駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

レニングラード国立バレエ『バヤデルカ』

2009年12月14日 | 観劇記/タイトルは行
 東京文化会館、2004年1月28日ソワレ。
 寺院の庭で僧侶たちが聖なる火を称える儀式を行っている。巫女で舞姫バヤデルカであるニキヤ(スヴェトラーナ・ザハロワ)が美しい舞を奉納する。大僧正(アンドレイ・ブレグバーゼ)はニキヤに魅了され、聖職者の立場も独身の誓いも忘れて彼女に言い寄るが、拒絶される。彼女は戦士ソロル(ファルフ・ルジマトフ)と恋人同士で、その夜、聖なる火に永遠の愛を誓った。だが藩主ドゥグマンタ(アレクセイ・マラーホフ)は娘のガムザッティ(オクサーナ・シェスタコワ)に、国一番の勇者ソロルと結婚するよう命じる…作曲/L・ミンクス、台本/M・プティパ、S・フデコフ、振付/M・プテイパ、演出・改定振付/N・ボヤルチコフ。1877年ペテルブルク初演。全3幕。西欧でいうところの『ラ・バヤデール』。

 おもしろかったです。コンクールなどでよく見るガムザッティのヴァリエーションやガラでよく見るニキヤとソロルのアダージョなどがきちんとした形で観られて、大満足。
 第二幕のディベルティスマンなんかも私は大好きで(『白鳥』の第三幕なんか大好きだ!)楽しかったです。ラストの寺院崩壊のスペクタクルは紗幕に描かれていただけとは思えない効果ですごかったです。

 バレエ漫画などでよく取り上げられる、著名な演目のひとつですが、私は今まで今ひとつ物語の筋道がよくわからないでいました。いろいろな演出や解釈があるのでしょうが、今回の舞台では、ソロルはガムザッティに心変わりした訳ではなくて、最初から最後までずっとニキヤを愛しているのだけれど、国王から命じられた結婚にNOと言いづらいままでいるうちにこんなことになってしまって…という感じに見えました。だから納得しやすかったです。でも、最後の最後でガムザッティがソロルをはねのけたのはなんでなんだろう? そこにニキヤの亡霊を見たのかしらん…
 というわけで舞台は大変おもしろかったのですが、しかしガムザッティはいいな! パキパキと元気でイケイケの王女さまで、見ていて本当に気持ちが良かったです。婚約式の場面でロマンチック・チュチュと白タイツになると、意外や脚があまり美しくなかったのが残念でしたが。
 ニキヤ役の方が技巧も確かで演技も繊細で巧みだったのかもしれませんが、これはもう好みの問題で、私にはどうしても辛気臭いキャラクターに思えてしまったので。すまん。でも第三幕のパ・ド・トロワなんか緊迫していてすばらしかったと思います。
 あと、大僧正がなんかいかにも生臭坊主っぽくて、老いらくの恋に身を焼く中年男性の悲哀もあって、妙に印象的でした。
 しかし、ほとんど舞台の本質とは関係ないところで考えてしまったことが二点ほど。
 苦行僧といい太鼓の踊りといい…これはいつのどこの話なんだとつっこんでも仕方のない、つまり当時の西欧諸国に顕著だった東洋趣味・異国趣味丸出しの作りで、夢のインド、幻想のバヤデルカであり、これがエキゾチックでファンタジックだったんでしょうけれど、『ちび黒サンボ』が摘発される現代でこの差別・蔑視をひしひし感じる舞台がこんなに堂々と演じられていていいのかしらん…とちょっとドキドキしてしまいました。まあ芸術だからかもしらんけど。

 もう一点。ニキヤ-ソロル-ガムザッテイという構図は、たとえば『ジゼル』のジゼル-アルブレヒト-バチルド、オペラだけれど『アイーダ』のアイーダ-ラダメス-アムネリスという構図とまったく同じですよね。
 ヒロインと、その恋人と、権力者の娘で恋敵という女と。
 ヒロインは平民ないし貧乏な出で、恋敵は王族、間に立つ男はふたりのやや中間の身分、という構図なわけです(アイーダは世が世なら王女だけれど現状では奴隷娘だし。アルブレヒトとバチルドは同じ階級の出でバチルドの方が身分が高いということはないかもしれないが。『白鳥の湖』のオデット-ジークフリード-オディールもこの形に近いのかもしれない。オディールの「権力者の娘」の側面は弱いが)。ヒロインと恋仲である男が王なり上司なりに命じられてその娘との結婚を承諾せざるをえなくなり悩む、というパターンですね。
 人は昔から愛と富の間で揺れていたということでしょうか。しかし現代女性の視点からすると、三角関係で楽しいのは、自分が今『冬のソナタ』にハマっているからでは断じてなく、女1男2の形のはずです。このパターンの物語なんて見たことないぞ。古典的ヒロイン像というものがふたりの男性の間で揺れたりせず一途であるのが定番だからでしょうか?(強いて言えば『マノン』でヒロインは貧乏学生の恋人とパトロンの愛人との間で揺れている…かな? そしてそのマノンはやや「悪い女」として描かれがちではないか? あ、あと『カルメン』があるが、あれなんか殺されちゃうじゃん)でもそれって男性が女性に求めている姿にすぎませんよね? バレエにしろオペラにしろ、どんなにバレリーナやプリマドンナが中心に据えられもてはやされようと、それを演出し振り付けるのは男性であり、それを鑑賞し楽しむののもまた男性であったのだ、ということなのでしょうか…いや、別にあえてここでフェミニズムを振りかざそうというつもりはないんだけれど、今や劇場に足を運ぶ人間の八割がたは女性だろうから、そろそろもうこういうのってどうなんだろう、と思わないではなかった、ということです。
 たとえば、私にはガムザッティがすごく素敵な女の子に見えましたが、古典的なパターンの中では彼女が物語のヒロインになることはありえないのでしょう。古典的な男性からすれば、自分との愛によって身分の低いヒロインを社会的に引き上げてやれることは快感なんでしょうが、誰だって選べるものならお金持ちの家に生まれたいと思うのですよ。どっちかって言われたら貧乏よりは裕福な方がいいでしょう? つまりこの三者の構図の物語を見せられるとき、女性は二重の意味で不快に感じるのではないだろうか、と思ったのです。ヒロインが低い身分の出であるとされていることと、お金持ちの娘が敵役とされていることと、です。つまり誰だって、お金持ちの家に生まれた性格のいい娘として生きられたら楽だし楽しそう、と思うのが自然だから、二重の意味で否定されたように感じて不愉快になるんじゃないかなあ、ということです(私はだから、お金持ちのヒロインが愛も手に入れる…恋人は死んではしまうけれど…『タイタニック』は、そこがいちばんウケる理由だったのではないかと思っているのですが)。
 もっとも、欲望・願望・妄想のままに突っ走るとそれはそれでろくなことにならないというのは、現代の社会風俗情勢にまた如実に表われている訳ですが…たださ、ちょうどいい、物語として美しく楽しく、それが世の中のあるべき理想の形で生きる指針となるような、そんなドラマの形がどこかにあってもいいのではないだろうか、それを求めてやまないのだが私は…ということです。
 ううむ、ただの繰り言になってしまったか…
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