河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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1015- 神秘的ドビュッシー ペレアスとメリザンド アルミンク 新日フィル2010.5.21

2010-05-24 00:10:00 | コンサート・オペラ

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2010年5月21日(金)18:30-22:00  すみだトリフォニーホール

ドビュッシー オペラ「ペレアスとメリザンド」
台本:モーリス・メーテルリンク

ペレアス ジル・ラゴン
メリザンド 藤村実穂子
ゴロー モルテン・フランク・ラルセン
アルケル クリストフ・フェル
ジュヌヴィエーヴ デルフィーヌ・エダン
イニュルド アロイス・ミュールバッヒャー
医師、羊飼いの声 北川辰彦
合唱 栗友会合唱団
指揮 クリスティアン・アルミンク
新日本フィルハーモニー交響楽団

第1幕
第2幕
第3幕
休憩
第4幕
第5幕

たしかに7割はピアニシモ系の音楽だが、オーケストラ編成はやたらとでかい。響きは多様な音色変化にとってかわられ、このまえ聴いたシェーンベルクの同曲の響きとはかなりかけ離れたフェザータッチではある。
休憩後の第4幕は後半に向かって劇的、第5幕は月が降り非常な神秘的な世界となる。

ということで、はじめてこのオペラを観ました。コンサート・スタイルではあるが、どでかい映画スクリーンがオーケストラの後ろ上方に陣取り、映画仕立てで曲目、出演者などが字幕で流れる。コンピュータグラフィックな妖しい森の映像がきわめて美しくバックを飾る。オペラのイメージがあればいい。パルジファルと同じだ。
スクリーンが最後部、その手前の台で歌と演技をする。オーケストラはその手前に定位し、さらにその前にこれまた台を置きそこでも歌と演技をする。つまりオーケストラを挟んで前後に台があり、最後部上方に映画仕立てのスクリーンがセットアップされている。
字幕は少しずれ気味のところもあったかと思いますが、このオペラ、字幕がなければ理解はありえないような感じ。通常のオペラ公演であるような右左に字幕が出るのではなく、映画スクリーンの上部の方にでる、非常に見やすいもの。

前半の一時間半第1,2,3幕は独白というか、オーケストラは伴奏にもなりえないような薄くて淡い響き。その中を声が美しく響く。メーテルリンクのストーリーも淡いものを感じさせる。この台本の魅力がどこにあるものなのか、日常的な接点がないのでまるでわからない。今日のオペラで少しわかったというところかな。
歌と間奏曲が交互に明確にいれかわりたちかわり。間奏曲はワーグナーのパルジファルを想起せずにはいられない。第1幕の場面転換の音楽に非常によく似た進行が親近性を感じさせる。ドビュッシーはワーグナーの音楽は作らなかったけれども、その魅惑的な響きはたまにでてくる。パルジファルの響きが美しく、同じくスクリーンの転換もグレイな色あいで飽きさせない。
ドビュッシーはワーグナーの反対をいったのではなく、ブルックナー、マーラーの大げさな音響構築物の逆をいったのであって、むしろワーグナーのパルジファルを押し進めたような方向感を感じぜずにはいられないものだ。

歌い手は、この種のオペラは日本人には無理なんだろうか。藤村が一人頑張っていたし、外国勢の中にあって違和感がない。
王アルケル役が急きょ日本人から、フランス人のクリストフ・フェルという人に変更になったが、どのような理由で変更になったのか知らないが、音楽の緊張感を素晴らしく高めただけで、不意のトラブルが悪い方向に展開したとはとても思えない。
エダンだけ声質が少し硬い。

最初はメリザンドとゴローの出会い。そして異父兄弟のペレアスが徐々に割り込んでくる。そして彼らのおじいさん王アルケル。この構図。
ゴロー役のラルセンはかなり堂々とした体躯でまるで中心人物。一人だけ現実感のある役で声ともどもリアル。
主要な歌い手が出た後で出てくるペレアス役のジル・ラゴンは非常に柔らかい声。このオペラに最もふさわしいような気がするが、それでも異父兄弟の母ジェヌヴィエーヴ役のエダンのような少し硬めの声質も音楽のリフレッシュに一役買っている。
構図としては、オーケストラの手前右に背丈のあるゴロー、同じく左に深みのあるバスで聴衆を鎮めるアルケル王。そしてオーケストラ奥にペレアスとメリザンドがいる。そのような位置関係がイメージされる。

メーテルリンクの原作を恥ずかしながら読んだことがないので(先に読んでおくべきだった!)、このような淡いストーリーのどこがいいのか、やっぱりその本を読んでみないと登場人物の心の動き、それをうまく表現しているメーテルリンクの技、など今一つ理解できない。
第1,2,3幕はピアニシモだらけであっても微妙に陰影に富むように感じるのは、音符の出し入れとは別の声の響き、科白の面白さがあるからなのだろう。音楽が先か声が先か。

第1幕から第3幕にかけては、最初はメリザンドとゴロー。幕が進むにつれてメリザンドとペレアスにゴローが割り込んでくるようなおもむきになる。
30分の休憩後の第4幕は、ゴローがペレアスを剣で刺す局面であり、かなり盛り上がり音楽的緊張感も高まる。
しかし、緊張感は第5幕が白眉。ペレアスはもういないことを認識できない身ごもっているメリザンド。いつのまにか子供は王アルケルの手に取られている。ここらあたりのストーリーは点を追っていくようなものなのだが、筋書きを知らなくても理解可能な点のつながり、省略の美学が一層の緊張感を生む。王アルケルの説得力ある歌が非常に良く、スクリーンでは大きな月が上から降りてくる。少しずつ遠目にし、立ったまま舞台奥で息絶えたメリザンドを、舞台前方でゴローと王アルケルが看取りながら白黒のシルエット模様の舞台が暗闇に包まれる。この第5幕の緊張感は素晴らしい。空気が変わった。


休憩のときに思ったのですが、このドビュッシーの音楽にはまったらしばらくは方向転換できないんだろうなって。しばらくというのは日単位のことではなく、この場ということなんですけれど、ドビュッシーに浸かっている自分がわかるんだけれども、もがけない感じ。第1,2,3幕のあとの休憩では休憩後に同じ音楽が欲しくなってしまう。

それまでの時代の音楽とは明らかに異なるウェットで柔らかい音、光がストリームのようにつながってかつ滑らかにうねっている。
音が声を邪魔しない。でも、なければいけない。
崩れ去る劇的表現。
淡くて薄い響きだが連続した流れとなり緩むことなく進む。閃きの光線が音の細い束となって隙間をかすかに進む。
なにもかにもがそんな感じ。

この日の空気を変えてくれたのは、素晴らしい歌い手だけではなく指揮者とオーケストラもそうでした。譜面を観たことがないのでよくわかりませんけれど、アンサンブルというよりもっとセパレートな連続ではなかったのでしょうか。緊張感を切らすことなく息の合った演奏を繰り広げた指揮者、オーケストラにも拍手。
おわり