河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1260- ニムロッド、マーラー5番、ダニエル・ハーディング、新日フィル2011.6.21

2011-06-22 23:53:57 | インポート

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2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2010-2011シーズン
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2011年6月21日(火)7:15pm
サントリーホール
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エルガー エニグマよりニムロッド
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マーラー 交響曲第5番
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ダニエル・ハーディング指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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アンコールで割とやられているニムロッドは昔はニムロードと表記されていたような気がするのだが、このちょっとした違和感はまだぬぐえない。それはそれとして、謎の第9変奏という中間部のきわめて美しい音楽であることを全く横においても、この日この場でこの音楽が鳴り響いたとき、音楽それ自身のもつ感情への偉大な力をこれほど感じたことはない。
3月11日(金)当日、ハーディングは予定されていた定期公演を敢行した。聴衆は100人とも200人とも伝え聞く。この日、定期会員としていく予定であったのだが、会社が終わって一時間半かけて家まで歩いて帰るのが精一杯だった。定期は11日と12日の予定となっていたもののさすがに12日公演は無くなった。ほかのあまたの公演もほぼすべてキャンセル状態が約一か月ほど続いた。11日のチケットは妙な話だがしまっておいた。しばらくしてから新日フィルから、つまりハーディングからということになるのだと思うのだが、代替公演をするのでチケットを配る、という連絡があった。11日は公演自体は行われたので代替もなにもないと思っていたのだが、この日の公演も代替対象になっていると聴き、今回6月20日、21日、22日の3連続公演のうち中日のサントリーでの公演を分けてもらうことになりました。ありがとうございます。
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配られたプログラムは今回の公演のために作ったものではなく、3月11日、12日のときのもの、始まる前からリアルすぎる思いに胸が締めつけられる。当初プログラム前半はパルジファル第1幕への前奏曲となっている。
ハーディングが被災地日本国の為にわざわざ来訪して振った一曲目はパルジファルではなくニムロッド。プログラムに挟まれた綴じこみにはプログラム変更のこととニムロッドのあとの拍手を控えるように書いてある。当然すぎる話ではあるのだが一応書くに越したことはない。
先週ブルックナーの8番を振ったハーディングが大きくないがバランスのとれたこぎみのいいステップでポーディアムに登場。ニムロッド、アダージョ、なんて美しい音楽なのだろう。変奏でもなんでもない。ただ音楽の持つ強い力に揺さぶられた。
そして、5分続いた演奏が終わったときに、奇蹟は始まった。そのまま長い長い黙とうが哀悼が永久の静寂をホールに沁み渡らせた。なんという静かさだろう。隣席で涙を流しすすり泣く聴衆の音さえ静寂に支配されている。みんなそれぞれ思いはあるだろう。亡くなられた方の苦しさ、くやしさ、それがよぎる。一人ひとりそれぞれが、また、この音楽が一体化させてくれた聴衆の思いが、亡き人たちを本当に悼み、そしてみんな泣いた。ニムロッドという音楽はみんなの心に沁み渡り、それぞれの感情をほりおこし、そして心に作用した。音楽が動かした瞬間であったと思う。
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エニグマ自体はオケ編成が大きいのだが、マーラーではさらに増強される。リセットされたステージにあらわれたハーディングが棒を振ることもなく、トランペットのソロから輝かしくも哀しい葬送行進曲の音楽がはじまった。
この日のおおよそのタイミングを書いておく。
第1楽章:14分
第2楽章:15分
第3楽章:18分
第4楽章:10分
第5楽章:15分
ハーディングは先週のブルックナーの8番と基本的には同じ方針だと思う。ブルックナーのときはかなり唸り声をあげていたのだがこの日のマーラーでは全く聞かれなかった。そこに特別の違いを見出すわけではないがマーラーの方が圧倒的に譜めくりの忙しい曲ではある。
第3楽章でとりわけ感じたことは、この指揮者は独特の呼吸と冴えわたるバトン・テクニックで他の同年代指揮者を圧倒してますね。この楽章のギクシャク感を逆手に取るような解釈では全くない。意識されたパウゼを多用するわけでもない。続く音楽、流れる音楽、歌う音楽、それは棒をみれば明らかだ。
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第1楽章はかなりおそめのテンポ。スヴェトラーノフの棒を一瞬思いだしたがあんなにどす黒くて異様な感じはなく、音色バランスにも全く違和感がない。
ではなにがすごいのかというと、うねり、のような気がします。
弦とウィンドの力強く歌うさまはあまりの美しさ丁寧さに我を忘れるほどです。このパースペクティヴを表現するためには、テンポの出し入れは不要というかしてはいけない。飽くまでもインテンポで押しきり、音楽の彫りの深さを立体的パースペクティヴで仕立てあげなければならない。揺れるテンポは効果を半減する。
微細神経の先々までゆきとどいた、毛細血管のごときデリケートな音楽は、細かいところまで生き生きと生きており、音たちは弦がしなりウィンドはしゃくりあげてその充実ぶりには耳を見張る。とにかく歌が濃い。
音楽とは本来このようにうねりのあるものだったのではないだろうか?
第1楽章をきっちり切って呼吸を置いてから第2楽章にはいる。こういったところは奇を衒うところのないハーディング、好感。音楽の効果と本質の違いをわきまえている。爪の垢を煎じて飲ませたい日本人指揮者おりますよね。
動かない第1,2楽章、それでも第2楽章後半のファンファーレに向けて少しずつ音楽は自然加熱してきます。ブラスはもう少し湯気の立つような、ピッチのあった余裕のヴィヴラートが欲しいところですけれど二三日でどうなるものでもない。ブラスセクションは特に問題があるわけではないのですけれど、押しなべて普通。気張るところは気張っている。弱音系でのデリカシーはウィンドのような見事さはない。このファンファーレは細身で光り輝くサウンドが欲しいところ、横幅がありどちらかというとボテ系。歌うブラスになるには今後のハーディングのミュージック・パートナーとしての力量がものをいうところとなるでしょう。
第3楽章の独特な素晴らしさについては前述したとおりなのだが、それとともに印象に残るのはホルン・ソロの目立たなさ。ホルンの個人技があまり目立つこともなくマスな音楽進行となっている。早い話、ブラスはその音圧を除けば弦とウィンドの主体性の背景のようなものだ。タクトの指示もブラスへの指示は主体ではないし、音楽のうねりのメインテーマは今のハーディングにおいては、ブラスは視野にあるだけだ。
こんな感じで、第4楽章は綿々と歌いきるのかなと思ったがそうでもない。いやこれは間違った文章だ。極度にスローなテンポを持ち込むことなく歌の極意を聴かせてくれた。昔の指揮者でいうとバルビローリの方針と同じだと思う。マーラー9番などベルリン・フィルとの組み合わせで晩年数々の名演を聴かせてくれたバルビローリ、彼は綿々と歌うけれど超スローな人ではない。バーンスタインなんかとは完全に異なる。総じてゆっくりめのテンポではあるが、それは歌う音楽が必要としているからそうしている、つまり歌いきるベストのテンポ。彼は晩年に芸風がそうなったわけではなく最初からそうだったと思う。マンチェスターのフリートレードセンターでのハルレ等を振った演奏は、この角度から聴いてほとんどが名演奏であり、あくの強さではなく、流れ出るようなあふれ出るような演奏、そして大胆な解釈、それはきっとまねではなく自分で切り開いた独特の演奏表現スタイル、自信にあふれた押し、なんだと思う。バルビローリのニューヨーク・フィル時代は評判があまり良くなかったらしいが現場で聴いてみないとそんなことけっしてわからない。30代のバルビローリがニューヨーク・フィルの音楽監督にいかにしてなりえたのかじっくり音を聴いてみるしかない。(DUTTONがらみのCD多数)
話しは大幅にそれてしまったが、若かりし頃のバルビローリとハーディングがだぶるなあ。
弦のパースペクティヴはなかなか録音に収まりきれないと思う。その意味でこの第4楽章の震える弦の立体表現、現場で聴いたものの勝ちだろう。彼を生で、今、聴く大切さをかみしめなければいけないと思う。一つ一つの演奏が見事だ。
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コントラバスが生理的快感をもたらした後、ホルンとバスーンのきわどいソロで第5楽章に突入。この楽章の主題は第4楽章の速度を上げればそのままでてくるわけで、今度はこのロンドで飛び跳ねるような音楽となるところ、そうなんだろうがハーディングによると必要以上の快活さがあるわけではない。ワクワク感は弦、ウィンドのパースペクティヴな表現によるところが大きい。音の戯れというよりも、かみしめる美しさがあり、その美しさの中に音楽の戯れもあるといったところか。聴きようによっては非常にオーソドックスではある、しかしそれまでの楽章を踏まえたとき、音楽の美しさがここで解放され一層その美しさを増した。時間経過芸術のなかでこれは驚くべき説得力と言わねばなるまい。見事な音響構築物がここにきて完結をむかえた。完結とは解放なり。
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音も拍手も消え、熱狂は去る。動いた心はそのままだ。ハーディングのチャリティーの心意気に比べるのもおこがましいが、先週今週、公演後ハーディングの持つ義援金箱はいっぱいに満たされていた。自分でも出来ることを取るに足らなかったかもしれないがした。
おわり
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