあ」と笑っていましたが、だんだんそういう気持ちがわかるようになってきました。そろそろ50も近いのです。

    ※    ※    ※    ※

 話題が出身中学のことになり、一人が「俺は稚内だよ」と言うので、「それじゃ学区外の5%枠だったわけ?」と訊くと「そうだよ」とのこと。学区外から受験する人たちはその人たちだけで、当時の定員450人×5%=22~23人という定員枠を争うのです。

 初めて話をしたもう一人の友は「俺は稚内のちょっと下の豊富だよ」とのこと。「ええ、じゃやっぱり5%枠?」と訊くと「違うんだ、豊富は僻地3級で、そこだと道内どこでも一般の受験生と同じで良かったんだよ」
「僻地3級?そんなのがあるんだ!」
「うん、確か○○君も、△△君もそうだったはずだよ」

 ネットで調べても確かにそういう規定がまだ生きているようです。我々の通った旭川の高校は、およそそこから北で一番の高校だったので多くの地域の優秀な子供達が集まってきたのです。

 その彼も今は埼玉県内の企業で働いているのだとか。地方の優秀な子供達が出世して都会を支えているという構図が伺えますね。

    ※    ※    ※    ※

 楽しいひとときはやがて終わり、来年の再会を誓ったのでした。皆さんありがとう、来年もまた会いましょうね。
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新たなネットワーク

2007-07-13 23:36:22 | Weblog
 本省で我が組織を統轄する担当課に新しい室長が赴任されたので、事業の概要説明を行うことになりました。

 私も同席させてもらうことにしたのですが、挨拶の時に「あれ、どこかで会ったことがあるような…」という見覚えのある方です。

 説明が一通り終わったところで名刺交換をして「どこかでお会いしましたよね」と言うと、「静岡県ではないですか?おられましたよね」とのこと。
 なるほど、それで思い出しました。私が掛川にいたときに、静岡県庁に出向されていた若い事務官さんでした。

 今や上部機関の長となられたとのことで、事務官の皆さんは出世が早い。それとともに、こういう場面での知人がいると言うことは実に心強いものですね。掛川人脈が意外なところでまた登場しました。

 今日一日かけて全事業を一通り説明し終わった後に、新室長と親しいメンバーで懇親会。本当に久しぶりに中華街へ行きました。いつも乗り降りする馬車道駅からは地下鉄で二駅目とすぐなのですがね。

    ※    ※    ※    ※

 中華街では安めのお店に入って様々な話題で盛り上がりましたが、事務屋さんたちの最近の話題は、やはり役者になったSさんのこと。

 そのSさんが登場する演劇の初日が昨日だったのそうで、中の一人が応援の意味もあって観に行ったのだそうです。

「どうでした?」
「いや、楽しむと言うよりはせりふを間違えないでくれーと思う気持ちが強くて気になって仕方がありませんでしたよ」とのこと。

 また、「思ったよりは上手でしたけど、そういう目で見ると本職の役者さんとはやはり声の出方が違うんだなあ、と思いました。250人くらいの小劇場でしたけど、本職の役者さんは小さな声もちゃんと聞こえるんですよね」とも。
 
 みんな、自分にはできない冒険にちょっとうらやましさを感じてもいるようでした。
 
 新しいネットワークも少しずつできています。いよいよこれからです。
 
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