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もう一つの明治維新(浪士組の系譜) ー 駿遠の考古学と歴史

(庭のツバキの花)

少し期間が経ってしまったが、先月8日に、「駿遠の考古学と歴史」講座があった。テーマは「静岡藩と新番組の明治維新」副題として「『敗者』の近代史」であった。

文久2年(1862)朝廷による幕府改革案に従って、14代将軍家茂の後見職に慶喜、政事総裁職に松平春嶽(福井藩藩主)、京都守護職に松平容保(会津藩藩主)が就いた。これを文久の改革と呼ぶ。あえて御三家を外した人事であった。

庄内藩出身の志士、清河八郎は建白書「急務三策」を山岡鉄舟を通して松平春嶽に提出した。その中で、攘夷を説き、政治犯の大赦を行い、天下の英才を教育することを促した。

12月に、箱館奉行杉浦梅潭から「浪士一件」という文書で、松平主税助からの浪士12名の名簿が提出された。清河八郎、池田徳太郎、石坂宗順、内藤久七郎、堀江芳之助、杉浦直三郎、篠塚行蔵、磯新蔵、大久保松之助、坂本龍馬松浦武四郎、村上俊五郎の12名である。

さらに文久3年1月には、坂本龍馬平野国臣真木和泉、間埼哲馬、宮部鼎蔵、西郷隆盛久坂玄瑞、藤本哲石の名簿が提出された。

時に、上洛する将軍家茂を警護するために、浪士組を募集(要員50名、維持費300両)、旗本から、松平主税助、鵜殿鳩翁、窪田鎮勝、山岡鉄太郎、松岡万、中条金之助、佐々木只三郎をその取締役として付けた。

2月、将軍家茂上洛の時には、浪士組は234名に膨れ上がり随った。浪士取扱に鵜殿鳩翁、高橋泥舟、取締役に山岡鉄太郎、松岡万、取締並出役に速見又四郎、佐々木只三郎、高久安次郎、広瀬六兵衛、調役に山内八郎、中山修助、道中目付に石坂宗順、村上俊五郎がそれぞれ就いた。

234名の浪士たちは、それぞれの思いを持って、京に上ったのである。家茂が上洛をすれば、その警護としての役割は終わる。ところが、中で、清河八郎は尊皇攘夷を朝廷に建白し、朝廷より攘夷実行を奨励する勅諚を得てしまった。おそらく清河は最初から浪士組を攘夷のために使う計画だったのだろう。

浪士組はここで分裂した。攘夷派は江戸へ帰還して行き、その後、東帰浪士隊と呼ばれる。一方、攘夷反対派は京都に残留して、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らが、後に新撰組を結成する。

4月に江戸で、危険分子と見られた清河八郎は、佐々木只三郎らに殺害された。佐々木只三郎の一派には、今井伸郎が行動を共にして、後に上京して京都見廻組を結成し、今井は坂本龍馬暗殺に関わる。東帰浪士隊は若年寄支配の新徴組として再編成され、主として江戸市中の見回りを職務とした。

禁門の変(1864)、長州征伐・家茂死去・慶喜将軍職就任(1866)、大政奉還・新徴組薩摩藩邸攻撃(1867)、鳥羽伏見の戦い・慶喜東帰・江戸城無血開城・明治改元(1868)と、時代は怒涛の如く進む。新徴組は慶喜警護の精鋭隊(隊長 中條景昭)と遊撃隊に分かれ、精鋭隊は上野、水戸と移る蟄居中の慶喜を警護して、最終に静岡で役目を終える。そして中條景昭を中心に、牧之原開拓に入植した。

浪士組の面々は、維新が進む中でたくさん亡くなった。明治まで生き残った人たちは、その才を買われて、新政府に呼ばれた。「天朝御雇」と云われ、忸怩たる思いを越えて、職に就く人が多かった。そんな中で、牧之原に入植した中條景昭(金之助)は神奈川県知事にと、再三の招聘を断り続け、牧之原の入植地に留まった。
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