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39横田地蔵堂、37清水寺、38元長寺、48長源院 - 駿河百地蔵巡り 10回目

(石の仁王の長源院)

(昨日のつづき)
法蔵寺を出て、隣の軍神社を横切る。軍神社には5、6本の楠の巨木がある。広い境内のクスノキの下に、一回り大きな乳母車に、ようやく歩き始めた幼児を乗せた保母さんたちが来ていた。大きな乳母車に5人ほど、小さな乳母車でも3人ほど乗せ、四人の保母さんで10数人の幼児を連れてきたようだ。乳母車から降ろしても、遊び回るほど歩けるわけではない。立っているだけの幼児、座り込む幼児、ヨチヨチと歩く幼児、近くの保育園であろうか。大きな乳母車は市販されているわけはなく、どこかの鉄工場で特注したものであろうか。

そういえば、靜岡市に入って、それまで延命地蔵尊が目立った地蔵めぐりも、子安地蔵や子育て地蔵が随分目立つようになった。駿府は隠居した家康のお膝元で、江戸時代を通じて他地域よりも優遇されてきた。飢饉の時代も、お上から手当てされて、延命は比較的容易であったのだろう。延命よりも子安が庶民の関心事だったのだと思う。夫婦共稼ぎが普通になった現代は、再び子育てが難しい時代に入っている。待機児童の問題は子安地蔵尊にもどうにもならない。


(横田地蔵堂)

曲金で、新幹線、東海道線、国道1号線を斜めに渡り、横田町に入った。その先の横田町三区公民館、第三十九番横田地蔵堂は併設されている。横額板に「當國二十二番延命地蔵尊」と書かれている。石の地蔵座像の台座には「駿河一国第二十二番」と刻まれている。ここは確か第三十九番だったはずである。何か別の地蔵グループがあるのだろうか。


(清水寺の石地蔵)

次の第三十七番清水寺は谷津山の西の端にある。地蔵は境内露座という。一段上った境内で、次の石段下の右側にあった。境内を掃除するおじさんと、お参りに来た老婆が立ち話をしている。お地蔵さんはここだろうかと、声を掛けた。百地蔵のことは知らなかったが、このお地蔵さんで間違いないだろうという。ネットで調べた情報では、通称「石地蔵」と呼ばれる堂々とした石造りの座蔵である。台座の刻字によれば、この地蔵は正徳三年(1713)に建立されたものだという。清水寺は外にも色々と見所の多いお寺であるが、今回はお地蔵さんにだけお参りした。


(元長寺地蔵堂)

谷津山の裾を時計回り周って、清水山公園を横切り、元長寺、長源院と巡る。第三十八番元長寺の地蔵堂は参道の入口にあった。「駿河一国百地蔵第丗八番」の板は地蔵堂内部に立て掛けてあり、外に「新駿河一国 瓦場町 南無子育延命地蔵願王尊 三十八番 元長寺」と書かれた板が張られていた。「新駿河一国」とは何なのだろう。


(長源院地蔵堂)

さらに沓谷霊園の向うに、第四十八番長源院があった。山門前の露座に石造りの阿吽の仁王像がある立派なお寺で、本堂が改修工事中であった。山門に「駿河一国百地蔵第丗三番」の板が張ってあった。地蔵堂は本堂左手にあり、覗くと彩色された地蔵尊が見えた。この地蔵は厄難除地蔵尊である。(つづく)
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