平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
東海道山すじ日記 8 二月十四日 黒川村
今日はこの冬一番の寒さで、夕方の散歩では風花が舞っていた。しかも風が強くて花粉も最大限舞っていたようで、一日鼻水が止まらない、最悪の日であった。
東海道山すじ日記の解読を続ける。
十四日小雨、宿を出て、右の方の沢に入り、上ること、次に図(写真)する如し。両山相蹙(せまり)て、掌を立てし。山の端に何か黒く見ゆる故に、人足に問うに、皆椎茸作りのよし。ここ、二、一日ばかりもなさば、盛りになるよし。さする時のこれを採るに、夜も寝らざる忙わしきもののよし。余りに出過ぎる時は、その木を叩く時は出止むと。実に不思議なるものゝよし。
山の端に有るや無しやの細道を、つゞら折りして、凡そ二十五、六丁も行きて向うを見れば、大沢の五段瀧と云う有り。いと珍しきさまにて有るなり。過ぎて七、八丁上り、椿峠、この辺り、風はげしく、蓑を吹き、笠をあおぎて、如何にも過ぎ難きを、よう/\その笠を両の手にて押さえ/\、地を伏しおうばかりに、峠に到る。
十丁ばかり下りて、不動沢の瀧、この上を通り、樹木の中より伺い見るに、これもまた、奇観のさまなり。しばし過ぎ、大処墓と云う森有り。いにしえ、ここに大処村といえる有りしが、今は潰れけりと(宍原より凡そ二里)。
小川村(人家三十軒ばかり、庄屋に人足を頼む)、村中の川有り。これは沖津川に落ちると。村並み至ってよろし。また山に懸り、これを板峠と云うなり。下りて(小川村より廿丁ばかり)、和田島村(人家十七、八軒、名主に人足を頼む)、これより沖津川の端なり(十七、八丁)。
※ 沖津川 - 興津川。
しげの島(茂野島)村、並びて、とずら沢(葛沢)村(人家よろし、川南なり)、洪水の時は小川村より、ここに下るによろし。川を越えて南岸に到りて、土村(川南、人家よろし、名主にて人足をかるなり)、上に布の沢と云う村有り。
また小坂一つを越えて黒川村(人家五十軒ばかり)、この村より駿府御城の御錺物を献ずると。依って助郷人足は御免になるよしなり。すべてこの辺り沢、清水なる故、山葵を作らばと云いしかば、小蟹が多くて有りつかずと、両三度も試し由なり。
この沖津の川すじは十八ヶ村有りし由なるが、この上には最早、河内、大平の二村有るのみなりと。人家すべて結香を作るを以って業(なりわ)いとす。(今日の道、凡そ五里と思う)
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