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北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

そうだ、サハリンへ行こう

2015-07-17 23:41:07 | Weblog

 サハリンに行って来ようと思います。

 せっかく稚内にいて、コルサコフとの間で定期航路があり他の地域に比べると格段に島に渡りやすい環境にあることに加えて、仕事の上でもサハリンとの交流の重要性を感じているところなので、まずは一度は行ってみたいと思っていたのです。

 いろいろ考えましたが9月上旬のツアーがあったのでまずはこれに申込み、現地での動きはこれからいろいろな方と相談をして決めることにします。


       ◆

 
 実はサハリンは私の父方の祖父が一度渡ったことがある因縁の島。

 祖父は昭和の初期には夕張で炭鉱夫相手の和菓子屋を営んでいました。しかし石炭産業の将来に明るさが感じられずにいたようです。

 祖父は昭和の7年に視察旅行で樺太の敷香を訪れた際に、そこに明るい将来性を見出し、その旅の中で移る先の物件を決め、夕張に戻ると店を弟子に譲って一家をあげて敷香へ移り住みました。

 ところが現地の冬はそれは厳しい寒さ。伯父のところに当時祖母が親類あてに書いた手紙が残っていて、そこには「夜に寝ていると寒さで木が割れる音が聞こえる」と書かれていました。木が内部の水分の膨張で割れるほどの厳冬だったのです。

 昭和八年はわが家系にとって悪夢の一年でした。

 その年が明けてすぐに父の妹が亡くなり、春には祖母が亡くなりました。それですっかり元気を失った祖父が秋に亡くなり、なんと一年で家から三つのお葬式を出すことになりました。

 身寄りを無くした父とその兄弟は親類に身を寄せるために船で再び北海道へ戻ってきました。

 当時父は三歳。「その時は何が起こっがのかもわからず、人が多くて賑やかな船の中でチャンバラごっこをしていたことを覚えている」と父は言っていました。

 父の兄弟はそれぞれ違う親類に引き取られて離れ離れに暮らすことになりました。これがわずか一世代前の出来事です。

 戦争もありましたが、その後のその時代の人たちの頑張りのおかげで私の世代では温かい家庭の中で飢えに苦しむこともありませんでした。

 そんな幼かった父の運命を変えたのが樺太であり敷香でした。今回の旅では敷香までは足が伸びませんが、まずは一番近い外国としてのサハリン、ユジノサハリンスクあたりを見てこようと思います。

 できれば現地にいる日本の方と食事などして現地の情報を入手したいなとも思っているところ。

 パスポートも取れてツアーに申し込みをしたところです。ちょっと見聞を広めてきます。

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