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掛川古文書講座、史跡めぐり - 曽我地区を訪ねて (2)

(富士浅間宮本殿)

昨日の続きである。


(秋葉灯籠/昔の灯籠ではない)

次に訪れたのが梅橋で、集落はJR東海道線のすぐ南側にあり、西にはすぐ近くにJR愛野駅がある。法多山へ抜ける旧街道(JRなどに寸断されて断片的にしか残っていない)の四つ角に秋葉灯籠が立っている。幕末、ここに御札が降った記事が、伊藤清次郎さんの「天災地変記録」に出ている。(2014-01-08のブログ)西から熱病のように移ってきた騒動が、梅橋村へもやってきた。降った御札は富士浅間様の御札である。

JR東海道線のガードを潜った北側に、梅橋の公会堂がある。廃寺になったお寺の跡地で、公会堂脇に石仏を祀った祠があった。講師はそこに数多く供えられた小さな穴が貫通した自然の小石を指摘して、耳に霊験がある石仏なのだろうと話した。穴は耳が通じる象徴なのだろう。確かにそう言われていると地元の方も頷いた。自分が四国で見たものは、願いが通じるという意味だった。

梅橋の北側では、逆川がのた打つように蛇行していたらしい。その後河川改修がなされたが、旧逆川の跡が、今でも地形で残る。記録を残した伊藤清次郎さんの屋敷はそれより北東に1キロほどのところにあったと説明があった。今は子孫が別のところに引っ越したという。

次に訪れたのは、富士浅間宮である。ここはもう袋井市に入る。かつて旧東海道を歩いたとき、街道の北側に大きな赤い鳥居を見た。そこより北へまっすぐに行った丘の上に富士浅間宮があるのが見えて、どんな神社なのだろうと思っていた。参拝するのは初めてである。


(「国宝冨士浅間宮」の石柱)

本殿が今は重要文化財だが、かつては国宝だったと、説明があった。それもいの一番に指定された国宝だったという。登り口の石段の脇に石柱が立ち、確かに「国宝冨士浅間宮」とあった。それがいつ、重要文化財に格下げになったのだろう。天正十四年、地頭の本間源三郎が造営した本殿は、檜皮葺の屋根が美しい、桃山時代中期の建物である。梅橋で降った富士浅間様の御札とはこの神社の御札だったのだろう。


(中央が北条氏重の墓)

帰りに、昨日の書き込みで触れた、掛川城主だった北条氏重のお墓がある、上嶽寺に寄った。お墓は安政大地震で壊れ、そのままに放置されて、お墓とも思えぬ残骸をさらしていた。前に墓碑が立っているので、そこと判った。氏重の嫁いだ娘が大岡越前守忠相の実母だという話や、掛川の第一小学校北側の岡にある、龍華院大猷院霊屋(3代将軍家光の廟)を建てたのは北条氏重という話も聞いた。


(「善光寺下水丈」の石段)

最後に、「天災地変記録」に何度も出てきた、「善光寺下水丈」の善光寺に立ち寄った。旧東海道の北側、高台に仲道寺と並んである。今回は石段の高さなどを見て、水丈一丈とはどの位の水の高さだったのか、想像しようとしたが、石段は3メートルも無いように見え、一丈では境内まで水が来るように思えた。おそらく、現在より東海道のレベルが2、3メートルは低かったのだろう。この善光寺には、長野の善光寺にあるような「戒壇巡り」があった。無住になって、管理が行き届かなくて、危険なために「戒壇巡り」の行事は中止されたという。

名所とはほど遠いものであっても、地元の人のうんちくが加わると、興味深い旅になる。
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