北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

熊野とは何か~十年前の宿題

2014-02-12 21:54:05 | Weblog

 私は平成14年度から16年度の三年間、静岡県掛川市で助役をしていました。

 助役在任中にはスローライフ運動など楽しい仕事も多かったのですが、大変だったのは市町村合併で隣接する大東町と大須賀町という二町とまさに離任する平成17年3月31日に合併を果たして新しい掛川市となったのでした。

 このとき合併に向けた法定協議会でお世話になったのは大東町、大須賀町の副町長さんたちで、それぞれ首長を支える立場として苦労を分かち合ったものです。

 合併の打ち合わせを重ねるために、お互いが互いの町や市を訪ねてなんども打ち合わせを重ねましたが、合併作業があったために、おそらく普通よりもずっと隣町に詳しくなりましたし、それぞれの住民の皆さんとも仲良くなり、互いの祭りやイベントに顔を出す機会も多くありました。

 このときに初めて、旧大須賀町に「三熊野(みくまの)神社」という神社があることを知りました。

 この神社は地元の信心が厚く、「盆暮れには帰らなくても祭りには帰る」というこの町出身者が今でも大勢います。


      ◆     


 さてこの三熊野神社という名前を聞いてぴんとくると思いますが、まさにこの連休中に旅行をしてきた紀伊半島の熊野三山を勧進したのが起源とされています。


 掛川観光協会のホームページには三熊野神社の紹介としてこのように書かれています。


【三熊野神社概要】
 三熊野神社の創建は大宝元年(701)、文武天皇の勅願により、紀州熊野三社を勧請したのが始まりと伝えられています。

 伝承によると文武天皇の后宮子(藤原不比等の娘)が崇敬社である熊野神社に懐妊の祈願した際、念願成就したあかつきには東国に熊野三社を勧請する約束をしました。

 その後、見事念願成就し御子のにも恵まれた為、縁のあった遠江国で奥野左衛門是吉に命じて霊地を探させ当地に本宮大社の分霊、高松に新宮大社の分霊、小笠山に那智大社の分霊をそれぞれ勧請したと伝えられています。

 神社の由来から子宝、安産、縁談に御利益があるとして信仰されています。 (掛川市ホームページより)
 http://www.kakegawa-kankou.com/kanko/guide/facility_detail.php?_mfi=70


 上の記載にもあったように「三熊野」というのは、熊野三山になぞらえてここ大須賀の三熊野神社に熊野本宮大社を、高松神社に新宮大社(熊野速玉大社)を、そして山の上にある小笠神社に那智大社の分霊として勧進をしたものです。

 私もこのときに三熊野神社を知ったものの、一般的な新党とはちょっと趣を異にする熊野信仰に対する勉強が不足していて、とうとう理解が及ばなかった思い出があり、ずっと気になっていたのでした。

 今回ようやく熊野三山を訪ね熊野古道も歩き考えを巡らしたことで、熊野信仰とは何かというその一端を少し感じることが出来ました。


    ◆   ◆ 


 大須賀の三熊野神社は大宝元(701)年の勧進とありかなり古いのですが、本当に熊野三山を巡る信仰が世間で爆発的なブームになったのは平安時代の上皇の時代のことです。

 熊野を初めて詣でた上皇は宇多法皇でそれが907年。次にここを詣でた上皇は花山法皇で992年とされていますが、これらは単発での御幸でのあたりではまだ熊野ブームは到来しません。

 その後、白河上皇が1090年から9回も熊野を訪れます。

 天皇が国内を巡られることを「行幸(ぎょうこう)」と言いますが、院政を敷いた上皇が外出するのは「御幸(ごこう)」と言います。

 白河上皇が数多く熊野詣をしたことで熊野ブームが訪れ、それ以降、鳥羽上皇が21回、後白河上皇は33回(34回とも)、後鳥羽上皇が28回と何かに憑りつかれたように熊野を訪れました。

 そもそも天皇になると様々な儀式や制約があって簡単に思うままに外出などできるものではありませんが、上皇となると陰の権力は持ちながら自由に行動できる立場になれるというわけです。

 真夜中のテレビショッピングでもよく見られますが、有名芸能人が「これはいいですよ~!」というと、ありがたくなる心理がありますね。

  
     ◆   


 またこの頃には神仏習合という考え方が登場しました。

 神仏習合というのは、「日本の神様は、本当は仏教の仏が姿を変えて神として日本の民を導いているものだ」という考え方です。

 それぞれの日本の神には仏教の仏が当てられましたが、ここ熊野三山では、熊野本宮大社の主祭神の家都御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来とされ、熊野速玉大社の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)は薬師如来、 熊野那智大社の熊野牟須美神(くまのふすみのかみ)には千手観音が当てられました。

 ちょうどこの頃には浄土思想もブームになり、熊野三山はそれぞれ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落浄土の地であると考えられ、「浄土へ向かう熊野の旅」ということも大いに受ける要素であったでしょう。

 
 熊野詣でには歴史上の人物も様々に関わっています。

 歌人藤原定家は、後鳥羽上皇の熊野詣の先駆けとして食料や儀式など様々な手配を命ぜられて古道を歩いたという記録があります。

 疲れてボロボロになって散々な旅だったという日記が残っていて、優雅な歌人というイメージが崩れます。


 調べてみると、実に面白い人間模様が見られます。

 過去の宿題に答えを少し見つけられた本当に良い旅でした。

 

コメント
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