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戦国大名今川氏の興亡 - 駿遠の考古学と歴史

(11月7日、ヒメツルソバの群落、麻機北)

先週の土曜日、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。今回の講座のタイトルは「横地城・勝間田城と高天神城」、サブタイトルが「戦国大名今川氏の動向」である。この時代の話は以前にこの講座で聞いている。

応仁の乱から戦国時代へ至る時代、靜岡の勢力図といくさを追っていくと、応仁の乱で、東軍の遠江守護斯波氏と西軍の駿河守護今川氏のいくさで始まった。今川義忠は遠州見付城、横地城、勝間田城を落として遠州を平定する。しかし、凱旋の途中、塩買坂で残党に討たれて戦死した。

義忠の跡継ぎ問題で、小鹿の乱が起き、義忠の義弟、北条早雲の活躍で、今川氏親が家督を継いだ。この後、氏親(1471~1526)の時代に、日本で最初の戦国大名として地盤を固めた。

この時代に、室町幕府の弱体化に伴い、守護大名は戦国大名へと脱皮していく。戦国大名の条件として、①分国法の制定、②領内検地の実施、③印判状の発給(領地の安堵状など)が挙げられる。今川氏はその条件において、①では、1526年、氏親が日本最初の分国法といわれる「今川仮名目録」を制定した。②では、1487年、氏親の黒印状が最初である。③では、1518年、氏親の時代、遠州相良検地が実施されたことが判っている。

氏親が亡くなると、その子、氏輝が幼少のため、母「寿桂尼」が6年ほど実権を握った。(女戦国大名と呼ばれる)ようやく氏輝が実権を握るも、その6年後、24歳の若さで死去した。氏輝は未婚、嗣子がなく、異母三兄弟の家督争いが起きる。地侍まで二手に別れ、花倉の乱が勃発する。その結果、今川義元が家督相続した。

雪斎の斡旋により甲相駿三国同盟がなり、この三国は婚姻関係を幾つも結び、同盟を確固たるものにした。

1560年、桶狭間の戦いで、義元は織田信長に敗れた。今川義元の子、氏真が家督を継ぐと、信玄は自分の息子義信を幽閉し、その妻を駿河に帰し、駿甲同盟が決裂した。今川氏真は甲斐への塩荷留めを断行した。

1568年、信玄、家康の間で、大井川を境界に、駿遠境界密約が結ばれた。今川の領地を武田、徳川で分けて分捕る約束である。そして信玄が駿河に侵攻、家康が遠江に侵攻した。今川氏真は懸川城へ逃れ、翌年には、懸川城を家康に明け渡し、遠州掛塚から船で相州小田原へ落ち延びて行く。駿河、遠江の2国を領した、戦国大名今川氏が終焉した。

戦国大名として先陣を切りながら、今川氏は、家督相続の内紛が続き、信玄と家康の両側から攻められて、やがて衰退してゆくことになった。しかし、今川家は滅亡したわけではなく、江戸時代を通して高家として禄を食み、江戸末期に至るまで続いた。
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