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「竹下村誌稿」を読む 388 古文書 1

(散歩道のキクザキリュウキンカ)

今日より、「竹下村誌稿」の古文書の項に入る。最初は「北条氏政状」である。自分の専門であるが、これだけ虫食いが多いと、さすがに内容を理解するのは難しい。著者も、解読はあきらめているようである。気になるのは、この政状がどういう経緯で、当村の渡辺氏の所蔵となっているかである。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

     第十二章 古 文 書

      第一節 総  説

古文書の宜しくは、伝わるべきものなりとする社寺に於いて、その伝うるもの、甚だ稀なり、況んや民家に於いてをや。況んや数百年の久しき種々の故障のために、災害を被るもの多きに於いてをや。嗚呼、古文書の伝わらざる、また寔(まこと)に止むを得ざるなり。本村に保存せる一、二の古文書を掲ぐれば、

       一 北条氏政状(渡辺氏所蔵)□は蝕字

松山にて先便□□正□も如案入申越候間相止候然者敵関宿へ相移と心付□□□相動□□□必定と心付無□□候間此状□着次第夜中無嫌可相移候遅□□敵□□□被移間敷候夜迄可相移少も油断□□□□□□□法度□□□□□恐々謹言
□□之内令出馬候間□□□□□□□
□の二月晦日                 氏政 花押
□□□□□□□□□□□□
      北川 殿


因みに云う。北条氏政が松山城を取りしは、永禄五年(1562)三月にして、この城は太田資正の属城なり。而して氏政は長氏四世の孫、左京太夫氏康の長子なり。累世小田原の城主として、雄を関左八州に張れり。新編相模風土記に、明応四年伊勢長氏、上杉藤頼を攻めて小田原城を取り、これに徙(うつ)り、かくて長氏、伊豆、相模を平治し姓を改めて北条と号し(薙髪して早雲菴宗瑞と号す)その子左京太夫氏綱、その子左京太夫氏康、永禄三年(1560)六月氏康落飾して萬松軒と号し、嫡子左京太夫氏政、家督を継ぎ当城の主たり。
※ 松山城(まつやまじょう)- 武蔵国横見郡松山(現在の埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山)にあった日本の城。別名「武州松山城」。
※ 落飾(らくしょく)- 高貴な人が髪をそり落として仏門に入ること。


(永禄)四年(1561)三月、上杉輝虎、鶴岡八幡宮に参詣して管領の拝賀を逐(お)えんがため、小田原退治と称し、当城に発行す。北条方にては籠城の用意にて悉く場内に引しかば、輝虎、蓮池門まで押し寄せ、軈(やが)て退陣して、鎌倉に赴(おもむ)けり。(永禄)十二年(1569)八月武田信玄、当城に押し寄せしに、北条方はまた城に籠り、合戦に及ばざれば、信玄蓮池辺まで乱入し、十月に至るまで在陣して、回陣せり。

元亀元年(1570)十月三日氏康卒す。天正元年(1573)、氏政隠居して、截流斎と号し、その子左京太夫氏直、家督を継ぎ、当城の主たり。北条氏、多年関左八州を押領し、上洛にも及ばざれば、豊臣秀吉小田原退治の聞こえあり。故に(天正)十八年(1590)正月より城の内外など、大いに修造を加う。三月秀吉洛を発行あり。やがて上方の大軍、駿州辺に押し来たり。充満せる由聞こえければ、城中俄かに防禦の手立てをなし、大手口を始め、箱根、宮城野、湯本、竹花、井細田、久野、小峰、早川などの口々に人衆を配り、関左八州の軍勢数万騎、楯籠(たてこも)れり。(小田原記)然るに、信州口、甲州口、並び箱根まで連々破れ、七月七日落城す。新九郎長氏当城を攻め取りしより、氏直に至るまで九十六年にして終に滅亡せり。
※ 押領(おうりょう)- 他人の領地などを実力をもって奪うこと。
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