河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1088- 頂点の棒ミスターS シュベ8 ブル7 読響2010.10.16

2010-10-19 00:05:20 | インポート

101016_200501


2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちら
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連日連夜ほぼ9連ちゃんのトリはミスターSです。
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2010年10月16日(土)6:00pm
サントリーホール
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シューベルト 未完成
ブルックナー 交響曲第7番
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スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮
読売日本交響楽団
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大変に緊張感のある見事な演奏でした。
まず、指揮者の登場前から空気が変わりつつあった。ミスターSの登場でホールの空気感がまるで変わってしまった。
それまでも彼の棒のときはこのような傾向があったわけだが今回はさらに著しい。
空気が変わるというのは一体どういうことなのか。緊張感があるというのはどういうことなのか。
結局のところ、演奏者も聴衆もみんな一人の個々になって自分を認識するということではないのか。
100人のプレイヤーが全員じーっと指揮者を凝視している。一番長く凝視していたのはシンバルとトライアングルで間違いのないところではあるが、他の人たちも雑念をぬぐい去り静かに指揮者を凝視している。一人ひとりが見つめることによって自分自身と対峙している。まことにもって不思議で浄い瞬間の連続であったと思います。
果たしてアンサンブルというものは、まず個々の清らかな澄みきった無意識の心の自律から始まる。自己を見つめて透明度を増した音たちを起点として絶妙なアンサンブルの集積として構築されていく。美しい演奏でした。
聴衆も同じです。みんな個々になった。一人ひとりが曲の表現者の真髄に静かに対面する。余計なものは忘れ去られ何かピュアなものが意識するしないにかかわらずさらに浄化されて心の耳に響いてくる。音楽作品の共有以上の、ある意味共同化作業の一役を担っているような不思議な体験となる。
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これ以上美しいプログラムがあるでしょうか。未完成の美しい響き。ブルックナーの圧倒的な極限美。ミスターSが全てを成し遂げたと思います。
前日のサンティ、N響による過酷な練習成果のアイーダ。まさに双璧のような演奏がこの日繰り広げられました。
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ちょっと記憶が飛んでますが、ミスターSの棒によるブルックナーの7番を聴いたのは今回たぶん3回目だと思います。前回は2005.4.18でした。
印象は前回と同じ方向です。今回のタイミングはだいたいこんなところ。
第一楽章:21分
第二楽章:23分
第三楽章:9分
第四楽章:13分
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タイミングは横に置いて、この日の演奏でまた強く感じてしまったのが曲の問題点。つまり第四楽章の弱さ、です。この点は前回の演奏でも同じく感じましたが、今回はより強く感じました。ミスターSが曲の構造をあまりにも見事に彫り起こす為、そうすればするほど第四楽章のアンバランスが浮き彫りになる。
第四楽章は展開部における深彫りが少し足りない。第一楽章の展開部と比べれば一耳瞭然。
提示部第三主題までと展開部、それに再現部コーダ前まで、この三つの要素が同じような比率の長さで、測ってませんので耳測になるんですけれど、そのように感じます。もう一回展開して十分な音楽の万華鏡を魅せてから再現部で第三主題まで再生成、熟成した方が第一楽章第二楽章との釣り合いが取れると思います。
第三楽章で動きをみせて、第四楽章でも第一楽章とは異なる動きが活発になるのでこの後半2楽章のアンバランスはミスターSの棒によりさらに明確になってしまう。但し第三楽章のスケルツォ、トリオの展開はこれで十分だとは思いますけれども。
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とどのつまり、演奏が曲を超えてしまっているというのはこのようなことを言うのでしょう。
ムラヴィンスキーでも同じような現象をみてとれます。ここ
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タイミングは合計で約六十五六分です。
老齢になってテンポが遅くなった、等という言葉はミスターSの場合87才にしていまだ無意味なところではありますけれど、今回聴いた感じではかなりスローテンポになったように聴こえました。未完成でも同じです。どうしてかというと、
音が敷き詰められているんですね。
第一楽章の3個の主題を聴いただけでよくわかりました。ボーイングとかそのようなことではなく、オタマが譜面のバーギリギリまでおろそかになることなくきっちりと均等のまま弾かれていると思いました。ブラス、ウィンドも押し並べて同じです。空気が変わる、というのは厳しいトレーナーの耳のおかげなんですが、それだけでなく指揮者に対する敬意、尊敬の眼差しがなければこのような一体化したサウンドは出てこないわけでして。
それで、この均質な滑らかさが端々まで十分に音楽を聴かせてくれるためスローに感じたに違いありません。
ここでのテンポ設定もあまりにも見事でした。第一楽章は序奏もなにもなく霧の中から第一主題が現れます。緊張感をはらんだ見事なしなやかさなんですが、このテンポを基底として第二主題はやや速めにこれまた柳のしなやかさで歌います。ここもお見事。そして動きの激しい第三主題はさらに速度を速めたブラスの爆発。この3個の主題の特性の把握、お見事ですね。
今回、より強く感じたのはそれぞれの主題へ推移する際の経過句の味わいの深さ。主題変遷をいきなりテンポ変化させるのではなく、この異常に味わい深い経過句の敷き詰められた流れ。ワーグナーのオペラでは間奏曲や場面転換の音楽に味わいがありますが、それをいかにうまく表現するか。このブルックナーにおいてはミスターSがこれ以上ないお手本を示してくれたわけです。
このようにして名演奏は出来上がるのか、といったところですけれど、このような空気感はその場にいなければわかりません。音楽の色つや、響きの出し入れ、最新のメディアでもとらえきれないものですね。
経過句の白眉の頂点が第一楽章結尾で完璧な姿で出てきます。つまり再現部を経てコーダに突入する直前の入念な入り。あまりの美しさに息を飲みこみました。このような美しい演奏は聴いたことがない。
コーダそのものの一番美しかった演奏体験は、カルロ・マリア・ジュリーニの棒、ロスアンジェルス・フィルのものです。ブラスと地響きする弦の中、これ以上ない高潔なトランペットサウンドが短いアウフタクトで3度4度奏されるあの響きは天国か。この日のミスターSのこの経過句の美しさはジュリーニに匹敵するものであったと確信しました。
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ということで、他の楽章も美しさの極致ですので押し並べて同じということで軽く。
第二楽章のアダージョも緊張は持続します。第一主題第二主題ともに味わいが深すぎる。全く弛緩しない。このような美しく再現された音楽表情を聴けるチャンスはあんまりないと思います。
第一楽章から舟を漕ぎっぱなしの定期会員が第二楽章のシンバルとトライアングルで目覚めましたが、何しに来たのかという愚問よりも今後、心の耳が早めに目覚めることを祈っております。
念には念を入れたワーグナーチューバが最後に長調で解決するとき、ぶ厚く敷き詰められたホルンの深い響きの中、弦がコクのあるピチカートでこの楽章を閉じます。厳かな瞬間でしたね。
第三楽章はハンコ状態なんですが、トリオのあとの2回目のスケルツォの方が若干スローな感じがしました。ハンコではなかったと思います。最初のスケルツォでピアニシモのトランペットがちょっとミスりましたが、ラッパをいくら睨めてもそこにいるのは一人の自分なのです。
この楽章のトリオは弦が本当に敷き詰められたようなフレーズを繰り返します。ボリューム感がありウィンドとの対比を明確に再現します。いつまでも続いてほしかったトリオということになります。
第四楽章は最初に書いたとおりで、構造を追えば追うほど物足りなさが露呈します。同じソナタ形式の第一楽章との大幅なタイミング相違は音楽の動く表情の相違だけでなくやはり内部の展開がもうひとつ欲しいと強く感じさせます。
第四楽章のコーダで一番見事な演奏というのはフルトヴェングラーの棒のもの。個人的には。
あっという間に昇天します。この音楽のあるべき姿のような気がします。
ミスターSの演奏は飽くまでもインテンポで押し切る。これです。最後の最後で彼の昔からの特性を思い出させてくれました。
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前半の未完成。当日はこの曲から始まったわけなんですが、インテンポだが柔らかい。インテンポの方針の指揮者としてはギュンター・ヴァントの剛直なまでの演奏が忘れられませんが、ミスターSはそれに柔軟な響きを付け加えている。柔らかくなりました。前後しますがブルックナーの演奏スタイルと同じです。
第一楽章の提示部はリピートします。美しさの深淵がさらに深まります。第二主題冒頭をメゾピアノぐらいほどで歌わせるのが印象的です。抑制の美学とでもいいますか。
敷き詰められた音がしなやかに歌います。
第一楽章、第二楽章ともに三拍子系。第三楽章があればスケルツォ、トリオの三拍子系になっていたはずで、第四楽章は神のみぞ知るということなんでしょうが、第一、第二楽章だけでこの交響曲の美しさを堪能できます。三拍子でなければならなかったんでしょう。この美しさはたしかに三拍子の世界だけのような気もしますね。微妙にコクのある味わいの深いもので、全てのことをひとつずつかみしめました。
愁いを含んだ第二楽章の結尾の見事な表現はテンポ設定も万全。なにか田舎の夕暮れ時、うらぶれた中にもスタイリッシュな感覚をフィーリングするのでした。
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今日の空気感ではフライングブラボーもフライング拍手もありえません。みんなでその空気をつくっていたのですから。
未完成もブルックナーも余韻の端まで十分に堪能できた夜となりました。ブラボー。
おわり

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