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久し振りに、お遍路の話題

(鬼コーチさんの奥州街道道中記)

駿河古文書会の会員で、同年輩のAさんが先週の土曜日から区切り打ちで最終回のお遍路に出かけると言っていた。香川県の第80番札所の国分寺からスタートで、第88番大窪寺で結願して、第1番霊山寺まで戻るという。女性二人で、ゆっくりのお遍路のようだから、1週間ほどかかるだろう。金曜日の例会の前に少し話した。土曜日が雨で、五色台の山中歩きが心配らしく、様子を聞かれた。また、女体山への登りのコース取りについても聞かれた。

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区切り打ちでのお遍路も、何回にも分けて、毎年のようにお遍路に行けるので、悪くない。松山在住のマメ名人さんも10日ほどの区切り打ちで出掛けたと一月ほど前に書き込みをくれた。最後の書き込みに、コメントを返さなかったので、ここで触れる。

自分のリクエストで、マメ名人さんが泊まった宿を書き出してくれた。

「17日ホテル土佐路たかす、18日高知屋、19日山陽荘、20日民宿あわ、21日岩本寺宿坊、22日民宿ビックマリーン、23日民宿久百々、24日民宿夕日、25日民宿叶崎、26日ホテルマツヤ、27日観自在寺宿坊、28日三好旅館。」

聞いたような宿が並んでいる。山陽荘、民宿ビックマリーン、民宿久百々、観自在寺宿坊、三好旅館の5宿は自分は泊まっていない。

「印象に残った宿は、高知屋、山陽荘、久百々、夕日、叶崎、三好旅館。特にきつい旧遍路道を歩いた後たどり着いた、民宿夕日からの夕日は、すべてを帳消しにするほど感激でした。」

民宿夕日からの夕日は自分も印象に残っている。「すべてを帳消しにするほど感激」と書かれていたが、そのすべてが何なのか、少し気になる。歩くのが嫌いと、お遍路を泊める宿らしからぬ女将さんであったけれども、気取りのない応対は嫌いではなかった。

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ついでにもう一つ、鬼コーチさんから1ヶ月ほど前に手紙を頂いた。街道歩きをされていて、仙台から青森までの奥州街道の道中記を送っていただいた。鬼コーチさんの道中記は小さいカラー写真を並べたもので、A4で20枚にも及ぶ。歩きながら大変に小まめに写真を撮られている印象が、お遍路で同行した時も感じられた。

鬼コーチさんは、昨年春、4月1日に日本橋を出発し、仙台まで歩く計画だったけれども、震災で大変なことになり、中止した。来年春には、昨年中止したコースを歩く予定だという。鬼コーチさんのペースにはとても付いて行けそうにないが、一度お会いしたいとは思っている。

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2度目のお遍路の記録は、「四国お遍路まんだら ふたたび」とタイトルまで決まっている。原稿もほぼ出来上がっている。ただし、年金生活に入り、自費出版したいけれども、予算が付かない。それで考えてしまっている。
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類病相煩い不作、夫食拝借のこと - 駿河古文書会

(11月18日、不動峡紅葉)

先週金曜日、駿河古文書会へ出席した読んだ古文書を以下へ読み下し文で示す。

冷害など、自然災害で凶作と成り、夫食米を拝借を願う文書は何度か読んだが、この文書は、流行り病で一村の多数が耕作できず、不作になったという話である。1通目は、当該村からの願い書である。

 恐れながら口上書を以って願い上げ奉り候御事
一 庵原郡由比加宿、東山寺村の義、去る冬、御願い申し上げ候通り、永々相煩い罷り有り候所、去る暮、御年貢並び諸役金御座なく、それ故、喝命に及び罷り有り候故、御願い申し上げ候は、家数弐拾五軒、人数病人四拾人、御扶持米下し置かれ候様に願い上げ奉り候

然る所に身躰宜しき者も、右之内一両人も御座候えども、去る暮より、この方、芋大根代替御年貢御役懸け、御上納仕りたきにも、在邊の義、御座候えども、病人の家より代替申す義、兼て仕らず、難義至極に存じ奉り候
※ 身躰(しんだい)- 身代、個人、または一家が有する、すべての財産。身上(しんしょう)。
※ 在邊(ざいへん)- かたいなか。在郷。在所。


うえ(飢え)人百姓御救いのため、御扶持米三拾俵ほど下し置かれ候わば、うへ百姓相続き仕り、永々御年貢並び御伝馬役義、相勤め申すべく候間、御慈悲の御下知、願い上げ奉り候、以上
  享保十五年戌正月 
(以下略)     

2通目は役所から隣村に尋ねた返答である。

 御尋ねに付、申し上げ候御事
一 庵原郡東山寺村百姓之内、御願い申し上げ候家別、去五月より、類病にて、この節まで永々相煩い申すに付、村中にて耕作など助け合い申し候えども、永々義ゆえ、隣村、拙者ども村方よりも助け合い、耕作手伝い仕り候躰ゆえ、作物も不出来にて、殊の外、内證困窮仕り、この度、飢え夫食御願い申し上げ候通り、相違御座なく候、御尋に付、渕底存じ罷り成り候通り、書付を以って申し上げ候、以上

※ 類病(るいびょう)- 症状の似た病気。
※ 渕底(えんてい)- 深い水の底。物事の奥深いところ。深く。詳しく。

 享保十五年戌正月   庵原郡阿僧村(以下略)
           
3通目は当該村からの正式な願い書であろう。この文書を読むと、すでに現地見分が行われ、役人も承知をしたことが窺える。当時の役人は領民からの願い書があって動くようで、改めて正式な願い書を出させたものと思われる。

    差上一札の事
一 由比加宿村之内、東山寺村の義、去る五月より、類病に入り込み、今以って、相煩い罷り有り候故、去年中は耕作収納なども、村中並び隣村にて助け合い申し候躰故、殊の外不作仕り、困窮仕り候

右村家数五拾軒余、人数弐百五拾人余の内、家数拾九軒、人数男女七拾五人、別して家内、今以って相煩い、去る暮より夫食これ無く候故、御上納なども村中にて償い、取り続かさせ申し候、もっとも御伝馬役の義も、加宿村々にて仕り、埋め申し候えば、もはや御参勤時分に罷り成り候わば、加宿村々も難儀仕り候

その上村中にても、力に及び申さず候間、よんどころなく夫食御願い申し上げ候に付、御出で成られ、家別御見分成られ候所、相違御座なく、何とぞ正月中より四月廿日までの夫食御拝借、仰せ立てられ下さるべく候は、麦作にも取継き申し候わば、飢え死になどもこれ無く、相続き仕らさせ申すべく候

これにより、加宿問屋年寄ともに、連判を以って願い上げ奉り候、
願いの通り仰せ付けられ下し置かれべく候、以上
  享保十五年戌正月廿日 
(以下略) 

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百姓が名主を訴えた(後) - 古文書に親しむ

(不動峡の紅葉、今日)

(昨日のつづき)
一 私ども村方の儀は、弐拾ヶ年以前、未進など出来、むずかしく候ゆえ、年々名主勤め中、金三両ずつ出金致すべく取り極め置き候処、古役の義は、右出金、滞りなくこれ有り候えども、当時、善右衛門、清兵衛両人勤中に相成り候てより、一向村方へ差し出し申さず候
※ 未進 - 納むべき年貢を一部だけ納入して残りを完納できないことを年貢未進といった。

これにより小前一同より談じ及び候は、未進差し加えとして、参拾両、田地売り置き候ところ、この度右田地請け戻したく存じ候に付、その段両人へ申し込み候のところ、清兵衛義は承知仕り、右様差し出すべきつもりに、聞き請け申し候えども、善右衛門儀は、一円不承知これを申す

縺れ合い候処、隣村三ヶ村役人立ち入り、種々取扱いくれ、なお又、触れ元衆中様よりも、御立入り下され、御取り扱いくだされ候儀に付、小前より達して、諸帳面勘定取り調べ、仕訳致しくれ候様、申し込み候処、遮って相成らざる様申され、その段一切不承知にて、破談に及び候に付、是非無く、今般出訴奉る
※ 達して - 告げ知らせて。伝えて。

願い上げ奉り候は、右善右衛門勤中、諸勘定仕訳委細、取り調べ致し候わば、明白に相分り申すべきと、存じ奉り候の間、何とぞ右帳面浚い勘定、仰せ付けられ下し置かれ候様、願い上げ奉り候

右三ヶ條の趣、今般願い上げ奉り候段、村役人を相手取り、御訴詔申し上げ奉り候儀、誠にもって、恐れ入り候御儀には御座候えども、打ち捨て置き候ては、この末、善右衛門いかようの取り計い仕出し候やも、計りがたく存じ奉り、左候えば村方一同、難渋仕り候ことども、数多これ有り候ては、始終百姓行き立ても相出来がたく、はなはだもって歎かわしく存じ奉り候

これにより、相手善右衛門儀、右様自儘の取り計い、以来一切仕らざる様、成し下されたく、何とぞ格別の御憐愍をもって、願いの通り、仰せ付けられ下し置かれ候様、村方惣代連印をもって、願い上げ候、以上
(以下略)
※ 自儘(じまま)- 周囲の事情など考えずに、自分の思うままに物事をすること。また、そのさま。わがまま。

名主の乱脈経理など、横暴に対して、まずは、隣村三ヶ村の村役人が中に入って、触れ元衆中様(各種御触れを出す元の役人衆)に検査をしてもらおうとしたが、当人の拒否にあった。最終的手段として、小前百姓の惣代が役所へ、帳簿等を検査してもらうべく、訴えを起すことになった。現在の制度では背任の告発になるのだろうか。結果がどうなったのか、ここでは不明である。
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百姓が名主を訴えた(前) - 古文書に親しむ

(11月13日、軍神社境内)

江戸時代、名主、組頭、百姓代の村役人は、小前百姓たちが推薦した者に、お上が仰せ付ける形になっていて、代々勤める家も多かったが、決して世襲というわけではなかった。以下は、そういう名主を百姓たちが訴える話である。揉め事がどのような推移で訴訟にまで発展したのか、少し長くなるが、前、後半に別けて取り上げる。読み下し文で示す。

恐れながら書付をもって願い上げ奉り候
一 御領分北沼上村、小前惣代申し上げ奉り候、
発端の儀は北沼上村持林壱枚、長尾村次郎吉へ売渡し置き候処、この度、善右衛門義、小前へは申すに及ばず、同役中へも談じこれ無く、一人了簡に任せ、山論入用金として三両、次郎吉へ当て付け候処、同人義は右出金などは出来難く候故、是非なく、地所代金三両、これを請取り、右地所、善右衛門方へ相戻し候
※ 入用金(にゅうようきん)- その用に必要な金銭。費用。
※ 当付(あてつける)- あてがう。割り当てる。


致し方宜しからず、これにより村方小前には、善右衛門方へ参り、相対に懸け合い候は、長尾村次郎吉より相戻され候地所の儀、小前は申すに及ばず、同役
中へも、一向噺(はなし)これ無き儀、一円承りたき段、申し掛け候処、その利に相詰り、善右衛門、答え候は、村方不承知に候わば致し方これ無し、如何様とも勝手に致すべしと、申され候、これをもって右地所村方へ差し出し候様、仰せ付けられ候様、願い上げ奉り候

または村方山論入用の儀も、三四ヶ年の間、村方より出金と諸入用金高、差引のための仕訳なども、今もって差引なく致し置き候に付、村方小前より、度々右の仕訳致しくれ候様、相頼み候えども、これをもって一向取り用いこれ無く等閑(なおざり)に致し置き候間、右様の儀も明白に致すべき様、願い上げ奉り候

一 当村、字御嶽ヶ谷窪、先年より芝地これ有り候処、隣村南沼上村甚左衛門と申す者、この度、開発仕りたき旨、当村清左衛門相頼まれ、右両人にて、村方へ申し出候に付、一統相談の上、承知仕り、已来、甚左衛門開発致すべき積りにて、書面壱札、世話人へ取り置き申し候、もっとも鍬下三ヶ年過ぎ候わば、作米として六升ずつ、三四ヶ年相納め、その後より米壱斗ずつ納め来り候処、右、善右衛門儀は、御上納仕らず、または村方へも差し出し申さず、今もって自分へ取り込み置き候
※ 鍬下(くわした)- 荒地を切り開いて田畑にするまでの期間。
※ 作米(さくまい)- 年貢米


これにより、以来は、村方より御見取り納め仕りたき心得に御座候ゆえ、この段書面の通り、郷地にて御見、取箇、御上納、仰せ付けられ下し置かれ候の様、願い上げ奉り候
※ 見取(みとり)- 江戸時代、やせた土地や開発後間もない新田などで収穫が不安定な場合、石高をつけずに、坪刈りをして納米高を決めたこと。
※ 取箇(とりか)- 江戸時代に幕府または各領主が田畑に課した年貢。

(後半に続く)
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国会解散と由比正雪の首塚

(由比正雪の首塚)

本日、民主党野田政権が衆議院を解散した。年内に総選挙が行われ、新政権が発足することになる。今まで選挙民はどこが政権担当しても変わらないと、選挙に無関心な人が多かった。関心のある有権者も、マスコミの潮流に乗った勢力をうかうか選んでしまった。(自分もその一人である)その結果、どんなことが起きるのかを、この数年、骨身にしみて学んだと思う。新党がたくさん出来て、迷うところであるけれども、ここはじっくりと考えて、投票しなければならない。

マニフェストなるものが出来て、それを見て投票した人は多い。昔は「公約」と呼ばれていたけれども、公約(膏薬)は張り替えられるものと言って、有権者は当てにぜず、それよりも候補者の人となり、信条、政治家としての能力、過去の行動などをじっくり観察して投票していたように思う。党のマニフェストを当てにしていると、国会に行っても何にも分からない素人ばかりが選ばれて、国政を停滞させてしまう。前回の選挙では有能な政治家をたくさん落としてしまった。日々世界が激動している中で、口当たりの良いマニフェストなど吹けば飛ぶようなもので、それよりも候補者に、あなたは何を考え、国会でどう行動するのかを聞きたい。有権者の一人一人の代りに、国政にたずさわるのが国会議員なのだから。

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250年、天下泰平であった江戸時代、公然と幕府に反旗をひるがえす反乱、あるいは反乱未遂が、幕末を除いて、3件あった。寛永14年(1637)に勃発した島原の乱、天保8年(1837)に起きた大塩平八郎の乱、そして慶安四年の由比正雪の乱(慶安の変)、正雪の乱は未遂に終わったけれども、舞台が江戸と、家康のお膝元駿府、久能山だったため、幕府のショックは大きいものがあったと思う。

第10回の百地蔵巡りで、最後に訪れた第六十五番菩提樹院には、その由比正雪の首塚があった。菩提樹院はもとは静岡市内の寺町四丁目、現在の常磐公園にあったが、戦後復興に際して、昭和21年区画整理により、ここ沓谷の地へ移転した。

由比正雪の首塚は境内右手にあった。案内板によれば、由比正雪は慶長15年(1610)駿府宮ヶ崎の紺屋に生まれ、17歳の時、江戸へ出て楠流軍学を学び、江戸牛込に道場を構えて、軍学を指南していた。時に、幕府の悪政を改革せんと、幕府転覆を計り、自ら久能山に立て籠もり、東西の同志に号令せんとした。計画が、事前に露見し、慶安四年(1651)七月二十六日、梅屋町の旅籠梅屋に於いて、捕り方に包囲され、辞世の句を残して、同志9名と共に自刃した。時に正雪42歳。安倍川畔にさらし首になるも、縁者の女人が秘かにその首を盗み、寺町の菩提樹院(現常磐公園)へ葬った。これが首塚で、寺の移転と同時に首塚も移転された。
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36長泉寺、67松龍院、ほか - 駿河百地蔵巡り 10回目

(靜岡護国神社)

(昨日のつづき)
谷津山の西端を時計回りとは逆に戻る。清水寺からは東へ歩いた。春日三丁目公民館の敷地に滝之沢地蔵堂があった。案内板によると、かつて、谷津山の山麓が曲金近くまで延びていた。東海道本線が通っている辺りに、「織沢地蔵」があった。吉宗の時代に周辺の土地が開発され、「織沢地蔵」は滝之沢のこの地へ移転され、「滝之沢地蔵尊」と呼ばれ、厚い信仰を集めるようになったという。


(滝之沢地蔵尊)

「滝之沢地蔵尊」は番外のはずなのに、「駿河一国百地蔵第二十三番札所」の表示があった。首をひねる所であるが、これで、小黒地蔵堂に21番、横田地蔵堂に22番、ここ滝之沢地蔵堂に23番がそれぞれ振られている。単なる間違いとは思えない意図が感じられる。追跡すれば、新たな地蔵群が見えてくるかもしれない。


(長泉寺地蔵堂)

第三十六番長泉寺は護国神社の西、谷津山の山裾に回り込んだところにあった。本堂左前に地蔵堂はあった。「駿河一国百地蔵第丗六番」の板は地蔵堂内に張られていた。外には「厄除延命招福」の額が掛っていた。

この後、護国神社に寄った。気持のよい空間で、ここを訪れるのは何年ぶりであろうか。ベンチに座って持参のおにぎりを食べながら、休憩していた。七五三の季節で、10人ほどの正装した大人の中に、男の子が一人、遠くに見えた。やがて巫女さんに先導されて、ぞろぞろと拝殿に向かって行った。拝殿まで随分離れていたが、太鼓の音や雅楽の囃しがかすかに聞こえ、それに子供の泣き声が混じっていた。七五三に大人が10人も付いて来るとは、いかにも少子化時代を象徴しているように見えた。

この後、沓谷のお寺の団地へ向かった。靜岡市中心部のお寺は、大火と戦災で伽藍を失い、戦後復興に際して、都市計画上、広い敷地の寺々が妨げになったのであろう、谷津山の東山麓の愛宕霊園と、その東側にお寺の団地が出来た。地図で確認できるだけでも9ヶ寺が軒を連ねている。ここに駿河一国百地蔵尊が5ヶ所数えるけれども、大火、戦災、移転を通して幾つ残っているのであろうか。お地蔵さんは庶民的であるけれども、お寺の優先順位からすれば、低いように思われるから、望みが薄いように思えた。


(松龍院地蔵堂)


(浄祐寺地蔵堂)

第六十七番松龍院には地蔵堂があって、石造りの新しい子安地蔵尊が安置されていたが、それが百地蔵かどうかは確証が無かった。左隣の浄祐寺には通りに面して、番外の地蔵堂があって、全体を赤い布に覆われて、黒光りした顔だけが拝観できた。その後巡った、第六十六番新善光寺、第四十一番安南寺、第六十四番少林寺、第六十五番菩提樹院には、百地蔵の地蔵尊を見つけることが出来なかった。

それよりJR東靜岡駅へ歩いて電車に乗った。今日は百地蔵を14ヶ所、別院を一ヶ所、番外の地蔵を5ヶ所、合わせて20ヶ所を巡った。内7ヶ所では地蔵尊を見つけられなかった。本日の歩数30,470歩、歩行距離10キロ、歩きが足らなかったので、金谷駅から駅まで3.7キロを歩いて帰宅した。
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39横田地蔵堂、37清水寺、38元長寺、48長源院 - 駿河百地蔵巡り 10回目

(石の仁王の長源院)

(昨日のつづき)
法蔵寺を出て、隣の軍神社を横切る。軍神社には5、6本の楠の巨木がある。広い境内のクスノキの下に、一回り大きな乳母車に、ようやく歩き始めた幼児を乗せた保母さんたちが来ていた。大きな乳母車に5人ほど、小さな乳母車でも3人ほど乗せ、四人の保母さんで10数人の幼児を連れてきたようだ。乳母車から降ろしても、遊び回るほど歩けるわけではない。立っているだけの幼児、座り込む幼児、ヨチヨチと歩く幼児、近くの保育園であろうか。大きな乳母車は市販されているわけはなく、どこかの鉄工場で特注したものであろうか。

そういえば、靜岡市に入って、それまで延命地蔵尊が目立った地蔵めぐりも、子安地蔵や子育て地蔵が随分目立つようになった。駿府は隠居した家康のお膝元で、江戸時代を通じて他地域よりも優遇されてきた。飢饉の時代も、お上から手当てされて、延命は比較的容易であったのだろう。延命よりも子安が庶民の関心事だったのだと思う。夫婦共稼ぎが普通になった現代は、再び子育てが難しい時代に入っている。待機児童の問題は子安地蔵尊にもどうにもならない。


(横田地蔵堂)

曲金で、新幹線、東海道線、国道1号線を斜めに渡り、横田町に入った。その先の横田町三区公民館、第三十九番横田地蔵堂は併設されている。横額板に「當國二十二番延命地蔵尊」と書かれている。石の地蔵座像の台座には「駿河一国第二十二番」と刻まれている。ここは確か第三十九番だったはずである。何か別の地蔵グループがあるのだろうか。


(清水寺の石地蔵)

次の第三十七番清水寺は谷津山の西の端にある。地蔵は境内露座という。一段上った境内で、次の石段下の右側にあった。境内を掃除するおじさんと、お参りに来た老婆が立ち話をしている。お地蔵さんはここだろうかと、声を掛けた。百地蔵のことは知らなかったが、このお地蔵さんで間違いないだろうという。ネットで調べた情報では、通称「石地蔵」と呼ばれる堂々とした石造りの座蔵である。台座の刻字によれば、この地蔵は正徳三年(1713)に建立されたものだという。清水寺は外にも色々と見所の多いお寺であるが、今回はお地蔵さんにだけお参りした。


(元長寺地蔵堂)

谷津山の裾を時計回り周って、清水山公園を横切り、元長寺、長源院と巡る。第三十八番元長寺の地蔵堂は参道の入口にあった。「駿河一国百地蔵第丗八番」の板は地蔵堂内部に立て掛けてあり、外に「新駿河一国 瓦場町 南無子育延命地蔵願王尊 三十八番 元長寺」と書かれた板が張られていた。「新駿河一国」とは何なのだろう。


(長源院地蔵堂)

さらに沓谷霊園の向うに、第四十八番長源院があった。山門前の露座に石造りの阿吽の仁王像がある立派なお寺で、本堂が改修工事中であった。山門に「駿河一国百地蔵第丗三番」の板が張ってあった。地蔵堂は本堂左手にあり、覗くと彩色された地蔵尊が見えた。この地蔵は厄難除地蔵尊である。(つづく)
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32崇福寺、33神龍院、34金剛寺 - 駿河百地蔵巡り 10回目

(第三十三番神龍院)

今朝、10回目の百地蔵巡りに出掛けた。天気は良いけれども、少し寒くなってきた。

靜岡駅から、まず、前回残した新光明寺別院と第四十五番法伝寺の確認に行った。何れもビル内にあるから、地蔵尊のお参りは期待薄である。前回最後に訪れた伝馬町の宝泰寺西側、迦葉館というビルの最上階に新光明寺別院がある。一階の標識で確認できた。さらに、丸井静岡店A館の裏に、法伝寺の表示もあった。何れも確認だけに留め、次へ進んだ。

靜岡駅へ戻り、駅南へ出て、真っ直ぐ南へ約1キロ歩いた、稲川交差点のそばに、第三十二番崇福寺がある。このお寺は四国霊場別格4番、徳島の鯖大師を勧請して祀っている。戦前には第三十二番の地蔵堂があったというが、戦災で地蔵尊共々失われ、まだ復興が出来ていないという。


(神龍院地蔵堂)

八幡山のふもとに第三十三番神龍院がある。そこまで約1キロ、かつての久能街道沿いである。久能街道についてはコースが調べてあり、百地蔵巡りの最後に、おまけとして、このコースを歩いて見たいと思っている。神龍院の境内では、若い僧侶が一人、黙々と落ち葉の掃除をしていた。山門に「駿河一国百地蔵第丗三番」の板が掛っていた。地蔵堂は境内右手にあった。堂内には極彩色の子安地蔵尊が祀られていた。この像は昭和33年に、元の石像が壊れていたので、新しく造られたものである。壊れた石像は地蔵堂地下に埋められているという。


(金剛寺地蔵堂)

第三十四番金剛寺は200メートルほど先にある。境内にいくつかあるお堂の一つが、第三十四番の子安地蔵尊のお堂である。両側を六地蔵と子安地蔵に挟まれたお堂である。


(小黒子安地蔵堂)

次の第三十五番法蔵寺まで、ツインメッセの脇を通って約1キロである。途中の小黒交差点の角に、番外の小黒子安地蔵堂がある。番外のはずが、軒下に「駿河廿一番」の表示がされていた。これは何を表すのだろう。

法蔵寺は昔、クスの巨木を見に来た軍神社の隣りにあった。境内に並んだ墓石や地蔵尊などに、しっかりと案内板が付いていて、大変親切なお寺であった。お地蔵さんもいくつかあって、第三十五番の延命地蔵尊は本堂の左側にある観音堂に祀られているという。木製の立像で、昭和五七年に修復され、彩色しなおされているという。ところが、観音堂だと思って、ついつい見逃してしまった。次回のスタートに再訪して、お参りし直して来ようと思う。

法蔵寺境内には、外に千日地蔵尊と狐ヶ崎地蔵尊の、2体の地蔵尊がある。何れももともとは別の場所にあったが、法蔵寺に移されたものだという。


(千日地蔵尊)

延宝四年(1676)、この地方に悪病が流行した際、当時61歳の信仰厚き人が、病に苦しむ人々を救わんと、穴を掘り読経祈願すること幾十日、二月一五日正午、その穴の中で入定した。この功徳によって悪病が収まり、村人は同人を弔うために入定の地に千日地蔵尊を祀り、千日参詣の願かけを行ったという。即身成仏が駿河のこの地でも行われたことは興味深い。


(狐ヶ崎地蔵尊)

狐ヶ崎とは、谷津山の南麓で、狐の鼻のように突出した地形を呼ぶ。東海道から府中に入る要所で、京都の永観堂になぞらえた永観堂というお堂があり、地蔵尊が祀られていた。江戸時代には、東海道を旅する人々が、この永観堂に立ち寄って身支度を整え、狐ヶ崎地蔵尊に道中の無事を祈願したという。狐ヶ崎は、古文書で、任期を終えて江戸に戻る代官を府中の町役人が狐ヶ崎まで送ったという記事で出て来たことがある。(つづく)
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戦国大名今川氏の興亡 - 駿遠の考古学と歴史

(11月7日、ヒメツルソバの群落、麻機北)

先週の土曜日、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。今回の講座のタイトルは「横地城・勝間田城と高天神城」、サブタイトルが「戦国大名今川氏の動向」である。この時代の話は以前にこの講座で聞いている。

応仁の乱から戦国時代へ至る時代、靜岡の勢力図といくさを追っていくと、応仁の乱で、東軍の遠江守護斯波氏と西軍の駿河守護今川氏のいくさで始まった。今川義忠は遠州見付城、横地城、勝間田城を落として遠州を平定する。しかし、凱旋の途中、塩買坂で残党に討たれて戦死した。

義忠の跡継ぎ問題で、小鹿の乱が起き、義忠の義弟、北条早雲の活躍で、今川氏親が家督を継いだ。この後、氏親(1471~1526)の時代に、日本で最初の戦国大名として地盤を固めた。

この時代に、室町幕府の弱体化に伴い、守護大名は戦国大名へと脱皮していく。戦国大名の条件として、①分国法の制定、②領内検地の実施、③印判状の発給(領地の安堵状など)が挙げられる。今川氏はその条件において、①では、1526年、氏親が日本最初の分国法といわれる「今川仮名目録」を制定した。②では、1487年、氏親の黒印状が最初である。③では、1518年、氏親の時代、遠州相良検地が実施されたことが判っている。

氏親が亡くなると、その子、氏輝が幼少のため、母「寿桂尼」が6年ほど実権を握った。(女戦国大名と呼ばれる)ようやく氏輝が実権を握るも、その6年後、24歳の若さで死去した。氏輝は未婚、嗣子がなく、異母三兄弟の家督争いが起きる。地侍まで二手に別れ、花倉の乱が勃発する。その結果、今川義元が家督相続した。

雪斎の斡旋により甲相駿三国同盟がなり、この三国は婚姻関係を幾つも結び、同盟を確固たるものにした。

1560年、桶狭間の戦いで、義元は織田信長に敗れた。今川義元の子、氏真が家督を継ぐと、信玄は自分の息子義信を幽閉し、その妻を駿河に帰し、駿甲同盟が決裂した。今川氏真は甲斐への塩荷留めを断行した。

1568年、信玄、家康の間で、大井川を境界に、駿遠境界密約が結ばれた。今川の領地を武田、徳川で分けて分捕る約束である。そして信玄が駿河に侵攻、家康が遠江に侵攻した。今川氏真は懸川城へ逃れ、翌年には、懸川城を家康に明け渡し、遠州掛塚から船で相州小田原へ落ち延びて行く。駿河、遠江の2国を領した、戦国大名今川氏が終焉した。

戦国大名として先陣を切りながら、今川氏は、家督相続の内紛が続き、信玄と家康の両側から攻められて、やがて衰退してゆくことになった。しかし、今川家は滅亡したわけではなく、江戸時代を通して高家として禄を食み、江戸末期に至るまで続いた。
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42華陽院、43宝泰寺 - 駿河百地蔵巡り 9回目




(宝泰寺、わらべ地蔵)

(昨日のつづき)
北街道の水落交差点から、手前北側の一角が水落町である。ここに第四十四番水落町地蔵堂がかつてあった。現在どうなっているのかは、情報が全く無いまま、現地を回ってみた。手前一角には常葉学園があり、その先から住宅地に入って、行ったり来たり、うろうろと探してみたが見当たらない。住宅地の真ん中に水落町公園があるけれども、地蔵堂らしきものはない。少し歩くとすぐに水落町から外れてしまう。町内にはお寺も無く、公民館も見当たらない。町内のお年寄りがいれば聞いてみようと思うが、表に出ている人はいなかった。

半ば諦めて、水落交差点にあった交番に寄ってみた。自分は内勤だが、というお巡りさんが、住宅地図を見てくれる。しかし、それらしいものはなかった。次々に転勤するからなかなか古いことは判らない、古くからの商店で聞いてみるしかないという結論になった。大火、戦災などで失われ、都市化の波がすべて洗い流してしまったのかもしれない。古い資料をもう一度調べなおし、再度調査することにして、交番を後にした。


(第42番華陽院)

第四十二番華陽院は北街道を左へ入り、靜岡鉄道の踏切を越えた先、伝馬町通りとの間にあった。案内板によれば、華陽院は家康の祖母、源応尼の菩提寺でお墓もある。元は知源院と呼ばれていたが、源応尼の法名から華陽院と改めたられた。源応尼は、今川氏に人質に取られていた竹千代(家康の幼名)の養育者として、岡崎から招かれた。寺内には、家康の五女、市姫の墓や、側室お久の方の墓もある。

境内には地蔵堂も地蔵尊も見当たらず、地蔵についての情報は全くなかった。本堂に何かあったのかも知れないが、「駿河一国百地蔵尊」の板も見当たらなかった。

第四十三番宝泰寺は伝馬町通りを少し西へ行き、左へ入った、伝馬町小学校の西側にあった。街中にしては広い敷地で、四方を塀に囲まれ、入口は通用門一ヶ所だった。入るのに少し腰が引けたが、入ってみた。

境内は全体が庭園のように整備されて、あちこちに「わらべ地蔵」が置かれている。幼くして亡くなった子供たちの供養のため置かれ、年に一度、わらべ地蔵まつりが開催されるという。様々なポーズのわらべ地蔵は庭のあちこちで日永遊んでいるように見える。


(宝泰寺、地蔵尊立像)
 
さて、百地蔵の地蔵尊を探したが、「駿河一国百地蔵尊」の板は見当たらず、墓地のまっすぐ入った突き当たりに、高い台石の上に、石の地蔵尊立像が祀られていた。外に情報がないので、この地蔵尊を百地蔵ととりあえず決めておこう。したがって、わらべ地蔵は番外のお地蔵さんとして数える。

本日の歩数42,215歩、歩行距離21キロである。
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