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「新田次郎 山の歳時記」を読む

(「新田次郎 山の歳時記」)

久し振りに山のエッセイを読んだ。新田次郎を読むのも久し振りである。新田次郎の山岳小説は9割方読んでいる。読んだのはまだ昭和の時代であった。「八甲田山死の彷徨」「孤高の人」「芙蓉の人」「聖職の碑」「剣岳<点の記>」「強力伝」「槍ヶ岳開山」「富士山頂」「銀嶺の人」「栄光の岩壁」など、数えてみると今でも懐かしい。その作品群は消えることなく、現在も読み継がれているという。

読み始めて、ふるさと霧が峰の子供時代の話に、あれっ!と思い表紙を見直した。何を勘違いしたのか、井上靖のエッセイを読んでいるように錯覚して、著者名を確認した。井上靖なら伊豆がふるさとだから、変だなあと思った。さらに先を読んでいくと、山行の話が出てきて、あれっ!と思い、再び著者名を見て納得した。今度は、深田久弥のエッセイと錯覚して、どうも肌触りが違うと思った。山のエッセイで名のある文学者は、串田孫一、深田久弥、井上靖、新田次郎と数えられるが、皆んな亡くなり、このあとを、誰が継いでいるのであろう。

「新田次郎 山の歳時記」はオリンピックから万博へと日本が高度成長していた時代に出版された、エッセイ集「白い野帳」「山旅ノート」から抜粋して文庫本にまとめたものである。山へ登る人口が増えて、この頃には、山々の植生がずいぶん失われてきたと書いている。自分が山登りを始めたのは、その後であった。自分たちにとっては、山はまだまだ自然が残っていると思っていた。現在は南アルプスなど鹿の食害でお花畑が全滅のような話を聞くが、新田氏の時代は自然破壊はもっぱら登山者であった。それにしても、雷鳥を追い回し、その雛を捕まえて、焼き鳥にして食べた人がいたという話にはびっくりした。雷鳥には天気の悪い日、何度もお目にかかったが、食べる対象に考える人がいたことは少なからずショックであった。

新田次郎はかなり気難しい人で、作品にはずいぶん頑固な部分が描かれている。あまり人の話を聞かない性格のようだ。それでいて、単独の山行はほとんどしていない。山には案内人を付けて登っていた。

山登りの経験は、ほとんど小説の材料に使われて、エッセイに書かれたものは、作品化しなかったものだけであり、新田氏はエッセイに書くよりも、小説に書く方が楽だと書いている。新田氏にとって、小説が主で、エッセイは余儀だったのだろう。

エッセイの中で、時々気象庁の技官としての顔が出てくる。富士山レーダー設置のときの活躍は、「富士山頂」の作品に詳しいが、無線雨量計を発明して、1号機を設置したのも新田氏であるとは初耳であった。

これを機会に、新田次郎の読み残した作品を読んで見ようと思った。
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