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58長栄寺、57松樹院 - 駿河百地蔵巡り 8回目

(第五十八番長栄寺山門
駿河地蔵尊札所の看板が掛っていた)

昨夜、久し振りに山の会の昔の仲間、Mさんから電話があり、今年も忘年会をするから、出席して欲しいという。昨年は先約があり出席できなかったので、今年は則出席すると返事をした。

午後、駿河古文書会へ出席する。時間が午後2時から4時までと変わり、5時前には帰ってきた。明るいうちに帰って来れるのは悪くない。

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(昨日のつづき)
新東名下の葵大橋で安倍川を渡った。対岸には、新東名の新靜岡インターチェンジや、静清バイパスへの接続道路などが出来て、辺りの様相が随分変わってしまった。出来るだけ山際の里道を選んで歩いた。

静清バイパスと交差する手前、昭府町に貴庵寺というお寺があり、その入口にお堂があった。地蔵堂かどうか判断できなかったので、貴庵寺への坂を上った。その途中にお地蔵さんが見えた。太平洋戦争の戦没者慰霊碑が建ち、その脇に地蔵尊石像が立っている。お地蔵さんには慰霊のために建てられたものも多い。


(昭府町地蔵堂)

貴庵寺に上って来る頭を丸めた男性がいたので、お堂が地蔵尊なのかと聞いてみた。知らないという。下ってお堂を覗いてみるが、堂の主はよく見えない。しっかり探すと、地蔵堂という言葉があった。このお堂を建てたときの経緯を記したものであった。向いに昭府町公民館があるから、このお堂は昭府町地蔵堂というのだろう。番外の地蔵堂としてお参りした。

第五十八番長栄寺は次の籠上地区で、賤機山派生した鼻の向こう側にあった。案内板によると、武田信玄が駿河に侵攻し今川氏親が滅ぼされた折り、賤機山の砦にいた姫君が、安倍川対岸の慈悲尾の増善寺へ庇護を求めて移る際に、対岸まで家宝を持って渡れなかった。そこで今川家の家宝、聖観音像を長栄寺の井戸に投入して逃れたという。この聖観音像は、後年、井戸より発見され、井戸出現観音として、長栄寺の御本尊となっている。

長栄寺の地蔵尊は階段を昇った階上の本堂に祀られているようで、案内板にも記され、山門にも「駿河地蔵尊札所」の看板が掛っていた。


(籠上地蔵堂)

長栄寺を出て里道のすぐ先に、籠上地蔵堂があった。石の半跏像が見えた。屋根が金属板(銅?)葺で、そんなに古い建物でもない。かつてはこのような地蔵堂が村毎にあり、公民館の無い時代、村の一寸した集まりには地蔵堂が使われたのだろうと思う。


(第五十七番松樹院山門)

第五十七番松樹院は賤機山に沿って600メートルほど南へ歩いた山裾にあった。境内に子安地蔵尊が立ち、周囲に何体かの小さな地蔵尊が岩の上に立っていた。しかし、この子安地蔵尊は量産されたもので、これが百地蔵というわけではなかった。かつての百地蔵の地蔵尊はいつの時代か失われて、今は新しく造られた地蔵尊が本堂内に厨子に納められて祀られているらしい。(つづく)
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