平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
81法雲寺、79法岸寺、78油木地蔵堂 - 駿河百地蔵巡り 12回目

駿河一国百地蔵の11回目に今日出掛けた。お天気は曇り、この後晴れたり曇ったりという予報である。朝、いつもの電車に乗る。後方の車両だと座れるので、そこに乗るように決めているが、後方3両は靜岡で切り離されるので、靜岡駅のホームで前方車両に乗り換えた。一手間掛かるが、立っていると無駄なエネルギーを使ってしまう。

(法雲寺延命地蔵尊)
第八十一番法雲寺はJR清水駅から西へ1キロ足らずの町中にある。境内に石仏が並んだ真ん中に、頭が風化して壊れて小さくなった地蔵座像が、「三界萬霊」と刻まれた柱の上に座していた。かたわらに「駿河一国百地蔵尊霊場 第八十一番延命地蔵尊」の立て札が立っていた。

(法岸寺本堂)
巴川に架かる、河童の童子像が橋柱に置かれた稚児橋を渡った先に、第七十九番法岸寺がある。かつては行基の作と伝わる地蔵尊が祀られ、「地蔵の寺」として知られていた。戦災で焼失し、現在は厄除延命地蔵尊が位牌堂に祀られているという。

(「朝顔日記」ゆかりの女性の墓)
法岸寺境内には浄瑠璃「朝顔日記」の深雪のモデルとなった女性の墓がある。「朝顔日記」といえば、大井川越の島田側に、朝顔の松(4代目)があり、浄瑠璃「朝顔日記」のクライマックスの舞台として知られている。案内板に寄れば、モデルとなった女性は日向国財部(現、高鍋)の城主秋月長門守の娘で、清水船手奉行の旗本1700石、山下弥蔵周勝の夫人となり、寛永十八年(1642)に没したという。

(油木地蔵堂)
法岸寺からJR東海道線に少し寄ったところに、第七十八番油木地蔵堂がある。案内板によれば、百数十年前、近くの人々が、お地蔵さんを祀って、無縁仏を供養していた。そばにアブラギリの木があり、油木のお地蔵さんと呼ばれ親しまれていた。昭和20年、戦災に遭い、お地蔵さんも焼けて壊れてしまった。壊れた地蔵を埋めて、その上に現在の地蔵堂が建てられている。地蔵堂の扁額に「駿河一国百地蔵菩薩 第七十八番油木地蔵尊」と記されていた。
旧東海道に戻って追分の手前で、小さな果物屋の店頭に、小さいものから大きいものまで、渋柿がたくさん並んでいた。この一月ばかり、渋柿を探していて、手に入ったのは12個だけで、ネットで高知に注文したばかりであった。10個入った袋で450円は割安である。買おうかと思ったが、今朝まだ歩き始めたばかりで、荷物になると、一度は通り過ぎた。しかし思い直して50メートルほど戻り、一袋購入した。
店番のおじいさんが今年はこれが最後だという。この辺りには渋柿がたくさんあったが、区画整理で随分切ってしまった。しかし、まだ日本平の方にはたくさん残っているという。まとめてたくさん買ってくれる人もいる。聞けば、干し柿にして知人に送るのだという。お店の名前は確認しなかったが、追分羊羹の店の近くである。軽いザックがずしりと重くなった。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 75寿昌寺、... | 77東泉寺、... » |
コメント(10/1 コメント投稿終了予定) |
コメントはありません。 |
![]() |
コメントを投稿する |