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「富士日記」 36 (旧)八月五日、六日

(散歩道のクズの花)

名前はクズだけれども、かつては根からはクズ粉が取れ、蔓から採れる繊維は、葛布の材料となるなど、大変役に立つ植物であった。江戸時代には、商人が買いに入って、掛川の山間では、クズの採集で、農業をおろそかにしてはならないというお触れが何度も出ている。

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「富士日記」の解読を続ける。

五日、昨夜(よべ)より雨降りて、今朝もなお、曇れりければ、主強いて留むれど、然のみはとて、午の刻(とき)過る比(ころ)、ここを出て、帰る道中にて、降り出したれば、昨日も立ち寄りし、敲氷許(がり)行きて、暫し語らいて、蓑笠など借りて、好道の後(しり)につきて行くに、例の畦道なれば、能うせずば、滑りぬべきを、辛うじて日暮るゝ頃、式穀の家に、久しうて帰りたれば、我が家の心地せられて、落ち入るも、打ち付けなる心なりけり。
※ 然のみ(さのみ)- それほど。さほど。
※ 能うせずは(ようせずは)- 悪くすると。もしかすると。
※ 落ち入る(おちいる)- 落ち込む。はまり込む。
※ 打ち付けなる(うちつけなる)- 軽率な。無分別な。


六日、七日、八日は、好道も夜、昼来て、古今集を質(ただ)し、或は、源氏物語を講じつゝ、果てしなきに、故里覚束なく覚ゆれば、強いて暇乞いて出立つに、笛吹川留(とま)りたらむも計り難しとて、例の二人送りす。
※ 故里(ふるさと)- 自宅。
※ 覚束なし(おぼつかなし)- 気がかりだ。


さて川田まで行きて聞くに、果たして、昨日、一昨日の雨に水勝りて、今朝より舟も通わずと言えば、幸いこの所に式穀の親族(しぞく)の侍れば、そこに宿りて、水の落ちんを待ち給えと言えば、術(すべ)なくて行くに、いと大なる家にて、故郷にて相知れりける、高愛山と言う人も、去年よりここに有りとて、出迎えて、様々にもてなしたり。

家主(いえあるじ)は、この頃、上野国に、湯浴みに罷れりとて、弟何某(なにがし)とかや出て、とばかりあるうち、かの敲氷、薬師(くすし)玄溟など来集いて、川水の勝れるは、我どちの幸いなり。ここに四、五日も留まり給え。珍かなる御物語りをも承り侍らんとて、もてなせるさま、思いも掛けぬ事なり。
※ とばかり - ちょっとの間。しばらくの間。
※ 我どち(われどち)- 自分たちどうし。仲間どうし。


主方より料紙もて出て、例の歌書けと言えるに、庭には水を堰入れ、岩の佇(たたず)まいなど、おかしき家居なれは、取りあえず、
※ 料紙(りょうし)- 物を書くのに用いる紙。用紙。

   千世かけて 住むべき宿と 知られけり
        庭の池水 岸の松枝
(まつがえ)
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「二宮尊徳講義録」 3 - 古文書に親しむ(経験者)

(散歩道のヒョウモンチョウ)

台風18号が来る前に撮った。時々吹く風に吹き飛ばされそうであったが、あの台風はどこでやり過ごしたのだろう。

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「二宮尊徳講義録」の解読を続ける。

それより貧乏人は、己れが不精、不始末、惰弱は言わず、人をそしり羨(うらや)みて、小言が始り、悪い工(たくみ)は次第に募り、或るいは、押し借り、打壊し、その小言が止むと色々悪くなり、弥(いよいよ)飢えに及ぶのじゃ。その時に至り、後悔しても仕様がない。これから本心に立帰り、家業を励む、精出すよりほかこれ無し。
※ 惰弱(だじゃく)- 気持ちに張りがなく、だらけていること。意気地のないこと。

則ち、福者のためには、貧乏人が福の神じゃ。貧乏人が寄り集りて、売っては増やしてやり、詰る処は皆福者の果報に成るじゃによって、少しは借り倒されても、貰いた顔されても、了簡したがよい。
※ 果報(かほう)- よい運を授かって幸福なこと。

これが世界中に金持ばかりでは、売りに来る人も、買いに来る人もないが、その時には、田も畑も預ける人ばかり、作る人がなく、その時には福者も金持ちも、貧乏人に引かえて、渇命に及ばわにゃならぬ。ここを能く/\考えて見れば、貧乏人じゃとて、見捨てにはならぬ。
※ 渇命(かつめい)- 飢えや渇きのために命が危なくなること。

貧者も去年より引続き、種々恵みを請けてもあたり前などゝ、冥利を知らぬ大罰当り者も稀れにはあるものじゃ。心得が悪いと、貧する上ににも、又々、子々孫々までも貧する種を蒔くのじゃ。よって、有難いという事、少しも忘れては済まぬ。貧者と福者は噺が違う。皆、耳にばかり聞かぬ様に、能々腹の中へ聞き込むがよい。
※ 冥利(みょうり)- 神仏によって知らず知らずに与えられる利益のこと。神仏の助け。

天照大神宮様は、田も畑も、鎌も鍬も、何にもない処へ天降りまし/\て、御丹情遊されたのじゃ。それを今、望み次第に、田でも畠でも、鍬でも鎌でも諸道具でも、困らぬ様に出来て居るのじゃ。唯、誠の一つさえ、取り失わねば、何も不足言う事はない。不足というは、己れが皆嘘ばかり尽して置いた、その報いじゃ。
※ 丹精(たんせい)- 心を込めて物事をすること。

それ唯、匹夫は富貴を好みて貧賤を恨む。もと富貴貧賤は天にあらず、地にあらず、国家にあらず。銘々の一心にあり。
※ 匹夫(ひっぷ)- 身分のいやしい男。また、道理をわきまえない男。

常の我が身を治めて、人を治むるものは、富貴その身に備う。常の我が身を人に治めらるゝものは、家業を勤め、を守りて、富貴を保つ。常の我が身を人に治められて、我が身を我が意に任するものは、貧賤その身に備う。富貴貧賤は一心一念の変化する処なり。
※ 分(ぶん)- 人が置かれた立場や身分。また、人が備えている能力の程度。

勤苦して得るは、これ則ち、人倫の道なり。本来同土遠隔なる事をさとりて、ともに/\勤行いたしたき事に候。
(おわり)
※ 勤苦(きんく)- 非常に苦労すること。
※ 人倫の道(じんりんのみち)- 人の踏み行うべき道。
※ 勤行(ごんぎょう)- 精進努力すること。


読書:「還暦猫 ご隠居さん5」野口卓 著
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「二宮尊徳講義録」 2 - 古文書に親しむ(経験者)

(台風一過の夕方)

台風18号は当地、幸い何事もなく過ぎた。ススキの穂越しに見た、快晴の西の空に傾く日である。

お昼、掛川の孫たちが来て、ソーメン食べて、大騒ぎして帰った。当家、幸い何事もなく過ぎた。

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「二宮尊徳講義録」の解読を続ける。

また、御拝借五ヶ年賦は、銘々その日/\の家業の外に、夜々縄なり、草履なり、また山付きならば、定まりの外に朝起きして、炭なり何なり、それぞれ、得手々々の余業を、励み勤むなり。

その上、一統申し合い、大倹約をして、また祭礼、仏事なども寺々へ付けとゞけ厚くし相勤め、その外、普請、家作、月待ち、日待ち、振る舞い事、その外何事にもよらず、不用の事、不用の品を少分たりとも求むる事、一切慎しむのじゃ。

この度、露命を繋ぎし事を忘れざれば、五ヶ年や十ヶ年は、何でもなく勤まる倹約じゃ。この処を能々(よくよく)感心して、本心に立ち帰り、勤めさえすれば、何程、凶年でも凶作でも無いが、別に豊年もない。

全体、年々豊凶は六、七月より知れてあるものじゃ。弥々(いよいよ)今年、五分六分、二分三分作の陽気と見えたら、それぞれの暮らし方を付けねばならぬ。殊に、去年のこの辺は、二分三分作と見定めても、それをうか/\、平年の七、八分の暮らしをして居るに依って、さあ狂言が違うのじゃ。

田畑の事ばかりじゃない。何事もこの通り、萬(よろ)ずにより、商売が不景気ならば、その通り不景気の暮し方を付けるべし。その時々を計りて暮せば、間違いはない。その振る舞いが違うゆえ、凶年が来たら俄かに目が覚めたのじゃ。皆、天の思し召しに背いたによって、かく難渋したのじゃ。

今日、言い付け通りに守り、さすれば、返す/\も言う通り、粟を蒔けば粟が実法(みの)る。米をまけば米が出来、善い種を蒔けば、幸いが実る。悪い種を蒔けば、害がみのる。天の誠道、これを誠にするは人の道なりとは、報徳の事なり。

小人は小金が出来ると上を見初(はじめ)める。それより段々奢りが始まり、衣食住、髪形、諸道具類、唐物、和物好み、遊芸、盤芸、茶の湯、俳諧、生け花、立花、諸々の遊客寄り集り、それより家業は次第に不精(ぶしょう)になるほど、飲食を好み、色欲、次第/\に貧乏不如意と成るに順(したが)いて、愈(いよいよ)奢りは強くなりては、人の諌(いさ)めも聞かず、凶年が来ると人より先へ飢える。
※ 盤芸(ばんげい)- 囲碁、将棋、双六など。
※ 立花(りっか)- 生け花の型の一。江戸前期に二世池坊専好が大成した最初の生け花様式。


その裏はまた、小金が出来る程、吝嗇(りんしょく)、己が勝手を好み、利欲強く、人を見下し、人は心柄じゃと、己が自漫し、小金出来る(ふゆる)ほど道を失う。
※ 吝嗇(りんしょく)- ひどく物惜しみをすること。けち。
※ 心柄(こころがら)- 心の持ち方。自業自得。
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「二宮尊徳講義録」 1 - 古文書に親しむ(経験者)

(散歩道のノボタン)

台風18号の前触れの風で、揺れに揺れるノボタンを、風の合間を縫って撮ったのが上の写真である。

台風は明石に再上陸して北東、丹後の方へ時速45キロで進んでいるという。先程、閑散とした城崎温泉の画像が映っていた。コースには知り合いも多いが、雨が心配である。

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受持ちの講座「古文書に親しむ(経験者)」で、教材とした「二宮尊徳講義録」というべき文書を、以下へ解読して紹介する。二宮尊徳といえば、小学校などで、本を読みながら薪を背負う像で知られているが、財政破綻や飢饉に迫られた、藩や村々を立て直した思想家であった。

この文書は、尊徳先生の年譜を見ると、天保9年に、駿河領御厨郷中へ渡されたという注意箇条書か。あるいは、天保11年(1840)11月、54歳の尊徳先生が駿河御殿場村にて行った仕法の際の講義録であろうか。何れにしても、ここで触れられる飢饉は、天保4年から天保10年まで続いた天保大飢饉(天保6年~8年がピーク)のことである。

いずれにしても、難しい報徳思想を、やさしく説く、尊徳先生の語り口が知れて、興味深い文書である。

 報徳駿州御厨郷中へ御申し渡しの写し
     明治九年子二月、これを求む 
          遠州豊田郡常光邑 鈴木雪三郎
※ 御厨郷(みくりやごう)- 静岡県御殿場辺り。

家を保つも、身を治むるも、金銀の出来るも、何も不思議はない。誠の一つを以って、これを貫くのじゃ。まことは天の道。天の道を誠にするは、人の道というのじゃ。

粟を蒔けば粟生え、麦を蒔けば麦が生え、米をまけば米が生え、皆その通りに姓名を正しうする。これを天の道という。

これをおのれ/\が勝手に、朝寝をしたり、遊んで食ったり、寝て居て喰ったり、ぐたついて過ぎようとは、何を蒔いても、麦を蒔いても、米を取ろうとした様なもので、田にも畠にも正直な夫食もなさずにおいて、働かしょうとするゆえ、去年の様なる凶作には、人より先へ、夫食は天より御取り上げじゃ。
※ 夫食(ふじき)- 江戸時代、農民の食料一般をさす。

これが粟を蒔いて粟が生えたのじゃ。田畠を飢えに及ばしたから、己々(おのおの)も飢えに及ぶのじゃ。何も不思儀の事はない。これが天の道じゃ。かようを、善悪ともに報(むく)うのじゃ。さすれば、飢えるとも、くたばるとも勝手次第にしたがよい。平生、田畠へ、夫食をたんとやっておいた人は、去年も今年も、夫食に差支えはない。米を蒔いておいたから、米がとれたのじゃ。皆、銘々精根次第の手細工じゃ。
※ 精根(せいこん)- 精力と気力。

それじゃによって、飢うるものは飢えても、くたばるものはくたばるもよけれども、同じ村に生れ、同じ御百姓同士なれば、家内の肉のけずれるのを、見て居てもすまぬによって、有るものは、この節、融通してやるがよい。五十年に一度の事なれば、この節、人の命の救い時じゃ。救うたものは忘れるがよい。救われたものは、子々孫々まで忘れぬよし。
(つづく)
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「富士日記」 35 (旧)八月四日(つづき)

(散歩道の萩の花)

寂しい花数であるが、散歩道に萩の花を見つけた。雑草と一緒に刈られてしまうので、木が大きくなれず、いつまでも幼樹である。

午後、「古文書に親しむ(経験者)」に出かける。前回に続いて、二宮尊徳の講義録である。明日より、ここで紹介してみたい。

九州の南西に台風18号がゆっくり近付いていて、明日は当地も影響を受けそうである。

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「富士日記」の解読を続ける。

あるじ、

   (うま)の 訪い来まさずば いたずらに
        庭の真萩は 散り行かまじを

※ 巧人(うまひと)- 技術・技量などがすぐれている人。

と言えりければ、

   我はもよ 友垣得たり 唐衣
        きならの宮の 友垣得たり

※ 友垣(ともがき)- 友だち。友。
※ 唐衣(からころも)-「着る」「裁つ」「裾」「袖」「紐」など、衣服に関する語や、それらと同音をもつ語にかかる枕詞。


(とこ、床の間)に富士の(かた)掛けりしを下ろして、歌書きて得させよとあれば、旋頭歌を詠みて書き付く。
※ 形(かた)- 物に似せて作った絵。ここでは掛軸のことであろう。
※ 旋頭歌(せどうか)- 和歌の一体。五・七・七・五・七・七の6句を定型とする歌。片歌 (かたうた) の唱和から起こったといわれ記紀・万葉集などにみえる。

   天地の 開けし時ゆ 在りきてふ(という)山ぞ
   駿河なる 富士の高嶺を 大にな思い

※ 大に(おおに)- 重要に。大きいと。
※ な~そ - ~してくれるな・~しないでくれ・~するな


この山は、十が七つは、この国に入り立ちたりと聞けば、この国にて詠めらむには、甲斐なるとこそ、言わまほしけれ、と言いて笑いつ。

今宵、伊勢人、中村檍麿とかや云う人もここに来て、海山の物語りす。この人は旅を家とせる人にて、陸奥(みちのく)蝦夷の千島までも遊びしとて、いと良く物言い通れる若人なり。
※ 檍麿(あおきまろ)- 秦檍麿。江戸時代、北海道に生きた、三重県出身の偉人、村上島之允のこと。北海道開拓の足掛かりを作った。

今日はこの国、玉諸の神社の辺(ほと)りなる、水精(水晶)掘りに行きたりとて、分がちて贈れり。かの御社の内には、高さ七尺ばかり、囲み五尺ばかり成る水精(水晶)、土より出たるまゝにてありとぞ。
※ 玉諸(たまもろ)の神社 - 山梨県甲州市にある玉諸神社。神体として高さ7尺・周り6尺8寸の水晶の玉を祀った。その水晶は明治初年に盗難に遭い、現存していない。
(原注 玉諸神社、祭神玉屋命式内なり。今、訛りて玉室という。)
※ 分がつ(あがつ)- 分ける。分配する。
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「富士日記」 34 (旧)八月四日(つづき)

(城北公園のハナゾノツクバネウツギ)

午後、駿河古文書会で、静岡へ行く。城北公園の生垣にハナゾノツクバネウツギの花を見つけた。よく見かける花なのだが、名前を調べて認知したのは初めてである。

夜、岡山のYさんからぶどうが届く。同窓会の時、「四国お遍路まんだら ふたたび」を進呈したが、そのお礼のようだ。ぶどうの産地から、高価なものをと、恐縮した。面白く読んで頂いたというから、初回の「四国お遍路まんだら」も送ろうかと思う。

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「富士日記」の解読を続ける。

さて、茂実には懇(ねもご)ろに語らい置きて、元克の跡に付いて、石森というに詣でて見れば、いと高き岡なりけり。この岡は、四方(よも)の山を離るゝ事、遥かにして、野中に怪しき巌(いわお)(そば)立ち、奇しき石(たた)なわりて、誠に名に違わず、目を驚かす所なり。
※ 石森(いしもり)- 現、山梨岡神社のこと。山梨県山梨市の神社。鎮座地は「石森山」、「石森丘」と呼ばれる平地の中の小丘で、境内は狭いながらも、松などの大樹や奇岩、怪石が密集し、古く文人墨客から愛好された。伊弉冉尊、事解男命、速玉男命、国常立尊、大国主命、少彦名命の6柱を祀る。
※ 畳なわる(たたなわる)- 幾重にも重なる。


祀れる神は、国立明神と、熊野明神とを合せ祀れりとぞ。その傍らに、小さき水晶出るとて、土を少し掘りて、元克拾いて得させつ。かかる珍しき所も、世には有りけるよと、返す返すおかし。思うに、昔、湖有りし時の島なるべし。

   あし曳きの 山路隔てゝ あし引きの
        山成す千々の 石森の宮

※ あしびきの -「山」および「山」を含む語「山田」「山鳥」などにかかる枕詞。

やゝ日も西に傾(かたぶ)き、雨も降り出ぬべき気色なれば、急ぎて元克が家に、黄昏(たそがれ)ばかり、ひじがさ(肘笠)して帰りぬ。
※ 肘笠(ひじがさ)- 肘を頭の上にあげ、袖を笠の代わりにして雨を防ぐこと。
(原注 古今六帖 妹が門 過ぎ行きかねつ 肘笠の 雨も降らなん 雨隠れせん
  催馬楽 妹が門せなりかと 行き過ぎかねて やわか行かば肘笠の 雨もふらなん、云々
  源氏物語 須磨の巻に、肘笠雨とか降りて、いと慌ただし)

※ 古今六帖(こきんろくじょう)- 平安時代に編纂された私撰和歌集。全六帖からなる。
※ 催馬楽(さいばら)- 日本の雅楽の種目の一つ。平安時代に貴族の間で盛んに歌われた声楽曲。アジア大陸から伝来した唐楽、高麗楽(こまがく)風の旋律に、日本の民謡や童謡の歌詞を当てはめたものが多い。
※ やわか - それでもなお。


読書:「夢三夜 新酔いどれ小籐次 8」佐伯泰英 著
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「富士日記」 33 (旧)八月四日(つづき)

(散歩道の白色ヒガンバナ)

この数日で、夏枯れだった散歩道にも、秋の花が咲き始めた。

午後、掛川の古文書講座に出席した。

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「富士日記」の解読を続ける。

塩山は如何なる故よしは知らねど、山にも塩の出る井ある事、唐も大和も多く、また近江の湖にも、塩津と云える所ある如く、舟にて運びたりし塩を、上げし所にもや有けん。かかるは、ただ名に寄りて、ゆくりなく云われしものならん。
(原注 塩山、梁塵秘抄言う、甲斐ヶ嶺におかしき山の名は、白峰、なみさき、塩の山、云々。)
(原注 塩の出る井、諸国にあれど、甲斐の国には巨摩郡鳳皇山の麓、奈良田にありとぞ。)
(原注 本草に云う、塩井は帰州及び四川諸郡に在り、云々。東坡志林に云う、西川、井に塩出る。永康郡、崖岸に塩出る。)

※ ゆくりなく - 思いがけなく。突然に。


はた(あるいは)塩海(しおうみ)の如く詠みし、古歌も誤りなる事、著(いちじる)し。すべて国々の名前など、論(あげつろ)わんには、かかる類(たぐ)い侍るべきことにこそ。そが中に、藻塩草とて世に行わるゝ名前の本は、ことに誤れる事多し。
※ 藻塩草(もしおぐさ)- 随筆・筆記類の異名。

例えば、ならの里をきならの里、まつち山を亦打山と埋めしを、字のまゝに、またうち山と書きし。岡の部には、いな岡と出せるを、考うるに、万葉集歌に、「つくばね(筑波嶺)に 雪かも降れる 否をかも」と詠みし詞を、岡と思いて出せるなどは、論にも足らぬことどもなり。さて、

   今はまだ 川に指出の 磯千鳥
        古りし昔の 跡を留めけり


かく思い続けて、千鳥は今も侍るやと問えば、常はいと多く侍るなりとて、好道、
(原注 古今集 読人知らず
   塩の山 指出の磯に 住む千鳥
            君が御代をば やちよ
(八千代)とぞ鳴く

   うち群れて 今日は指出の 磯千鳥
        都の苞
(つと)の 一声もがな

暫しありて、川を徒歩渡りして、隺八幡宮を左に拝みて行く。この社は、延喜式に出たる、大井俣神社なりとぞ。
(原注 三代実録、貞観九年十二月九日、甲斐国大井俣神を以って、于官社に列す。同七年、授正五位下を授く。)

等力(とどろき)村という所に、鎮もりいませる水宮の神主、堀内茂實も予(かね)て聞き及びければ、訪いたるに、とく出迎えて、暫し打ち物語らいて、
(原注 等力和名抄に見ゆ。)

   故郷に 指出の磯の 急がずば
        日を重ねても 語らわましを


と言うに主返し、

   秋浅き 指出の磯の 初紅葉
        面忘れせで またも訪へ君

※ 面忘れ(おもわすれ)- 人の顔を忘れること。

この水宮をも、上に言いし大井俣神社なりと云えれば、いずれか誠ならむ。定かにわきがたしと元克語れり。
※ わきがたし - 理解しがたい。
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「富士日記」 32 (旧)八月四日(つづき)

(伊勢の町の朝 / 宿泊ホテルより)

義姉さんの葬式で、伊勢市に行ってきた。80歳で天寿を全うには、少し歳が足らない、急な死であった。まだ悪夢をみているようだと、長兄は、あれよあれよと言う間の成り行きに、自失の躰であった。

受付に、5人の男の子たちが働いていた。聞けば、高校1年から大学4年までの孫たちであった。真っ直ぐに伸びた、今時、気持のよい若者たちであった。着実に跡継ぎたちが育っている姿に接して、良かったじゃないか、義姉さん、と、義姉の遺影に語りかけた。

夕刻に帰宅した。

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「富士日記」の解読を続ける。

塩の山は十四、五町ばかり隔てゝ向いに見ゆ。そも/\この磯のことは、難波の契沖阿闍梨の書き置けるものに、甲斐国には海無き上(故)、塩山、指出(の)磯を詠める古歌、全く(またく)海を詠めるさまなれば、覚束なし。越中に塩山あれば、指出の磯もそこにや、とあれど、
※ 契沖阿闍梨(けいちゅうあじゃり)- 契沖。江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)。高野山で阿闍梨の位を得る。「万葉代匠記」など著書多数。
(原注 契沖説、勝地吐懐編に見ゆ)
※ 覚束なし(おぼつかなし)- 不審である。おかしい。


いまこの国に来て、所のさま、村里の名、かつ日本武命の通り給いし道は、嶺続きなりと言い、これかれ合わせ見るに、このわたり大きなる湖なりしこと、疑いなし。またこの国の風土記に市川郷、春夏の中、土俗竹網を以って、海磯に随い、魚の来るを待ってこれを取る。一と網、数百を取る、云々と見ゆ。風土記は和銅の頃より集められて、延喜帝延長の頃、全く(またく)備われりと云えば、その頃までも、猶以ってありける事知られたり。
※ 鮮(せん)- なま魚。
※ 延喜帝(えんぎてい)- 平安時代の第六十代、醍醐天皇。
※ 延長(えんちょう)- 日本の元号。延喜の後、承平の前(923~931)。


萬葉集に、

   大君は 神にしませば 水鳥の
        
(すだ)く水沼(みぬま)を 都となしつ
(原注 大君は云々の歌、萬葉集巻の十九、壬申年の乱平定以後歌と標して、二首ある内なり。)

と云いし如く、何時の御代にか、山を穿ち、岩を切り、水を避けしより、村里田畑とは成りにたりけん。その事を司(つかさど)りし人の功を讃(たた)えて、蹴裂(けさく)明神と奉りし社、今、巨摩郡にありとぞ。その切り落せし流れは、今の富士川なるべし。
(原注 蹴裂明神社、巨摩郡鬼島村柳川辺に)
(原注 富士川は巨摩、八代両郡の界に流れ、十八里を経て、駿河国に至りて海に入る。
万葉集巻三に、富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちそ、云々)

※ たぎち(滾ち)- 激流。また、その飛び散るしぶき。
(原注 都良香、富士山記云う、大(川)あり、腹下より出でて、遂に大河と成る。)
※ 都良香(みやこのよしか)- 平安時代前期の貴族・文人。各種伝承を記した「富士山記」には富士山頂上の実情に近い風景描写がある。官位は従五位下・文章博士。
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「富士日記」 31 (旧)八月四日

(裏の畑のサルビア・レウカンサ)

(本日はお葬式で伊勢へ出張中)

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「富士日記」の解読を続ける。

四日朝、とく国玉(くだま)を出でゝ、今日は指出の磯、石森など見むとて、好道を案内(あない)として行く道に、和戸と云う所あり。その道の傍らに、在原塚と云いて、少し小高く田の中に見ゆるは、古今集に見えたる、在原滋春朝臣の墓なりけり。琵琶塚、琴塚など名付けしも有れば、都より携え給いしならんと思うに、いみじう哀れなり。
(原注 古今集に云う、甲斐の国に相知りて侍りける人、訪ぶらわんとて、罷りける道中にて、俄かに病をして、今々となりにければ、詠みて京に持て罷りて儕(ばら、ともがら)に見せよと言いて、人に付け侍りける。
               在原滋春(ありはらのしげはる)
   仮初めの 行き交い路とぞ 思い越し
        今は限りの 門出なりけり
大和物語にもこのこと見えたり。滋春は業平の次男なり。)

※ 今々(いまいま)- これが最後。


   仮初めの 言葉の露を 行き交いの
        袖に掛けつゝ 忍ぶ古
(いにしえ)

そこを過ぎ行くに、川田に平橋庵敲氷と云う世捨て人あり。道の行く手なれば、立ち寄りたるに、こよなく喜びて、こは飯(いい)など出してもてなしたり。主は俳諧歌を好きて、大方、この国には並ぶ人なしとぞ。
※ 平橋庵敲氷(ひらはしあんこうひょう)- 上矢敲氷。江戸時代中期・後期の俳人。郷里、甲斐に帰り、平橋庵を結ぶ。諸国を行脚し、おおくの日記、紀行文を残した。

   春秋の 花も紅葉も 常永久(とことわに)
        咲き匂いたる 宿ぞこの宿


と言えりければ、返し、

   春の花 秋の紅葉の 色も香も
        如かじとぞ思う 君が言の葉

※ 如かじ(しかじ)- 及ぶまい。

ここにても、詠み置きし歌どもを乞うに任せて、いさゝか書きて贈りて、それより、一町田中村、萩原元克許(がり)行く。この元克は歌も萬葉ぶりを慕いて詠み、はたこの国の名勝志と云える書(ふみ)三巻、この頃、梓に彫(え)たれば、懐(ゆか)しくて訪うなりけり。
※ 梓に彫る(あずさにえる)- 出版する。

ここもこよなく喜びて、さらばまず、日たけぬうちに、指出の磯の案内(あない)して見せ参らせんとて、昼の食(お)もの、とく出して、好道諸ともに行きて見るに、思いしよりも見るは勝りて、いと面白き所なりけり。
※ 日長けぬうちに(ひたけぬうちに)- 日が高くならない内に。
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「富士日記」 30 (旧)八月三日(つづき)

(散歩道のコヌカグサ)

土手にはこんな草が色々生えている。名前を調べれば、ひとかどの名前がある。ただ、見分けが難しく、区別はなかなか困難である。

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「富士日記」の解読を続ける。

やがて、神主飯田正房出で来たりて、拝殿を開けて、人々を登せ据えたり。先ず、

   千萬(ちよろず)の 東の夷(あずまのえみし) 向けませし
        神の御威稜
(みいづ)を 仰がざらめや
※ 千萬(ちよろず)- 数の限りなく多いこと。
※ 御威稜(みいつ)- 天皇や神などの威光。


とて、奉りたるに、いざや人々も珍しき団居(まとい)なれば、一首づゝ詠みて奉らむとて、社頭秋風と云う趣にて、詠めりければ、
※ 団居(まとい)- 人々が輪になって座ること。車座。

   夏過ぎて 幾夜か寝つる 神垣
        松に涼しき 秋風の声

※ 神垣(かみがき)- 神域を他と区別するための垣。神社の周囲の垣。
                                                           正辺
   木綿四手(ゆふしで)の 靡くも涼し 千早振る
        神の斎垣
(いがき)の 秋の夕風
※ 木綿四手(ゆうしで)- 木綿(ゆう)で作った四手。
※ 四手(しで)- 玉串や注連縄などに下げる紙。古くは木綿(ゆう)を用いた。
※ 千早振る(ちはやふる)-(勢いが激しい意で、)「神」、また、地名「宇治(うぢ)」にかかる枕詞。
※ 斎垣(いがき)- 神社など、神聖な場所に巡らした垣。


                        式穀
   幾秋か 森の松ヶ枝 枝古りて
        神垣清く そよぐ夕風


                        徴信
   吹くとなき 夕べの風の 調べさえ
        秋に澄みゆく 神垣の松


                        正房
   手向くべき 紅葉はまだき 神垣の
        御垣の松に 通う秋風


                        好道
   立ならぶ 木々の梢も 神さびて
        秋風涼し 坂
(酒)折の宮
※ 神さびる(かみさびる)- 古びて神々しく見える。

かくて、日の暮るる頃、こゝを出て、徴信、式穀には別れ、正辺の家に、今宵は泊りねと、わりなくいざなえば、好道とゝもに、ま多国玉に行きて、夜もすがら物語りし、短冊(たにざく)懐帋(かいし)など、主の乞うに任せて、書きて送りつ。
※ わりなし - 無理やりに。
※ 懐帋(かいし)- 懐紙。和歌・連歌・俳諧などを正式に書きしるす時に用いる紙。


読書:「夢のれん 小料理のどか屋人情帖8」倉阪鬼一郎 著
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