河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1251- シベリウス交響曲第7番 演奏は曲を超えた。異形の絶演!ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル

2011-06-05 22:10:00 | 音源

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解釈の為に存在する曲。
こんなとんでもない演奏はいまだかつて聴いたこともなかったし、これからもありえないだろう。空前絶対絶後。
まさに空前絶後という言葉がぴったり。
1972年ごろ手に入れた新世界レコード。
ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの1965年モスクワのライヴ録音。
何度聴いたことか。彫れて白くなっている。
白すぎるのはシベリウスの交響曲第7番。この演奏解釈を何にたとえよう。唯一、第2次世界大戦中のフルトヴェングラー指揮による運命の第4楽章コーダにおける超アチェルランド。トランペットのもつれるタンギング。ものともせず駆立てるフルトヴェングラーの震える波状攻撃の棒。並ぶのはこの演奏しかない。それほどすさまじいムラヴィンスキーの超シベリウス解釈。
とにかく跡に残ったのはすさまじい解釈とオケの実力だけ、と言った感じ。
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シベリウス作曲
交響曲第7番
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エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮
レニングラード・フィル
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録音:1965年2月23日
モスクワ音楽院大ホール
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演奏は約20分。
交響曲とは言いながら自由な曲想で進む。
主にテンポや雰囲気が変わるところを羅列してみる。
聴きながら河童さんの駄文のお皿いをする人は是非、音量をオケの定位が明確に感じられるほど、あげて聴いて欲しい。
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1. Adagio ティンパニの弱音(ピアノ)による導入。
1.1 mezza voce(22小節目) 弦楽器による流れるようなメロディーライン。
1.2 (60小節目)トロンボーン・ソロ。
1.3 (71小節目 練習番号D)ティンパニの打撃。
2. Un pochett meno adagio ~poco affrett(練習番号Fの前後)テンポ徐々にアップ。
3. Vivacissimo(練習番号J)スケルツォ風。
4. Adagio(練習番号L)トロボーンのソロに導かれ金管の彷徨。
5. Allegro molto moderato 流れる弦と木管。
5.1 (練習番号T)弦の驚異的なハーモニー。素晴らしい。
6. Vivace さらなる加速。
7. Presto シベリウスのギザギザ音。
8. Adagio トロンボーン再帰。
8.1 (練習番号Y)ティンパニ炸裂。
9. Largamento (練習番号Z)全金管炸裂。
10. Affettuoso 最後の準備。
11. Tempo I
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(1)抑え気味のティンパニに続いて2分の3拍子で弦が先を急ぐように上昇する。この時点でムラヴィンスキーのはがねの意志とレニングラード・フィルの実力のすさまじさを聴き取る事が出来る。
(1.1)そしてすべるような長い長い弦楽器主体の柔らかなフレーズ。飛行機から見る眼下の流れる雲。魔法のじゅうたん。
そして曲想は一気に盛り上がり最初のクライマックスをむかえる。
(1.2)圧倒的なトロンボーン・ソロ。向かって右側に定位したトロンボーンが、ムラヴィンスキーによりこれまた圧倒的に静寂を奏でるべくコントロールされた他の楽器のもと、まるでトロンボーン・コンツェルトなみに朗々と吹きまくる。目の前にトロンボニストのバジングが、アンブッシュアが、濡れた唇が、震えるビブラートが、なんという大胆な響き。これぞまさしく、何も足さない何も引かないムラヴィンスキーの楽譜のみを信じる鉄の意志からしか生まれえない偉大な解釈であろう。
(1.3)しかし真のクライマックスはこのあとにやってくる。
トロボーンを引き継いだホルンがシベリウス的イディオムのショートフレーズでこのメロディーラインを切り上げた直後だ。強烈なティンパニの一撃。撥が飛び皮が破れそうなティンパニ。そしてそれを克明に超リアルにとらえた録音。スコアに強弱記号はない。それに続く木管の鬼気迫るユニゾン。これこそが真のクライマックス。
思い起こせば、冒頭の第一音もティンパニがピアノで奏でられていたのだ。
ここまで我々は息をつく暇も無いではないか。我にかえり、他のどの指揮者の演奏でもいい、あまたある演奏を少し思い浮かべてみよう。いかに凡庸であることか。ムラヴィンスキーの異形に畏怖の念をおぼえ頭がクラクラしてくる。
(2)テンポは加速を2度重ね、
(3)スケルツォ風のヴィヴァーチェシモにはいる。一度だけ弦の合奏が不ぞろいになるが、その一箇所のライヴ的瑕疵を除けば、あとはレニングラード・フィルの圧倒的な腕。腕。腕。
日本のオケの皆さん。よく聴いてください。こんな合奏やったことありますか。
(4)そしてトロンボーン・ソロに導かれ、大伽藍の圧倒的な金管の彷徨が始まる。まるで宇宙が共鳴するようなこれぞ真のロシアのブラスの響き。炸裂ではあるがこんなきれいな音は聴いたことがない。そして再度スケルツォ風にもどりすぐに、
(5)弦楽器と木管による流れるような音楽が始まる。
なんと素晴らしい弦楽器のハーモニー。
進むにしたがい曲は少しずつ刻みが短くなり始める。
中低弦の刻みをベースにヴァイオリンの流れるハーモニー。
(5.1)ここで我々はまたしても忘れがたい弦の響きに遭遇するのであった。
(6)音楽はさらなる加速をしながら、
(7)最後のプレストに突入する。シベリウス特有の執拗な弦楽器の刻みの中、
(8)アダージョで例のトロンボーン・ソロが再帰する。1.2と同じ進行だが、
(8.1)このあとの真のクライマックスの再帰。つまりティンパニの強打。スコアではここはピアノからデクレシェンドするトレモロと書いてある。しかし、響く音は指定とは全く異なる大強打。ムラヴィンスキーの曲の縁取り感覚がものの見事に決まった瞬間であろう。
フィナーレが近くに来ているので、ここで我々は興奮、静かなる熱狂を感じることになる。実に素晴らしい解釈だ。
(9)音楽は急速にブラスの響きが急降下し、ウルトラ超フォルテッシッシッシモで、八分音符をかなでる。擬音で言うと、グワッ、という風に聴こえる。
(10)弦が長い音をクレシェンド、デクレシェンドしながら最後の、たった5小節だが、内容てんこ盛りのクライマックスを導く。
(11)弦がシンコペーションを繰り返すなか、ブラスセクションがメゾピアノから一つの音をクレシェンドしはじめる。トランペット、トロンボーン、ホルンが、メゾフォルテからフォルテッシモまでたった四分音符7つ分のなかを一度デクレシェンドし、すぐにクレシェンドするのだ。この解釈!そして見事すぎるほどに吹いてしまうレニングラード・フィルの恐るべき力。
そして最後の炸裂のなか、ちょっと待て、この最後の炸裂音の響きは他の指揮者と全く異なる。バランスが異なるだけではないとみる。
その最後の炸裂音、彷徨のなか、全ての弦がユニゾンで二つの音、全音符+2分音符、2分音符、をブラッシングしながら終わる、だけならよいのだが、録音を聴くとムラヴィンスキーはこの弦の全奏にホルンを重ねている。まさに朗々と宇宙的響きをかもしだす。そして、最後は、全音符+2分音符、2分音符、で本来なら、他の指揮者がやっているように、
ざーーーーざぁ。
と切り上げなければならないところ。音価は全く逆。
というよりも、
ざーーーー、ざーーーーーーーーーーーぁ。
と終わる。
どこまで伸ばして終わるのか、きっとレニングラード・フィルの強烈なビブラートが果てしも無く続き、全員のビブラートさえも完璧にピッチがあい共鳴し始めるその瞬間を狙って終わるのだ。ああ完璧な解釈だ。素晴らしい。
この演奏の素晴らしさを35年以上訴え続けてきた河童だが、誰も振り向いてくれない。一人を除いて。
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ムラヴィンスキーがいかに無から音楽を始めているか。唯一信ずることが出来るのは楽譜だが、だからといってそのまま響かせるわけではない。彼の意思が入り込んでいる。
ちょっと聴くと異形のようではあるが、しかし、レニングラード・フィルの実力ともども、双方の長い年月にわたるたゆまぬ努力と、ムラヴィンスキーの天才技がミラクルを生んだ瞬間。
現場で起こった必然性のある解釈、屈服させられてしまう解釈。芸術は異形なり。
有名なベートーヴェンの4番は全く方針の異なる曲だが、同じプロセスを踏むことにより、結果的には両曲ともアンビリーバブルな演奏であるとともに、透明性、ダイナミック、几帳面性など相似形の演奏となっている。
生で聴いた田園など思い起こすと、強烈なコントロールなどといわれたものとは全く別の響きがそこにあったのは事実。あの演奏も忘れがたい。
シベリウスの7番は日本でのライブもあるが、録音のコンディションが悪いのと、それ以前に、やってる場所が悪い。なにしろNHKホールですから。あすこでミラクルな演奏なんてめったにない。ホールが演奏を壊す。
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あと、シベリウスの曲で、対極の路線から出発して、結果として同じような強烈な感動をもたらす演奏解釈として、クーレンカンプフのヴァイオリン、フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのヴァイオリン協奏曲の戦中ライブがある。もう少しましな音で聴きたいものだが、残っているだけでよしとしよう。
ヴァイオリニストの心臓が指揮者の強烈な演奏解釈につられてしまって、完全に煽られ、同一の意識レベル、高みまで達した稀有の例。クーレンカンプフの心臓がバクバクと音をたてている。駆り立てるフルトヴェングラー。
これまた解釈がスキルを超えた録音である。
また、バックを務めるベルリン・フィルのダイナミックレンジは覗うべくもないが、想像はつく。
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オケの皆さん、このとおりやれ、などとは言わない。だけど、少なくともこのような志で音楽に向かっていって欲しい。
真の芸術が真のエンタメを生む。
聴衆はたしかに気が楽かもしれないが、ハイレベルな意識のなかで共同体を形成したいものだ。継続するエンタメを。
とにかく、ムラヴィンスキーの指揮による1965年モスクワライブは音がよいので、シベリウスの交響曲をはじめ、全部聴いて欲しいものだ。
孤高の指揮者による、今では考えもつかない当時のハイレベルなレニングラード・フィルの恐るべき力が永久に輝き続けている。
おわり


1250- ガヴリリュク プロコフィエフ、アシュケナージ シベリウス、N響2011.6.4

2011-06-05 14:51:17 | インポート

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2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2010-2011シーズン
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2011年6月4日(土)3:00pm
NHKホール
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プロコフィエフ 3つのオレンジへの恋、組曲
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プロコフィエフ ピアノ協奏曲第2番
 ピアノ、アレクサンダー・ガヴリリュク
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(アンコール)
スクリャービン 3つの小品から、練習曲 op2-1
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シベリウス 大洋の女神
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シベリウス 交響曲第7番
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ウラディミール・アシュケナージ指揮
NHK交響楽団
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今日の御目当はプロコフィエフの2番とシベリウスの7番。流れとしてはいいプログラム・ビルディング。
シベリウスの7番にはムラヴィンスキー異形の絶演があるのでつい比べてしまいたくなります。それはちょっと横に置いて。
アシュケナージの棒による7番は非常に柔らかい。ふっくらとしていていつくしむようでもある。そしてN響の透明な弦が美しい。分散していくハーモニー、対旋律のあや模様。素晴らしく美しい音の響き。そしてティンパニの強打は一見すると違和感があるかもしれないがこの曲にはきっちり締めるべきポイントがあり、そこを見逃さないアシュケナージの見事な棒。ブラスが咆哮するとき、他のインストゥルメントはもう少し静かにするべきだとムラヴィンスキーは言うかもしれない。ここは分かれるところかもしれない。超ハイスキル集団であったレニングラード・フィルとの違いなのかもしれない。そのオーケストラはムラヴィンスキー自身が作り上げたのだけれども。
弦の分散和音の美しさのままをブラスにも同様に求めたアシュケナージの解釈。幅と線、両方をおしなべて表現できている。分厚くて透徹していて柔軟ないい演奏でした。
ホルンの音色が一様でないところが残念。
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レニングラード・フィルとの違いは、有限性と無限性の違い。当時のレニングラードのオーケストラとしての能力は、ほかのオーケストラのあらゆる表現を包括していたように聴こえてきたというあたり。このブログの後でムラヴィンスキーのシベリウス第7番を再々掲しますので。
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後半の一曲目に置いたのは駄作とでもいうべき曲で、描写音楽として海のうねりだけ表現した曲です」と言われればそうかもしれないが、それにしてもなにもないというか、この曲の美点は何をポイントに耳を凝らせばいいのかわからない。
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白眉は前半2曲目のプロコフィエフの第2番のピアノ協奏曲。聴き終わったあとで爆な曲だとわかるのだが、同じような雰囲気は第3番なんかでもある。
とにかくこの2番、いきなりいつのまにかわけのわからないカデンツァに突入していく。一体、プロコフィエフの表現したいもの、それがなんだったのか、そうゆう観点にいきなり有無を言わせず引きずり込まさせられるから不思議な吸引力。
第4楽章の第2主題というか中間部というか、ここでようやくなにかロシア風なメロディーがようやくでてくる。ここまできてしまったらこのようなある種民謡の引用みたいなものは必要ないのではないかと思うのだがそれでもこの段階に来て歌いたくなるという事実。第1主題との融合は聴きごたえがあることはある。
ブラスできっちりエンディングを一度作り終えたあと、またカデンツァとなる。Cプロの自席はピアノの手が比較的みえる位置で、細い体から非常に柔らかいタッチで右左動き回っているのがよくわかる。とんでもない難曲なんだろうなぁ。フレーズの切り替えとか、切れ味、よく弾きこまれていると思うし見事としかいいようがない。そして叩きつけるブラスの響き、ほとんどやけくそのような響きなんだがこれが効果てきめんで、この爆な曲を閉じるにはこれ以上ふさわしい盛り上がりはないような気もする。爆な曲には爆な演奏で。
アシュケナージは、このガヴリリュクのピアノに聴きいっている。お気に入りのピアニストのようだ。かつてはご本人にもこのような時代があったわけだ。
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1958.11.29BC
プロコフィエフ ピアノ協奏曲第2番
ピアノ、ウラディミール・アシュケナージ
レナード・バーンスタイン指揮
ニューヨーク・フィル
(NYP自主制作盤)
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それで、このガヴリリュクさん、1984年生まれなんですね。二十六七ですねまだ。風貌は既に40歳代後半と言われても違和感はないけれど、聴いた後プログラム解説を見てびっくりしてしまいました。演奏会紹介部分は後で読む、これ正解ですね。
ガヴリリュクのピアノは繊細と大胆さ両方の表現をまるで生まれつき備えていた、そのような感じでした。響きの切れ味がよくこの難曲の輪郭を非常に見通し良くさせてくれました。
ガヴリリュクより約40歳上のニコライ・ペトロフが同曲を、1999年にスヴェトラーノフの棒、同じN響の伴奏で弾いたことがありますね。あのときも爆。あの流れ。
それから、ペトロフより一回り若いブロンフマンが弾いた時の3番、これもすごかった。アンコールがもっとすごかったけれど。
2007.11.14公演。ゲルギエフ&マリインスキー
このようなロシア・ピアニストの系譜。素晴らしいですね。
おわり
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