いよいよ南紀旅行も名残惜しい最後の一日となりました。
泊まったのは南紀白浜のお宿でしたが、ここを出発してすぐ近くにある千畳敷と三段壁という岩場の景勝地を見学。
三段壁には崖の上に民間の事業者による建物があって、そこから30数メートル下まで通じるエレベーターが設置されており、そのエレベーター(有料)で地下へ下ると洞窟が間近に見える地下空間へとたどりつきます。
このような洞窟は平安時代末期の熊野水軍の拠点だったのだそう。
熊野水軍は最初平家に味方していましたが、ある時から源氏方につき屋島の戦いからは源氏方として平家討伐に当たったそうです。
そういえば歴史のなかに「熊野水軍」という単語を時々聞くことがありましたが、南紀地域での海を舞台にした一族のことでしたか。
政権交代時にどちらにつくかは一族の運命を決するうえで大変な選択になりますね。
まあ熊野水軍が付いた方が勝ったと言えるのかもしれませんが。
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白浜周辺の景勝地を楽しんだ後は、関西空港方面へ移動開始ですが、途中でなんとしても立ち寄りたかったのが、広川町にある『稲むらの火の館」。
ラフカディオ・ハーンが"A living god(生ける神)"と英文で書いた物語の基になったのがここ広川町(かつての広村)にいた濱口梧陵翁の物語で、ハーンが書いたこの物語が逆輸入される形で、「稲むらの火」として防災そして、地域に貢献・奉仕する地元リーダーのあるべき姿として教科書などでも取り上げられ大いに称賛されたのです。
「稲むらの火」とは、安政元(1854)年の大地震とそれによる津波災害の物語です。
この年は東海地震と南海地震が一日違いで連続して起きるという大変な年でした。
前日の東海大地震では東日本に甚大な被害をもたらしましたが、西日本では津波はありませんでした。
それが翌日夕刻に発生した南海大地震ではここ広村にも巨大な津波が押し寄せました。
濱口翁は、地震発生と同時に村人たちを高台へ避難するように誘導しましたが、逃げ遅れて津波に呑まれてしまい、夜の真っ暗闇の中でどうしたらものかと途方に暮れる村人たちも数多くいました。
そこで濱口翁は、助かった者たちに松明を持たせ、乾燥させていた稲わらに火をつけて道を照らして逃げる方向を明らかにしたのでした。
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濱口翁はさらに、津波で家や田畑が壊滅的な被害を蒙り生きる希望を喪失した村人たちをこの村にとどめるために資材をなげうって津波対策の防潮堤を作ることを決めました。
このことには二つの意味があります。次の津波に耐えられる強いわが村を作るインフラ整備と、疲弊した村人たちに公共事業として仕事を与えるという復旧・復興事業の二つです。
その結果作られた堤防は今日「広村堤防」として国指定史跡にもなっています。
まさに津波被害から村も村人も救う地域社会のモデルがここにありました。
この話を知ってから、いつかこの地を訪ねてみたいと願っていましたがそれもやっとかないました。
「稲むらの火の館」の隣は防災館となっていて、津波災害について学ぶとともに災害からの避難や復旧復興に向けた心構えが勉強できる施設となっています。
全国に似たような施設は数多くありますが、故濱口翁の功績とともに心にしみいるようにして防災意識が高まる「稲むらの火の館」、機会があればぜひ一度お訪ねください。
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信仰の道、熊野古道にしても、「稲むらの火の館」にせよ、過去や先人の歴史から学ぶべきことは多いです。
実際にその地を訪れる和歌山県の旅。身も心も洗われる良い旅でした。
紀州和歌山県は、私の人生で一番最後に訪ねることになった都道府県ですが、指折りの思いで深い土地となりました。