平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
73楞厳院、74玉泉寺 - 駿河百地蔵巡り 11回目
(21日のつづき)
聖一国師堂から下り、自動車教習所に沿って回り込み歩く。途中に第七十三番楞厳院の案内看板を見つけ、「りょうげんいん」と読むことを知った。住宅街を歩く内、方向が解らなくなった。発進しようとする軽の老人と目があったので、止めて楞厳院の場所を聞いた。榊やら何やら、積荷が不審だったけれども、いまそこで地鎮祭があったものだからという。どうやら神主さんを捕まえてしまったようだ。地図を出して来て一緒に調べてくれ、楞厳院は間近にあることが解った。
(楞厳院の六地蔵)
立派な山門があり、古刹の風格のあるお寺であった。本堂の引戸が開け放たれていたので、上らせていただいた。本殿左手、諸仏が祀られている壇上に、「駿河一国百地蔵第七十三番」の板が半分隠れて立て掛けられていた。しかし、諸仏の中に地蔵尊像は見つけられなかった。山門右脇に、立派な石の六地蔵が並んでいたので、番外の地蔵尊とするべく写真に納めた。
(玉泉寺から見える富士山)
日本平の東の裾をさらに南下して、第七十四番玉泉寺に至った。境内から富士山が間近に見え、はるばる清水まで来たことを改めて感じた。歩いた距離は積算すれば200キロ近くになっていると思う。玉泉寺にも地蔵尊は見つけられなかった。境内前の墓地に大きな子安地蔵石像が立っていたが、どこでもよく見る量産化されたものであった。
(玉泉寺前の「出陣を待つ仏たち」)
玉泉寺を降りたすぐの空き地に、仏像群がぎっしりと置かれたところがあった。仮安置されたもののようであったが、「出陣を待つ仏たち」とネーミングした。どこへ出陣するのだろうか。
次に、番外の鉄舟寺へ、県道を2キロほど南下する。鉄舟寺までもう少しのところで「言いなり地蔵」の看板を見つけた。鉄舟寺の近くにあることはネットで調べてあったが、そばまで行ったら探すつもりだった。県道から山側に入り、山道を少し登ったところにあった。
小さなお堂に熟年夫婦がお参りしていた。絵馬に願いを書いたり、お堂の前で跪く女房を、亭主が角度を変えながらデジカメに納めたりしている。ご利益がありますかと聞けば、初めてだからどうでしょうかと女房が答えた。お地蔵さんを前にして、疑っていたのではご利益は覚束ないだろう。
(言いなり地蔵)
言いなり地蔵尊の由来を記した案内板によれば、元和2年(1616)夏、旅の老行者が病に臥し、看護する村人に、「われ地蔵菩薩の化身なり、逝きて後、この地に地蔵菩薩を建てよ、如何なる願いも叶うほどに」と伝えて亡くなった。村人はお地蔵さんを祀り、いつしか「言いなりさん」と呼ばれ、人々の信仰を集めたという。
掛川にある、事任(ことのまま)神社という古社は、心霊スポットとして有名であるが、神と仏の違いはあるが、同様のご利益が伝わっている点が興味深い。(つづく)
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