平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「竹下村誌稿」を読む 387 風俗習慣 28
庭のトウキンセンカ、2輪目が咲いたが、1輪目がオレンジ、2輪目は黄色だった。
駿河古文書会で、HH氏から解読を頼まれた、井川の古文書を解読した。独特の言葉遣いで、難しかったが何とか解読出来た。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。今日で「風俗習慣」の項を終える。明日からは、いよいよ最終章「古文書」の項に入る。
四 樗保一田
今は昔、明和初度(元年=1764)の交、村内に伊三郎と云うものあり。本名を杉本庄九郎と云う。常に賭博を好み、暇あれば家を出て輪羸(まけかち)をこととせしが、嘗て勝利を得たること稀れにして、これが為に家に伝わりし四、五反歩の田地も皆な棒に振りたり。その妻これを見るに忍ばず、苦諌したれども、伊三郎毫(ごう)も可(き)かず。
※ 交(こう)- 年月や季節などの変わり目のころ。
※ 苦諌(くかん)- 苦言をもっていさめること。
或る夜、伊三郎また家を出でゝ賭場に行かんとす。有繋(さすが)なる妻も涙に袂を湿しつゝ謂いて曰く、事已にここに至れば、今何ぞ諌(いさ)むることをなさんや。良人、今夕は大いに賭すべし。然れども軽挙して失敗を重ねることなかれ。今夕の勝点は必ず五にあり。(五とは賭具に采と云うて径三分位ある立方体の骨子あり。一より六までを六面に刻みたる。一面にしてその目数二十一あり。二十を樗保と云うを以って、樗保一ともいう)宜しく五を賭すべしと。
※ 樗保一(ちょぼいち)- サイコロを使った日本の賭博ゲーム。単にチョボとも略される。
伊三郎毫(ごう)も耳を籍(か)さず。出でゝ、賭場(横岡新田某方)に至れば、同類相集り、奇偶の声すでに酣(たけなわ)なり。伊三郎これを見つゝあるも容易に指を染めず。妻の言う如く、五の目の出るを待つこと一時、千秋の思いをなせしが、少時にして五の出づるを見て、礑(はた)と手を打ち、思えらく、妻の所謂勝点はここにありと、五を賭すること数番、果たして大いに勝つことを得たり。
※ 奇偶(きぐう)- 博打の、半と丁。また、博打。
伊三郎、夢かとばかり打ち喜び、若干金を懐中にし、天にも昇る心地して、夜もいたく更けて家に帰り、声を限りに妻を呼ひ起したれども、更に答えもあらばこそ。伊三郎怪しんで家に入り灯火を点して見れば、こはいかに、妻子は皆な唐紅(からくれない)の血汐に染まりて打ち斃(たお)れ居りたり。伊三郎、意外に驚き何故ならんと熟視すれば、妻は出刃庖刀にて、左の指五本を切り、茶碗もてこれを蓋い、五の目の出でんことを祈り、三才と五才になる小児を刺殺し、自ら出刃に伏して死し居たり。凛烈なるこの有様に、伊三郎思案に暮れ、泣きの涙になす術を知らず。
※ 凛烈(りんれつ)- 寒さが厳しく身にしみいるさま。
頓(やが)て近所親類も打ち集まり、悲嘆際限なかりしも、さてあるべきに非ざれば、形の如く野辺の送りも済ましけるが、後、伊三郎、何か感ずる所ありけん。回国信心のため家出して、終る所を知らず。これに於いて伊三郎の家は絶えて、宅地のみ遺れり。この宅地は田に開発して、伊三郎追善のため、香火地なる常安寺に寄付したり、今はこれを樗保一田と云うて常安寺の所有なり。当時寄付の古證文と施入の位牌は左の如く、同寺に保存せり。
※ 香火地(こうびち)- 菩提寺。
覚え
五郎右衛門屋敷
一 下田五畝拾七歩 分米五斗七升七合 散田七斗納
右は庄九郎屋敷、祠堂に差し上げ申し候。この上、慥に控えに御印置成らるべく候、以上。
明和四年亥拾二月 庄屋八左衛門 ㊞
御寺
施入 晏応宗閑上座 本窓寿心禅尼
喚応妙船信女 天窓寿性禅尼
補安玄宗禅門 寛応貞心禅尼
秀岳智禅禅門
下田五畝拾七歩 散田七斗納 竹下村 庄九郎
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