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国会解散と由比正雪の首塚

(由比正雪の首塚)

本日、民主党野田政権が衆議院を解散した。年内に総選挙が行われ、新政権が発足することになる。今まで選挙民はどこが政権担当しても変わらないと、選挙に無関心な人が多かった。関心のある有権者も、マスコミの潮流に乗った勢力をうかうか選んでしまった。(自分もその一人である)その結果、どんなことが起きるのかを、この数年、骨身にしみて学んだと思う。新党がたくさん出来て、迷うところであるけれども、ここはじっくりと考えて、投票しなければならない。

マニフェストなるものが出来て、それを見て投票した人は多い。昔は「公約」と呼ばれていたけれども、公約(膏薬)は張り替えられるものと言って、有権者は当てにぜず、それよりも候補者の人となり、信条、政治家としての能力、過去の行動などをじっくり観察して投票していたように思う。党のマニフェストを当てにしていると、国会に行っても何にも分からない素人ばかりが選ばれて、国政を停滞させてしまう。前回の選挙では有能な政治家をたくさん落としてしまった。日々世界が激動している中で、口当たりの良いマニフェストなど吹けば飛ぶようなもので、それよりも候補者に、あなたは何を考え、国会でどう行動するのかを聞きたい。有権者の一人一人の代りに、国政にたずさわるのが国会議員なのだから。

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250年、天下泰平であった江戸時代、公然と幕府に反旗をひるがえす反乱、あるいは反乱未遂が、幕末を除いて、3件あった。寛永14年(1637)に勃発した島原の乱、天保8年(1837)に起きた大塩平八郎の乱、そして慶安四年の由比正雪の乱(慶安の変)、正雪の乱は未遂に終わったけれども、舞台が江戸と、家康のお膝元駿府、久能山だったため、幕府のショックは大きいものがあったと思う。

第10回の百地蔵巡りで、最後に訪れた第六十五番菩提樹院には、その由比正雪の首塚があった。菩提樹院はもとは静岡市内の寺町四丁目、現在の常磐公園にあったが、戦後復興に際して、昭和21年区画整理により、ここ沓谷の地へ移転した。

由比正雪の首塚は境内右手にあった。案内板によれば、由比正雪は慶長15年(1610)駿府宮ヶ崎の紺屋に生まれ、17歳の時、江戸へ出て楠流軍学を学び、江戸牛込に道場を構えて、軍学を指南していた。時に、幕府の悪政を改革せんと、幕府転覆を計り、自ら久能山に立て籠もり、東西の同志に号令せんとした。計画が、事前に露見し、慶安四年(1651)七月二十六日、梅屋町の旅籠梅屋に於いて、捕り方に包囲され、辞世の句を残して、同志9名と共に自刃した。時に正雪42歳。安倍川畔にさらし首になるも、縁者の女人が秘かにその首を盗み、寺町の菩提樹院(現常磐公園)へ葬った。これが首塚で、寺の移転と同時に首塚も移転された。
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