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東海道山すじ日記 5 二月十一日 竹の下

(庭の黄水仙)

東海道山すじ日記の解読を続ける。

十一日朝、とく起き出、田んぼ道、上岡田、下岡田、酒井、小柳村など過ぎて(一里)、愛甲(農家ばかりにて、名主の宅にて馬継す)、ここでは高麗寺山近く見ゆ。按ずるに厚木より糟谷に行くにはここまでに下らず、直道を船子村へ切り候わば、余程近くぞ覚ゆ。

石田村過ぎて(一里)、糟谷(市町よろし、乗馬有り、名主にて馬継す、はたごや有り)、大山頃は余程繁華の由なり。畑道少し、伊勢原村(一里)、神渡(市町少し有り、馬継有り)、ここも大山頃は盛んのよし。

城の内村過ぎて(十八丁)、前波(馬継なり)村の山の端の、ここ、かしこに一、二軒づゝ散居せしが、どこが馬継なるや聞きしかば、この上の茶屋にて呼ぶべしとて、九折しばし上るや、あやしき藁屋にて、茶沸かしひさぐ家の有るにより、ここにて、ヲテンマーと呼ぶかや、遥か向う谷の森かげにて答えしが、あれは山彦かと思い、たゝずむ間に、その山かげより二人の人出で来りぬ。
※ 九折(きゅうせつ)- 坂道などで、曲折が多いこと。つづらおり。
※ ヲテンマー - 「御伝馬」のことであろう。


かくてその切り通しを上ること、凡そ十丁ばかりに峠に出る。ここ眺望甚だよろし。後ろの方を顧みすれば、馬入川より高麗寺山、大磯、小磯の岬、国府、梅沢もあの辺りと。下ることしばし(一里)。

十日市場(市町乗馬も有、はたごや、馬継並びて)、曽屋(同じ)、宜しき処なり。これより、上道、下道有り。その下道は、山坂は無けれども、道遠き故に、近道の方を行くに、沢間に畑道を上りて(一里)、千村(山の上に一村落有りて馬を出す)、地味至ってよろし。また人家も富めるよし。これより九折を下ること、凡そ半里と思うて、川筋に出て、茶店一軒、山稼ぎの馬継するよし。この川のこなた、かなたをたどり下り、これを四十八瀬と云うよし(一里)。

神山村(田作多き村なり、名主宅で継ぎ)、近年まで向いなる松田村と云うにて継ぎ立てし由、按ずるにこれは松田村にて継ぎ、それよりすぐに矢倉沢へ行くは便利なりと思うに、今に商人荷物は松田村に継ぎ、矢倉沢にやるなり。

さて、村の前へ川有り。十文字川と云う。仮橋有り。これ酒匂(さかわ)川の上なるよし。ここにては何程の洪水にても、小舟に棹さして越えると云えり。

越えて町屋、吉田島、延沢村等こえて坂道を下り(二里)、関本(畑付にして、少し町並有り、馬継、小田原より三里)。これより片上里なり。雨坪村、弘西寺村、苅岩村、一色村越して(一里八丁)、矢倉沢(人家二十軒ばかり、茶屋有り)、ここ関所有りしが、正月廿六日の御布告にて、今は戸を〆切りて、誰も守る者なし。南山の端、畑ばかりなり(二十丁)。

上りまた(十六七丁)、下りて地蔵堂村(人家十七八)、これを足柄の地蔵と云えり。また九折、いよ/\嶮処を上る。(一里)なりて、足柄峠(地蔵堂有り、甘酒をうる八郎兵衛と云う者一人住めり)、これ駿相の境なり。

これより南の方を眺むれば、沼津、原、吉原、一目に見ゆ。また東のかたは峰つづき、猪鼻岳を越えて、仙石原の方に出ると。しかし、これは雪時、猟人どもが往来するばかりのよし。西の峰つづきは阿弥陀木、矢倉岳等、その後ろは谷村の関所に当たり、これより片下り(一里八丁)、往古の湖道なれば、その麓に至りては、並松の大樹等、今にその頃のものと思うもの残れり(一里)。

竹の下(宿内に川有り。人家三百余軒、茶屋、はたごや有り、馬継)、ここで泊る。かなりに暮しも見えたる処なり。
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