goo

「竹下村誌稿」を読む 393 古文書 6

(庭のルリカラクサ)

ムサシが逝って三日目、ムサシの生活場所はすっかり片付いたが、まだ日常は戻ってこない。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

       二 沢庵和尚状(渡辺氏所蔵)

   久しく申し頼まず、時々は源右
   参会せしむ御事ども、申し出で居り候。   □は蝕字
先日は早速、芳書を預り、本望至極に候。御休息には、来話希(のぞ)むべく候。別して、一度□□片原町御住居の御物語ども□候故、この茶、宇治より茶の時分にくれし、曽根の茶局とも存じず候えども、これを進ぜ、期□候なり。恐々不悉
  六月二十二日          可□
                    宗彭
     清雲老
       茶局
※ 恐々(きょうきょう)- おそれかしこまるさま。
※ 不悉(ふしつ)- 思うことを十分に言いつくさないこと。手紙の末尾に書き添える語。


因って云う。沢庵和尚は品川東海寺の開山なり。名を宗彭と云う。地名辞書に、東海寺は寛永十五年(1638)の建立にして、萬松山と号し、臨済宗の大伽藍なり。塔頭十七院を有し、寺域四万八千坪を占め、寺領五百石を有せしが、近時変革にあい、頗る旧観を失えり。
※ 塔頭(たっちゅう)- 寺院のなかにある個別の坊をいう。寺院を護持している僧侶や家族が住む。

武蔵新風土記に、本寺草創の時、和尚の詠める歌に、

  尽きせじな 末は新治 筑波山 海となるまで 君が世なれば
※ 新治(にいばり)- 古代律令制以前に、現在の茨城県西部に存在した新治国のことを指す。「古事記」に、東征を遂げた倭建命が、帰路の甲斐国酒折で詠んだ、「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌で知られる。

又、江戸名所図会に、東海寺は門前の緑水潺湲として、品川の流れ、海口に通ず。屋後青山崔嵬として脩竹風帆沙島勝覧、筆の及ぶ所に非ず。殊更、方丈の林泉は小堀遠州候の差図にして、庭作りの規範とす。都て、満地、青松丹楓、枝葉を交え、晩秋の奇観、錦繍を洒(さら)すが如し。常に寂々寥々として、実に禅心を澄ましむを精舎(寺)なり。
※ 潺湲(せんかん)- さらさらと水の流れるさま。
※ 屋後(おくご)- 家のうら。家屋の背面。
※ 青山(せいざん)- 草木が青々と茂っている山。
※ 崔嵬(さいかい)- 山で、岩や石がごろごろしていて険しいさま。
※ 脩竹(しゅうちく)- 長くのびた竹。修竹。
※ 風帆(ふうはん)- 風をはらんでふくれた帆。
※ 沙島(しゃとう)- 砂の島。
※ 勝覧(しょうらん)- 良い眺め。
※ 林泉(りんせん)- 林や泉水を配して造った庭園。
※ 満地(まんち)- 地面いっぱいに満ちていること。地上一面。


また沢庵、天資澹泊にして、希望寡(すくな)し。嘗て諸雄藩の寺を創して、以って招くもの多し。皆な趣(おもむ)かず。幕府また、嘗て切に沢庵を召すことあり。応ぜず、その時の歌に、
※ 天資(てんし)- 生まれつきの資質。天性。
※ 澹泊(たんぱく)- 物事にこだわらず、さっぱりしていること。


  おめしなら かえり沢庵 おもえども おへどときけば むさしきたなし

  お召し(飯)なら 帰り沢庵(タクアン) 思えども 
      お江戸(反吐)と聞けば 武蔵(むさし)来たなし(穢し)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )