河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1113- 怒濤のフライングブラボー、携帯オヤジはモウロク箱へ

2010-11-15 15:00:07 | 日記・エッセイ・コラム


2010.11.12の高関&日フィルのブル8公演のブログをいろいろと読んでおりました。
自分(自分だけ?)とずいぶんと異なる感想が多いなぁ、というのが正直なところですけれど、それとは別に携帯ピーピーとフライングブラボーへの不快感を書いている人が多くおりました。個人的には修行を積んだ結果(笑)、慣れてしまいました。しかし、当の指揮者や演奏家以上に慣れてしまってはいけないとも思います。かたやオペラの指揮者なんてぇのは日常茶飯事なことでそもそも想定して棒を振っている。地震以外何が来ても大丈夫、というか、必ず何かが起こるものだという前提でしょう。
エヴァ・マルトンのあごがはずれた事件なんかもひょっとして想定内?
022‐ エヴァ・マルトンのあご -1-
023‐ エヴァ・マルトンのあご -2-
024‐ エヴァ・マルトンのあご -3-
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それはそれとして、
どうしようもない聴衆は必ずどこかに潜んでいる。本人は悪意だと思っていないので始末が悪いけれど、必ず毎回いるもんだ。地震も来るかもしれない。演奏会は集中して聴いてはいますが、そんなことこんなこと頭のメモリーへ常駐化する必要があるかもしれませんね。
フライングブラボーは人間の意識された行為ですけれど、携帯ピーピーは音楽とは関係ないところでピーピーしますからホント、手に負えません。人間の意識した行動でオフにしなければいけないので、それが出来ない人は、クルナ!
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サントリーホールは携帯電波遮蔽(しゃへい・シールド)していてもアンテナが立ったままのエリアがあります。
私の経験では、2階センター奥。しっかり3本立ってます。他のエリアでも立つ箇所があるかもしれません。
アナウンスで諌めるものの、シールドされている旨もアナウンスしてしまうのでお客もつい油断してしまうのかもしれません。きっちり言えばいいと思います。
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フライングブラボーをする人は、「知ったかぶりの人」と、あとは「音しか聴いていない人」がいるような気がします。
知ったかぶり人間は一人とは限らないので、自己主張の強い知ったかぶりが二人隣席だったりして同時にハモッたら笑えますね。そのあとコイツラ同志親友になるかもしれないので、お説教だけにしておきますけど(笑)
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音しか聴いていない人は音がなくなったら終わりと思っている。棒が止まったら終わりと思っている。そんな人間。舞台を観ていないし空気も読めない。こちらがたちが悪いかも。
お河童さんは、知人と演奏会、オペラ行きますが、指揮者が手をおろすまで我々は動かない。と決めてます(笑)
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あとこれも、音しか聴いていない人に属するかもしれませんけど、「曲を知らない人」。
昔、メータ&イスラエル・フィルでチャイコフスキーの悲愴をカーネギーホールで聴いたことがありますが、第3楽章が終わったところで大爆ブラボー。隣のつがいは席をたって帰り仕度をはじめました。まだ終楽章が残っている旨おしえてあげたらおとなしくなりましたけど、異国人に説教されて、オッ、ソウダッタネ。だって。
メータもアメリカ人がここで拍手、ブラボーをするのは慣れっこみたいで、それを待ってましたからね(笑)今でもアメリカでは同じでしょう。というか第3楽章を終えてシーンと出来る人種は日本人含めそう多くはいないと思いますよ。
ただ協奏曲の第1楽章が終わったところで拍手をするのはヴィルトゥーゾへのイタオペ的自然さのような気もします。
いずれにしても、とにかく、曲を知らなければだまってろと。
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もちろん、たちが悪い客の中にあってネテル連中は上客。終わっても起きるな。
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カラヤン&ベルリン・フィルは1966年の来日公演でブルックナーの8番を演奏しました。
590‐ カラヤン 上野のブルックナー8番1966年
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きわもの録音持ってますけど、フライングブラボーどころの話ではありません。聴衆全員と関係者全員が一度にフライングしたような騒ぎですね。
昔は来日公演が今みたいに多くなく、一年分溜めていた人も多かったのでしょう。

対極が昔のギュンター・ヴァントの棒、現地ハンブルクでのルーチンワーク。何本か録音ももってますけれど、少しずつパラパラと拍手が始まりだんだんと加熱していく。二度三度コールされるごとに騒ぎがでかくなる。ドイツ北部の特性と言う人もおります。拍手とブラボーが真の無意識化した自然行為になっている。日本人にとっては驚きでした。
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でも南のミュンヘンでもクナッパーツブッシュが振ったこのブルックナーはすごい。演奏もすごいが、そのあとも、すごい。
164‐ 拍手がこない!クナのブル8
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ということで文化が違うと言ってしまえばそれまで。レベルと言い換えてもいい。
これほど無知の知と本当の知の行動が一致する業界(演奏界?)もめずらしい。これら知の間にいる嘘の知たちが迷惑千万をかけているわけだ。
どっかの一番湯みたいに御利益はないんだから、一番最初に空気を汚しておいて、今日もオレの声がきっと収録されたはずだ、などと思っていたりしてたら言語道断のさらし首。頭かち割って脳内行動をさらし脳。でもこのての人種、案外いるかも。
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矯正能力がないわけではないんだからちゃんと矯正しろ。さもなくば入場者を名簿式にするぞ。フライングブラボーは決まってホールの天井桟敷とか奥の方からしか聴こえてこないんだからそこらへんを重点的に!
携帯オヤジは、ピーピーごとモウロク部屋で操作の勉強してコイ。できなかったらクロークに預けろ。それもいやなら、クルナ!
オレの自由、と、勝手、を履き違えるな!
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ということで、携帯はホールのシールドの有無にかかわらず、電源をオフにしましょう。
操作がわからなかったら、ホールスタッフに恥ずかしがらずに訊いてくださいね。
フライングブラボーは自殺行為です。オレの自殺ではなく、芸術の自殺行為です。そんなに殺したいのですか。自分の好きなものを殺しにきているのですよ。
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1112- アンドレ・プレヴィン ガーシュウィン プロコフィエフ N響2010.11.13

2010-11-14 22:38:51 | インポート


2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2010年11月13日(土)6:00pm
NHKホール
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武満徹 グリーン
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ガーシュウィン ピアノ協奏曲へ調
 ピアノ、アンドレ・プレヴィン
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プロコフィエフ 交響曲第5番
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アンドレ・プレヴィン指揮
NHK交響楽団
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プロコ5番の4楽章を口ずさんでいると、ついつい、いつのまにかタコ6の第3楽章にシフトしてしまうのだが、生の音ではそうはいかない。
プロコフィエフのこの曲はかなり深くて巨大ということを再認識させられました。椅子に腰かけて最小限の振りについていけるのは、指揮者とたっぷり練習のできるオーケストラで、常日頃から世間のトップ指揮者と接している一流のメンバーが占めているオーケストラでなければなかなか難しいと思う。N響はだいぶそんなことを満たしていると思う。
この指揮者の前提はうまいオケが自分の前にいて当然という感じで、その上で何をするのかという話。練習が厳しいというオケ内からのツィッター発信もあるようですけれど、それはこの場合、プロコフィエフのツボを発信者より指揮者の方がより詳しく心得ているということなんでしょう。つまり指揮者がプロコフィエフを植え付けに来た。
この日のコンマスはツートップでしたけれど、ここらあたりに斟酌があるのかも。
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楽器間の空虚でユニークなユニゾン、中音域が抜けたような響き、諧謔、重さ、どれをとっても色も合わせてブルー、だけど、透明。そんな音色模様。
第1楽章は雨期の短調が綿々と続くが、聴きようによってはこの楽章全体が長い長い序奏のようにも聴こえてくる。この楽章と、響きと主題の相似性を第3楽章に濃く感じる。この両楽章はかなりヘヴィーなのだが、挟まれた第2楽章も決して軽くなく思いアレグロだなぁ。
新古典主義的なあたりを通り過ぎ自国の音楽を再土台に独自の作風を作り上げた。ユニークな音色表現の音楽だと思います。
オペラの戦争と平和を観たことがあるのですが、あれは5番同時期の作曲だと思いますけれど、響きが大時代的で、この5番とは、まるっきり違いますね。びっくりしてしまいます。いくらオペラとはいえ、また、タイトル通りの絵巻物とはいえ、こんなに振幅のある作曲家だったのかとあらためて認識させられます。
1番から7番の真価はやはりまずこの5番を征服してから。そんな感じです。ピアノ協奏曲も同じですね。わけのわからない2番を克服するには、まず3番を制圧してからということが比較的楽かなと。
それで第4楽章はこれまたユニークな開始と音色。第3楽章の雰囲気をそのまま引き継いだ静かな序奏があり、そしてパーカッションとか弦が跳ねるような響き、それでグリッサンドするように下降する音形、短い音符音形で長く持たせる主題フレーズ。
ついつい、タコ6の第3楽章に行きたくなってしまいます。簡単な物言いですけどやっぱりショスタコーヴィッチはかなり影響受けてますよね。また、ブラスの響きなどプロコフィエフは明らかにチャイコフスキーの影響を受けている。ブラスの全奏はチャイコみたいに息の長いものではありませんが、この第4楽章もかなり明白。ロシア音楽の系譜を感じないわけにはいきません。
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プロコフィエフの5番は形式に気をとられることなく聴き進めることができます。形式は古典踏襲、楽章間の主題の相似性があり曲自体緊密にできている。それで、響き、音色バランス、ハーモニーのユニークさ。リズム、運動、動きの面白さ、奇抜さ、そのようなものを心おきなく聴くことが出来る。
プレヴィンはそのご老体の動きとは異なりインテンポを貫くことが出来ます。ミスターSなどもそうですが、やっぱりここらへんがすごいと思います。
プレヴィンのプロコフィエフはドライでクールな曲を一層先に進め、いつでも、その作曲家の次の時代を見つめているような鋭さがあったと思います。いい演奏でした。
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前半のガーシュウィン。これはその昔、プレヴィンがピッツバーグ響を振っていた頃に弾き振りしたのをきいたことがあります。かなりユニークなプログラムでした。
1984.5.23
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そのときの残像はまだあります。特に第2楽章のトランペットがかなりきわどく鋭いものであったことを強く覚えております。今日のN響との出会いではそれほどでもなく、事前の仕込みもしていたはずなのにむしろ弱音系で鳴っておりましたので、ずいぶんと、自分のピアノだけでなく全体仕様もおとなしくなったものだと感じました。
プレヴィンの清らかなピアノ・サウンド。比較的軽いタッチでジャズのウィットを効かせたノリの良さ。フィーリングの良さが光ります。80才越えて光り輝くといっても言い過ぎではない。響きの全部がこちら側聴衆席の方に来ないもどかしさがありますけれど、プレヴィンのピアノにはこのNHKホールちょっと大きすぎ。オーケストラの編曲も然りかなぁ。
N響はこのような曲にはむいていないオケで、出来るけどしない、みたいなところがあると思いますよ。アカデミックなものが上、といった意識もあるのでしょう。だから棒がジャズとクラシックの大家であるプレヴィンだと自他ともに納得できるのでやってしまう。今日のコンマス・ツートップには驚きましたけれど、案外そんなところも理由なのかもしれませんね。彼のお仲間なら納得。みたいな感じかも。
これもよい演奏でした。
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武満の真価は今だわからず、申し訳ありませんが、マイド、興味対象外です。
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それから、プレヴィンの棒によるプロコフィエフの5番はこれまた昔、ロスアンジェルス・フィルを振ったものを聴いたことがあります。
→1986.5.18
このブログを書いている時点で、まだアップしておりませんのでこの日のプログラムだけ書いておきます。
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1986.5.18日曜日3:00pm
エイヴリー・フィッシャー・ホール
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エルガー エニグマ
プレヴィン リフレクションズ
プロコフィエフ 交響曲第5番
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アンドレ・プレヴィン指揮
ロスアンジェルス・フィル
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1111- ハース版ブルックナー8番 高関健 日フィル2010.11.12

2010-11-13 15:12:50 | インポート


2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2010年11月12日(金)7:00pm
サントリーホール
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ブルックナー 交響曲第8番(ハース版)
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高関健 指揮
日本フィルハーモニー交響楽団
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版の選択問題は避けて通れないかもしれないが、今回ハース版を取り上げるということを強調する必要はないと思う。ブルックナーを深く知る上で詳細な解説があればそれに越したことはない。
例えば、フルトヴェングラーにおいてはノヴァーク版(という呼称)はありえず、戦中1944年の爆進する大爆演はハース版と表示され、1949年の炎の核の揺れが見える演奏は原典版と表示されたりする。
たしかにみんな紛らわしい。第1稿と第2稿の認識がまず必須と。
ハース版は第2稿ベース。(第2稿ベースが全てハース版というわけではない)
第1稿があって第2稿があるわけで、第1稿の3年後のもの。稿を重ねた方はたぶんシンプルに向かうことはないだろうね。普通は。
そんな感じはある。
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高関健という指揮者は初めて聴きます。
今日の演奏は、確信犯的であったのかどうかよくわかりかねるところがありましたが、流れの悪い演奏でした。
悪いというのは言い方がよくありません。
流れが全くない演奏でした。このように流れない8番を聴いたのは初めてです。確信犯的なのかどうかもわかりません。この指揮者を聴いたのはなにしろお初ですので芸風を全く知りませんので。
停滞して漂う演奏。ユニークと言えばユニークではありますね。前進する意志はほぼ無く、チャリの部品であるスポークがタイヤを形成することもなくたたそこに置かれます。況や、もしタイヤが形成されたとしてもチャリからみればそれはいまだ部品にすぎない。
分解図をなにやらそこらあたりにただ置いて帰って行かれた。そんな感じ。
第1楽章でいえば、主題を3個、ポンとそこに置いた。時間的流れというより3個同時に置いた。あとは好きに食えばと言った感じです。ですので、3個とも同じような速度で流れ無い割に、すぐに展開部にたどりつき、あっというまに再現部に入ります。
インテンポを第4楽章の最後の最後まで押し通したのはこれはこれでえらいのかもしれないと、最後には少し思いました。
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タイミングは、
Ⅰ:15分
Ⅱ:16分
Ⅲ:27分
Ⅳ:25分
ぐらい。
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第1楽章の3つの主題にテンポ変化などで魅せるところはないし、また経過句が特に味わい深いわけでもない、かといってゲネラルパウゼで呼吸をひとつ置くといった操作もない。
ただ、床に一個ずつ3個置いた。
いいとか悪いとかと言った話ではありません。このような演奏だったと感じたということです。そのようなスタイルから別の位相の力を引き出させようとしたのかもしれません。いまのところわかりません。
第2、3、4楽章も同じ印象です。
さすがに第4楽章になるとインテンポの並列的演奏が、確かに何か別の物を呼び起こすような様は少しあったような気がします。
この第4楽章のコーダはどこから始まるんでしょうか。第1楽章の第1主題がフル・ブラスで炸裂全奏されるところからだ、そんなことをちょっとだけ考えてみたいな、などと思わせる演奏ではありました。
いずれにしても全部が全部、興奮から、音楽の感興からヒートアップする、そのようなことから無縁の演奏であったことはたしかです。
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オーケストラは、ブラスがかなり強調され弦が埋もれてしまう局面あり。ただし、男力(おとこぢから)が出ていそうなチェロだけはしなやかで柔軟な中にも強じん性がありよかったと思います。
おわり

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1110- 終わりのないメシの続き

2010-11-12 17:37:16 | グルメ

それで、
日本国中どこでもそうですが、ガラッと戸をあけると、お客が一斉に戸を見る、もとい。入ってきた客を見る。日本人の修正のきかない習性(笑)

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あれ、なんで、見るんでしょうね。日本人って。
それで目が合うまで睨みつけるんですね。目が合うまで睨みつけるのはこのようにお食事処だけではなくて、道を歩いていたり、電車の中とか、いたるところで日本人ってじーっと見ますよね。相手のことを。
そのつもりで意識してみてください。よくわかりますから。
だから、よく怖い人たちが、がんをつけられたことが発端でいいあいになるというのは非常によくわかります。あれは些細なことではないんです。
頭にきて、たまに同じようなことをしたくなっちまいます。
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レストランのようなテーブルメインのレストランで食事。
目を伏せながら観察してほしいのですが、日本人のおもろい習性みれますよ。
一口食べて、キョロ、キョロ、あたりを見回します。また一口食べて、キョロ、キョロ。あれ、なんで他人の様子を見ながら食べるんですかね。
笑っちまいますが、冷静に考えると、自分も同じことをしてる。
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誰か、日本人の習性を解説お願いします。単に臆病な民族だからですか。動物ではなく魚系だから?とか。
相手の正体を見届けるまでは油断できない?
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なんか西洋マナーを知らない、だけでは済まされない変な習性があるんだ。きっと。

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夜中にならないと銀座の路地がわからない、という人はたまにおりますが、この習性は後天性だと思うのでちょっと違うかな。


1109- 銀座 日本料理 おおの アゲイン なう?

2010-11-12 17:07:41 | グルメ

ここ2回目。おおの


1回目が9月末。


そして2回目は、11月の土曜日22時 開始なう、でした。


銀座にありながら、土曜日も夜分おそくまで営業しているお店。


お味、いい。


ここの日本料理を食べているとワインを飲みたくなる。白。


ソムリエがいる。


ワインリスト多彩。


店主の話もすこしだけひっそりと吸い取りますた。


またすぐにうかがいます。


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1108- ジョルジュ・プレートル ウィーン・フィル 2010.11.10

2010-11-11 16:28:26 | インポート

101110_211401


2010年11月10日(水)7:00pm サントリー・ホール
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シューベルト 交響曲第2番
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ベートーヴェン 交響曲第3番英雄
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(アンコール)
ブラームス ハンガリアン・ダンス第1番
ヨハン・シュトラウスⅡ トリッチトラッチ・ポルカ
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ジョルジュ・プレートル 指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
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いいとか悪いとかといった話ではなくて、
2年前に方南町まで全日本吹奏楽コンクール高校の部を久しぶりに聴きに行きましたが、ほとんどの高校がメンバーは大半が女性でした。合唱だとこんなことは有りえませんが、ラッパの場合、うまければ在学中の誰が吹いてもいいわけで、最近の潮流と言うか流行りとかで男はあまり吹かない、といったことはあるかもしれませんけれど、とにかく驚いてしまいました。
日本のオーケストラも読響とかN響はまだバランスを保っているかと思いますが、例えば新日フィルのヴァイオリンなんかは、ほぼ、女性奏者で占められております。
いいとか悪いとかといった話ではなくて、
この日のウィーン・フィル、エロイカを聴きながら眺めていたら、第2ヴァイオリン・セクションに2名、ヴィオラに1名の女性奏者がおりました。あとは男だらけです。むろん、このオケはその昔は日本の相撲と同じで舞台には男しかおりませんでした。
この日は計3名の女性奏者です。(たぶん)
第1ヴァイオリンは6プルトで(たしか)、トランペット2本、ホルン3本(+1)、など。
トランペットの改変はありましたが、弦多めのオーソドックス・スタイル。マーラーのような大規模交響曲だったらもう少し女性奏者がいたかもしれません。
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それで、エロイカの冒頭2回の打撃音の深さ、ハンガリー舞曲の出だしの切り込みの深さ、男力(おとこぢから)が作用したのかどうか不明ですが、3大Bはこうでなくちゃ。
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今回の公演は、小澤征爾がキャンセル、サロネンがキャンセル、結局ネルソンス、ウェルザ―=メスト、プレートルが振り分け。
メストはこの前のBSで指揮のアップ姿をみてかなり気合が入ってきていると感じていたところでしたが、来週クリーヴランド管弦楽団を振るのでそのとき見ればいいかなと。
ネルソンスは最初から予定されていたので、期待の星なんでしょうが来年のローエングリンまで待ちます。
結局今回、誰の棒でもよかったのかも。
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プレートルはだいぶ足にきてしまってますが、昔若かった頃聴いた記憶があります。下唇の厚いセルジュ・ボドと勘違いしていた時期もあり。そのような薄い印象です。
先般、ウィーン・フィルのニューイヤーズコンサートを振ってましたが、たぶん、プレートルのヒストリーを追っていれば自然な流れだと納得できると思いますが、個人的にはかなり唐突な出来事ではありました。遡って、他日の演奏のCDなどが発売され、いい、いい、と逆流ではありませんが、それまでの情報収集さぼりを棚に上げ、ほめている評論家もおりました。無能なサラリーマン社会リーダーにありがちな、その瞬間の縦だけの判断に陥らないだけましではありますけれど。
余談ですが、仕事の進捗がおくれているのになんの新たな材料もださず、部下にキャッチアッププランをたてろ、という上司は間違いなく無能です。
垂直思考は政府の事業仕分けにはいいですが(もうたくさんですが)、リーダーシップと、みせかけでもいいからないよりあった方がいい愛、などがなければ人は動きません。
個人的には人生だいぶがんばったつもりですが、そろそろ炎の核も燃え尽き症候群気味。
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それで、シュベ2から始まりました。
細工もなければ作為もなし。ただ最初から最後までギザギザ刻み続けるこのあまり出来のいい曲とは思えないようなものまですっかり消化して、たんなるキザミ節が最後はすっかり熱を帯びてくる。このような曲はウィーン・フィルあればこそなんだろうと思わずにはいられない。奏者の忍耐も音楽的消化に昇華される。(笑)
プレートルは振っているようで振られている感じ。たぶん指揮者がいてもいなくても同じ結果だったような気がする。とりあえず第2楽章のような緩徐楽章では奏者の譜面台に棒を突き刺しておいて、両腕で振っているような音楽的仕草はあることはある。
美しいストリング・サウンドはもはや何物にも替え難いというか、他のオケからは決して得られないもの。これをローカルというのは的を射ていない。個々人の実力がハイスキルであるということがまずあって、伝統と言うか弦はこのような音色で鳴るべきだという共通認識があり共感のアンサンブルがある。それを具現化するには、奏法の統一感、深堀感など含めあらゆるベクトルが同方向を向いていなければならない。じゃぁ、シカゴ交響楽団とどこが違うんだと言われれば、同じだと。向きが違うだけで同じだと思う。
今回ウィーン・フィルで感じたのは、奏者の体の揺れが少ないこと。歌う為には体も揺れ動かなければならない、アンサンブルは揺れが指標にもなるんだよ、といったあたりがあまり感じられなかった。この日だけだったのか最近の傾向なのかは知らない。
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何年か前の来日公演でムーティがウィーン・フィルを振ったシュベ4、あちらのほうが格段に印象に残っている。曲の充実度もあると思うが、あの演奏には香りがありました。たちのぼるような。
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あと、ウィーン・フィルのシューベルト全集は、イッシュトヴァン・ケルテッシュの棒。あの演奏はCDに香りが染み込んでいるのかも。
ここ→ 766-
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エロイカ冒頭の2個の打撃音いいですね。昔初めてエロイカを聴いた時のような新鮮なものが蘇ってきました。ただし、この2個のテンポ感、つまり空白の長さと、それに続く第一主題のテンポ感が同じかと言うと若干違っているような気がしました。最初はタクトが必要だけどあとはいらないよ、みたいな感じ。
いずれにしても音が一番下から上に向かってアクセントされるような響きで、濃い音色。ウィーン・フィルの音だ。上から押さえつけるようなアクセントやタンギングではなく、一度抜けて湧きだすような響き、どうやればあのような音になるのだろうか。
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プレートルはここでも振られている感じで特に新機軸はありません。主題フレーズのエンディング、経過句などこれといったこだわりもなく通過していきます。逆に意識して急がせるようなところがあり一般的な指揮者の方針とだいぶ異なる人だなぁと思いました。
提示部の繰り返しもなし。最近のトレンドに敏感であればリピートも考えられないこともないが、そのような俗世間とはお別れして久しいのかもしれませんね。
振られているというのは、出てくる音を想定した仕草が先に出ているからです。自分から、こうだよ、という具合の棒ではない。意識してアップテンポにする部分は、だから、滑らかでなく唐突で違和感あり。アンコールのハンガリアン・ダンスは違いますよ。
今日のところは指揮者は横に置きウィーン・フィル・サウンドを聴きましょう。
粒立ちがよく、立ち上がりが深く立体的で奥まで彫り込まれたサウンドに浸るだけでいいのかもしれません。
再現部でトランペットが滑りましたけど、シュベ2もそうですがいい意味でのルーチンワークとみましょう。毎日超名演ばかりやってるわけではなくて(フルトヴェングラーだけが例外でした)、平均的な水準が高止まりしているのです。
この再現部の入りも特に緊張感もなく境目なくメリハリもいまいち。ここらあたりは指揮者に負う部分がかなりあるので、こうゆう解釈と判断。一緒に通過するしかありませんな。
でもいいです。エロイカいい曲です。押しては退き、退いては押す、音楽の流れそのものも立体的なんです。いいですね、三拍子で丘陵を作り颯爽と流れる音楽。ベートーヴェンはやっぱり素晴らしい。
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昔、バーンスタイン&ウィーン・フィルの組み合わせでエロイカを聴いたことがあります。
736-
あっちのほうがいまだに鮮明。
と、なってしまうので、今日のところは聴き比べではなく浸る。第2楽章以降も同じような印象ですし。
ウィーン・フィルが完全に自分たちのスタイルを持って弾いているのが楽しい。予告なく今からやる、といっても何の問題もなくウィーン・フィルになれる。指揮者はなにをするのか。いかにやりやすいようにするか、だけ考えていればいいのかも。そうではなかったのが過去からの系譜に名を連ねる巨匠時代の指揮者たちだったのでしょう。それはフルトヴェングラーのウラニアのエロイカを聴けばあまりにも明らか。歴然としている。もうこのような時代は去って久しいし、時代の流れでもないのだろう。ヒステリックなまでにエキセントリックなエロイカはなにを語っているのか。(もっととんでもないのがミュンヘンでやったシューマンの春ですけど、誰も何も言わない、、、)
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プレートルのエロイカは後続の第2,3,4楽章もそつなく進行しました。ウィーン・フィルの奏でるエロイカに身を浸すだけでいい。
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アンコール一曲目のハンガリアン・ダンスの第1番。よかったですね。最初から最後までブラームスの音楽の塊です。冒頭の切り出しの深さがエロイカ並に素晴らしくて、思わず、これぞクラシックの本流、と叫びませんでしたが、叫びたくなりました。これが例えばオランダのコンセルトヘボウなんかがやると別の味わいになる。厚さより綺麗さ、になるのですが、ウィーン・フィルの場合、音楽の厚みを感じてしまうんです。大変に素晴らしい演奏でした。当然、アンコール用にオンステージしたトロンボーンはいまだ出番がないわけで、つまりは最初から2曲以上のアンコールがあるときまっています。それで2曲目のポルカ。なにも言うことはありません。早く正月が来ないかなぁ。
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サントリーホールは主催公演のときのプログラムは薄いし、タダです。今回のウィーン・フィルの公演プログラムも超薄です。みんなこれでいいのではないか。もうプログラムにお金を払うなんて過去の話にしたい。
おわり
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1107- クラキチミッドナイト エヴリ・ウィーク

2010-11-09 16:22:09 | 六本木にて

あれ、クラキチさん。
また夜中に六本木で夜食ですか。
潤沢
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なにやら金余りの代名詞みたいな名前のレストランですな。
潤沢銀行
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こんな名前の銀行があったら、お客さんの通帳増えること間違いなしですな。
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ミッドタウンの界隈にあるんですけど、今でこそミッドタウンなどというハイカラな名前になってますけど、昔、防衛庁だった頃、ここら大江戸線の出入り口近辺は公衆便所。
そのとなりにおでん屋台が毎晩たったりしていて六本木らしくない風情もありました。
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今から徹夜で遊びまくって飲みまくってやる、と言っている連中はいつも電車がなくて帰れない人たち。
六本木もほどほどに遊んで、適当な時間に帰る、肩の力を抜いて遊ぶ。で。
なんというか、一回だけ遊ぶのではなく、日常的に遊んでいればいいと思うのですが、なんでも溜めて一気に吐き出すという人が多く、ここらへん遊び下手なんでしょうか。
気張らないでなんとなく六本木で、という感じで。

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1106- 春の祭典 巨人 メインディッシュ2皿 ズービン・メータ イスラエル・フィル2010.11.06

2010-11-08 20:59:07 | インポート

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2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2010年11月6日(土)7:00pm
東京文化会館
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ストラヴィンスキー 春の祭典
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マーラー 交響曲第1番
     (*花の章付き)
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(アンコール)
ヨハン・シュトラウスⅡ ウィーン気質
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ズービン・メータ指揮
イスラエル・フィルハーモニー
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久しぶりに多彩な客が一階の招待席あたりを占めているのを見た。極上なシングルモルトの上澄みだけちょっと口にしてあとは蹴散らすような人種は、このような国外来日トップオケしか聴かないし、社交的な色彩が強く、このなかにフリークはいない。でも点と点だけ結んで極上オケしか聴いていなくても、輪郭はわかる。点と点の間にはたくさんの普通のオケがひしめき合っていることを。
この人種はどうゆう場合でもエンジョイの仕方、エンタメの作法を心得ていて、これはこれで一方の文化水準をそれなりに引きあげてはいる。
一方、俗が、どのような場合でも小汚い破れたジーパンで来ていいというわけではない。超一流のプロフェッショナルなものに接することにより、際限無い上を確かめることも自己研さんの一つ。心身ともにただして聴くのもたまにはいいもんだ。このイスラエル・フィルに続き、ウィーン・フィル、クリーヴランド管、コンセルトヘボウ、等々やってくるので、これを点で追っかけるのもたまにはいいかも。最近国内オケばかり聴いていて、別に悪くありませんけど、やっぱり一枚上の極上品を飲んでみたい。そんな感じ。
ただ去年今年は来日オーケストラの数がさっぱりです。(一流どころ)
ちょっと前のサントリーホールはすごかった時期がありました。3年前2007年の11月です。

見よ。11月のサントリーホール

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このときは来日ラッシュしすぎ。東京のそれも赤坂のサントリーホールでやらなければ話にならんということもないと思いますが、ウィスキーも極上品が集まっているバーは限られる。資金、企画、利便性、融通性、立地条件、ビフォアとアフターのエンタメ、などなどシステマティックに用意されつくしているのがここなんでしょう。極上品とそれを求める人たちによるシナジー効果抜群なところなんだね。
よく、
国内のオケを聴いた後で、外国のオケと比べても遜色ないし、むしろいいのではないか、といった話を耳目しますが、たしかに来日オケのうち最近やたらと多い、二流三流に比べたら日本の在東のオケの方が全然いいです。でもこれって何を言いたいのかわかりません。自分が聴いたものは全ていい、そんな感じの感想ということであれば、ちょっと耳も怪しい。二流三流の来日オケばかり聴いているとこのような感想もあながち間違いではないんですけど、何事も自己研さんするには一段上のプロフェッショナルをたまには覗いてみましょう。自分を高める為にはお金がかかりますけど、自分の将来への投資と思って、終わりかかっている人は純粋極上エンタメのエンジョイとして、それぞれいろいろと楽しみ方味わい方があるはずです。
それと、この現象、オペラ公演でもまるっきり同じです。
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この日は昼夜、はしごしました。昼はメッツマッハーの振るマーラーの6番。最近の生ではアシュケナージの方が一枚上手でしょう。オーケストラも含めて。
それで夜は、ズービン・メータ指揮イスラエル・フィルによるメインディッシュが二皿です。
両方ともに通常はプログラム後半に置いてある曲です。同オケは今回の来日でバレエ共演をしており、特に11/3にはハルサイをモーリス・ベジャール・バレエ団と共演。その流れがあるとはいえ、大胆なプログラムであることに変わりはありません。
メータは両手に持った長刀を振り下ろすのではなく斜めに横にシュインシュインと漕ぐように振る。この大ぶりは昔から変わりません。昔、メータ&ニューヨーク・フィルの組み合わせはたぶん100回は聴いていると思いますが、グレリーダーは聴いたことがあれど、ハルサイは初めて。メータはNypのミュージック・ディレクターを長く振っており、最近の日本のオケように、1シーズンに数回しか振らない音楽監督とは異なり相当回数をこなしておりました。それだけ人気指揮者でしたし、その名称に足る実力指揮者。プログラムの解説にはメータ&Nypの組み合わせは1000回ぐらいと書いてました。そのうちの100回は聴いている。今回のように別のオケやオペラなどを含めるともっと多いかな。
ついでにリンカンセンターのエイヴリー横のメトではレヴァインさんだけでも50回ぐらい聴いていると思います。たぶん。
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それで、メータも七十四五才になります。この御歳でハルサイを譜面なしで猛然と振り、後半ではマーラーを振るんですから、指揮者界の寿命は昔から長いとはいえ、ますますその感を強めるだけですね。いくら力の抜きようやさじ加減を分かっているとはいえそうたやすいことではないでしょう。手兵のイスラエル・フィルだからこそというのはあるかもしれませんけど。
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ハルサイは、言葉の真の意味で適当に始まります。棒的アクションのない原始的アンサンブルの発端のようなところから徐々に高まりを魅せていきます。指揮者無しの原始時代から絶対必要性のあたりまでの振幅の大きな音楽を包括しているこの曲を見事に表現してくれました。ビートを聴かせた破天荒音楽は100年ののちもこうやって説得力あるものですが、かといってクラブでたやすく踊れるような代物でもない。譜面を全部理解していないと踊れません。逆にこんな感じの方が最近の子たちには刺激的な部分もあるかもしれません。何度聴いてもクレイジーな曲ではあります。みなさんハルサイを。
イスラエル・フィルと言えばその昔は、世界一きれいなストリング・サウンドで定評がありました。今回もそれまでの印象は思い浮かべることはできます。極上ウィスキーの上澄み部分しかないと思ってください。中が真空で表面張力したあたりだけです。この極上部分しか飲めない。ほかは真空ですから。
ちょっと例えも膨らんでしまいましたが、美しいサウンドです。個々人の技術的能力の高さ、演奏会での本気度、オーケストラを個体にできるアンサンブル能力。この3点が見事に一体化。ルーチンワークのレベルがたぶん全然そこらへんのオケとは違うんでしょう。
ハルサイにおける弦の美しさ、暴力的な符が多いがそのような音まで含めて神経の無いような細かいところまで表現しつくしている。常日頃の練習とハイスキル集団であることの証明。
ところでこのイスラエル・フィルの弦の美しさ、泣き節には昔やられました。最初に印象にあって今でもこれ以上ないと思っているのがこれ。

泣きのバーンスタイン

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今日の演奏では弦の美しさと、それに加えてブラスの響きが一段と磨かれてきていると感じました。ホルン以下踏み外せませんから、技術レベルの高さは言うに及ばず、音色の綺麗さというものに一層踏み込んできているような気がしました。現代の流れに沿っていると言えそうです。なんだか全部美しいものを聴いている。おいしいものだけ飲んでいる。そんな感じ。曲が粗野にできているので、それ以上汚さなくていい。譜面を美しく演奏すれば粗野な音楽がそのように表現される。不協和音の音圧バランスは困難を伴うと思います。聴衆も耳を鍛える必要がありますね。
ティンパニとバスドラの大音響は、下手をするとそれしか聴こえてこない、みたいな音響になりかねませんが、力の抜き加減とブラスの強奏、深く弾く弦、などとのアンサンブル的出し入れが絶妙でした。ほかの楽器を聴きながら演奏している。やっぱり能力高いな。
生贄のびくつき感が現代風にスタイリッシュに(変な表現だ?)描かれている様は、これはこれで圧巻。メータの棒さばき見事でした。
かくして破天荒な曲に身を委ねられる。ハッピーなときを過ごしました。
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ここまでで割と満腹感あり。
後半はマーラーの第1番です。この曲は構造的にはスカスカです。ただ、花の章が演奏されるのを知らなくて、連れには全部で4楽章あるよなどとほざいてしまいました。あとでおこられました。花の章が奏でられたとき一瞬判断がつかなくて目がまわりましたので予期せぬ出来事に弱いのかも。
それで、この曲は構造ではなく、多彩でデリケートで若々しくも妖しく彩られた過去の青春を思い浮かべる、そのような色彩とグッド・リメンブランスをイメージして聴いてみましょう。曲を聴いて何かを思い浮かべる、そのような曲です。花の章を挿入したことにより曲感はぐっと2番以降に近くなります。
美しいストリングの響き、それと相似形になっているブラスセクションの比較的明るい色彩感。弦の歌の艶やかさは日本のオケでこのレベルまでは到達しているところはありません。方向が違うとか言ったレベルではなくスキルレベルの話。身と耳を座席に浸しながら聴く真の美しさ、最高ですね。
ただ、マーラーのやにっこさ、フレーズを決めて一端デクレシェンドしクレシェンドするようなやにっこさは見られません。指揮者にもよりますが、昔のイスラエル・フィルではチャイコフスキーなどでもそのような泣き節が聴かれました。今の時代、そのようなものを廃しているというよりみんなそのようなアクセントを忘れてしまっている、または知らない、そんなところでしょう。文化の平板化は、世代の忘却も伴うんだろうね。全部インターナショナルになってしまったらつまるところ技術の争いになってしまい、違いはただ単に、この種の技はAオケが得意だけど、別の技はBオケの方が得意だ、そんなレベルの話になっちまうんだろうね。そのうち。
来日トップオケは今のところ、技量では日本のオケの上をいってますので来日の意義、聴きに行く意義は大いにあると言えます。
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それで第1楽章ですがここではやっぱり立体感がポイント。冒頭のうちふるえるようなフラジョレットから刻んだ音型が大胆なエンディングまでデリカシーの塊。一面、血管が透けて見えるような神経質極まりない曲かもしれず。
昔アナログディスクで初めてこの曲を聴いた時のような新鮮な気持ちで音楽に集中出来ました。淡くも美しい第一楽章です。祖国を持たないマーラーへのイスラエル人の共感なんていうとあまりにも陳腐ですけれど、絶対に手抜きはしないということが最初から染み込んでいるし、そんなことは思ったこともないんだろう。日本のオケもこのくらい真剣にやってほしい。音楽への大人の対面だよ。
オケはあまりうまくなかったけどブルーノ・ワルターの指揮したコロンビア響の同曲の演奏。あれも身をゆだねて聴くことが出来た。何故か出てくるマイナスイオン。精神の安定を呼び起こす演奏というのはいいものです。あれにくらべたら今のイスラエル・フィルはベラボーなうまさなんですが、双方同じような、身をゆだねるマイナスイオン感覚、感じました。
ゴージャスとはちょっと違うけれど光り輝くサウンドが美しい第1楽章でした。
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次の第2楽章、スケルツォの身構えでいたら花の章が奏されました。1000円のプログラムのおもてうらどこにもそのようなことを大っぴらに書いているわけではなかったようですし、そもそもプログラムって買いますけど、記念買い。ほとんどめくりません。メンバー表のチェックをするぐらいです。これからはこんな変な癖を改め、しっかりと読破するように努めたいと思います。
そんなわけで花の章が演奏されただけでなんだか得した気分。前後しますがアンコールでかなり得した感じがあったのですがそれと似ている。
弦とそれに続くミュート付きのトランペットで弱くなぞられるいい節。降下音形で恋の空しさが最初から見えていたのかしら。でもこのトランペットのニュアンスはどことなく2番以降のイメージを強く想起させるところもある。その前に、この第1番の第1楽章で舞台裏から既に細かい波形がトランペットで吹かれてますね。曲想ではなく音色で思いだされるマーラーの曲のつながり。やっぱり我々はマーラーを既に聴きすぎているのかもしれない。
とにかく、この下降するメロディーは儚くも魅力的。この第1番はやっぱりいつまでも終わってほしくないと思う方にはお勧めの挿入となった。
イスラエル・フィルの弦はピアニシモでも限りなく美しいですな。
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第3楽章スケルツォはこれまたスカスカの形式なんですが、メータによるとあまり狂った感じまでもっていくことはない。スケルツォ最終部分であまり駆り立てない。この楽章が折り返しであるといった主張があるのかどうか知らないが、折り返し点としての安定感みたいなものがある。
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第4楽章はなんだか望郷の念にかられるところもある節回しがあるが、セレクトした奏者による室内楽的な弦のメロディーラインは美しいですね。メータはこうゆうところはあまり浸らない。綿々としすぎることはない。昔から。
この日の演奏ではむしろ少しずつアップテンポにもっていき、結尾で大きなタメを作り、呼吸を整えて第5楽章に突入。この第5楽章も構造はシンプルで2度大きな波が来て終わるだけです。ですので、やっぱり響きの多様性に集中すべきでしょう。目をみはるのは右から左まで中央に並んだホルンセクションなんですが、トップの安定感がすごい。グリッサンドも決してはずさない。見本を見せればみんな真似できる。トランペットとトロンボーンが右奥に並び、その前にホルンが居座るかたち、なんだか懐かし。メータ&ニューヨーク・フィル時代はいつもああだったな。
むき出しのブラスセクションはなにか一本の線でつながっているようでもあり、アンサンブル能力の高さが歴然としている。
よく、
音大生あがりとかが、トップオケのブラスを指して、あのチューバたいしたことなかった、みたいな話をするのを聞くことがあるが、じゃぁあすこに座ってかわってマーラーのソロ部分吹いてみろ。といいたくなるがそういう意味じゃなくて、君たち、なにを聴きに来たのか、と問いたいだけですよ。私は。
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それでこのフィナーレ楽章は自然に高揚するように出来ているのですが、この日の演奏で注目すべきは2回にわたる弦の歌ですね。圧倒的な歌です。途中からホルンとブラスが追奏してきますけれど、全楽器で臆面もなく歌われ尽くされる圧倒的な青春の抒情詩。浸るだけです。
荒れ狂うコーダは疾風怒濤です。そしてここでマーラー&イスラエル・フィル的やにっこさが全開となります。いいですね。このデクレシェンドクレシェンドの執拗なやにっこさ。音が遠い彼方に去ったり近づいてきたり。やっぱりDNAは残っていた。
綺羅星のようなオーケストラのクリスタル・サウンド。すぐに音がつぶれてしまう日本のオケとは相当な開きがある。腰がブインと立って、透明に持ち上げられるようなあのような響きのオーケストラになるには、まだ少しかかる。
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この終楽章の終わり方なんですけど、なんで、ジャ、ジャ、と短く終わってしまうんでしょうね。マーラーの交響曲で言うとこの曲だけなんです。つんのめってしまったような奇妙な終わりかた。
確かにコーダの曲想的には今となってみればこれがベストマッチのような気がしますが、なんだかあっけにとられてしまうようなエンディングですね。第1楽章の冒頭のかっこう音形で終わりをむかえたかったのでしょうか。
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ということでメインディッシュ二皿でお腹がいっぱいになりました。銀座で早く日本料理を食べようと予約していたので帰ろうとしたら、忘れてました。アンコールがあるのを。
日本の聴衆はお開きになっても立ちません。座ったままブラボーコール、拍手の山。これがアンコールのリクエストのように映るらしいですね。立って讃えるマナーがありませんのでしょうがない。
お腹いっぱいのところ、ウィンナ・ワルツといってもかなりへヴィーな、ウィーン気質。
確かに花の章に続くお得感はありました。なんでこの曲がアンコールなんだろうというのはありますが、爆な曲二皿のあと、じゃなにをやれば皆さん気が済むの?みたいなところもあり、受け入れるが勝ち。
この曲の序奏部分で奏されるトップ弦による絶妙なアンサンブル。美しかったですね。アンコールにあれだけ耳を奪われてしまうのも久しぶり。味わい深い曲です。たぶんメータの好物なんでしょう。ここは一緒になって食べて、目がまわるほど酔いつぶれましょうか。
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おわり

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1105- マーラー 交響曲第6番悲劇的 インゴ・メッツマッハー 新日フィル2010.11.06

2010-11-08 00:21:54 | インポート


2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2010年11月6日(土)2:00pm
すみだトリフォニー
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マーラー 交響曲第6番悲劇的
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インゴ・メッツマッハー指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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アシュケナージの爆演と方針が同じかどうかということはあるけれど、もっともっと追い込める余地はありそうだ。

この日のタイミングはこんな感じ。
Ⅰ:23分(提示部繰り返しあり)
Ⅱ:13分(スケルツォ)
Ⅲ:16分
Ⅳ:30分
メッツマッハーは11/2の日もそうだったが割と譜面を見ながら振る。いいとか悪いとかという話ではない。昔クレンペラーはどんな場合でも譜面を見ながら振っていたようだし、だからどうのこうのというつもりはない。メッツマッハーはいい指揮者に変わりはない。音楽を生成している感じがする指揮者であることには変わりはない。第一楽章提示部をリピートしているが、リピート時は譜を戻すこともなく振っているので一種保険のようなものなのかもしれない。
ここのリピートに関しては、第一楽章だけでモーツァルトのシンフォニー1曲分ほどの長さがあるので、約5分の提示部の繰り返しは相対的なバランスを考えると妥当なのだろう。昔はリピートしない演奏が普通だったような気がするのだが。
第一楽章は冒頭から最後までヒステリックな音楽的絶叫が絶え間なく続く。これほど絶叫が説得力を持つ音楽はほかに知らない。着ぶくれ以上に身にまとったものが過多で究極の行き過ぎ感があるのだが、なにせソナタ形式を踏襲しているため、締め付けられた説得力も普通ではない。ジョージ・セルが正規盤で残したくなる6番ではある。シェーンベルクは新たな音楽語法を見つけ出したのに、形式は以前どおり。打破すべきものではなかったのかもしれない。形式の意味はもっと別のところにあるのかもしれない。
とにかく、6番はそのような曲だ。メッツマッハーがなぎ倒す第一楽章はいかにも着ぶくれ状態の曲なんだ、この6番は。と言いたげな演奏だ。
線をくっきり出していくので縁どりが明瞭、かといって分解されている感じでもない。太いラインが堂々と出てくる。物々しさもある。メッツマッハーがこの曲を得意にしているのかどうかはわからないがそんなに回数はこなしていないのでは?
分解能力はオーケストラの水準にも左右される。悪い意味ではなく、このオーケストラの表現を考えるとこのような肉厚な演奏表現でいくしかないというか、成り行き任せとは言わないが、オーケストラの特質をとらえた演奏でもある。たとえばホルンのソロトップの音は太い。それをベースにした音楽づくりということ。ヴァイオリンは第一と第二が若干バランス的に問題というか、異質的な部分があるような気がする。その上での音楽づくりということ。極度に肥大化されている音、あらゆる音が聴こえてくるというわけでもない。このオーケストラだけ頻繁に聴いている人がいれば、こうゆうもんだと思ってしまう。明らかにもっとスキニーに出来る個所が散見される。
今の時点でメッツマッハーのマーラーはこうだというものは見当たらなかった。ただ、ヒステリックな曲だという再認識は出来た。
第一楽章はエネルギッシュを通り越しヒステリックすぎるわけだが、形式感がそれをうまくくるんでいる。そして第二楽章なんですが、この日はスケルツォを置いてます。いわゆる通常の演奏なんですが、通常という意味、変かもしれません。第二楽章にスケルツォですから。
ベートーヴェンの第九のインパクトの比ではありませんけれど、破壊して再構築した作曲家の真似をしたことになるかもしれません。ただし、あまりにクレイジーな第一楽章のあとにアダージョが似合うかどうかというのは考える余地がありますし、息せき切った余韻をまともに受け止めるにはスケルツォが妥当な気もします。
この第二楽章に置かれたスケルツォですが、メッツマッハーの棒は(棒は持ってませんけど)、あまり滑らかではありません。マーラーがわざとゴツゴツしたワルツにしたかったのをうまく表現した?と言えるのかもしれませんが、この一部変拍子が絡む三拍子の音楽を滑らかに流れるように表現できていない。起伏を丘のように表現できて初めて、曲を知り尽くした、オーケストラをコントロールできた、ということになります。曲のゴツゴツさをうまく表現できたというのは適切な物言いではありませんね。
第三楽章第四楽章は全てアタッカではいります。
第二楽章のスケルツォが静かに終わりそのまま至福の第三楽章が始まる。これはこれでいいものです。第四番の第三楽章と双璧だと思います。調子っぱずれなホルンのメロディーラインのように、意識された調性の破壊のような個所も見受けられますが、総じて、浸ることのできる音楽です。第一楽章や第四楽章と対比も見事ですし、アンダンテ・モデラートとして、この交響曲の形式を踏まえながら浸れる唯一の楽章かな。
この第三楽章におけるメッツマッハーは浸れる音楽というよりも暗中模索といった感が強い。ここでも音楽の縁どりは見事で美しい音楽が気持ちよく響きます。ただ、音楽のせり上がり感というか、熱をもって濃くなる部分、微熱を帯びるようなところがない。アンサンブル重視、バランス重視はそれはそれでいいのですが、音楽の熱も欲しい。
それで静かに気持ちよく第三楽章を終えここもアタッカで第四楽章にはいります。第四楽章は序奏付きです。序奏だけで5分。30分の長さがありますので序奏も濃い。この第四楽章も音響的には爆だが形式感はシンプルです。
メッツマッハーは、2回のハンマーにそんなに思い入れや未練があるわけではなさそうで、どちらかというと、通過、といった感じ。割と淡々とこの繰り返し音楽は進んでいきます。
よく言うとオーケストラの肉厚感を生かした演奏。換言すると、もっと絞り込んで俊敏な演奏スタイルを模索。そんな感じの演奏でした。その昔は日本人には演奏不可能と言われたこともあるマーラーの6番ですけれど、今では聴きすぎで陳腐化してしまった?
第四楽章は三度の焦点がありますが、どれに合わせているのかもしくは合わせないようにしているのか、譜面を越えて来年戻ってきて答えを魅せてくれることでしょう。
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なおオーケストラに関しては、ブラスが一部、雰囲気で流してるところがある。スキルの均質化に問題ある。トラ多数による当公演だけの問題点かもしれない。
ストリングは非常に美しく、マーラーの紅い炎の核がめらめらと燃えているさまが良く表現できていた。
おわり
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1104- 今日は華金なのにまっすぐ帰宅せねばならぬ。

2010-11-05 13:32:32 | まち歩き

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今日は11月に入って最初の華金ですけど、

まっつぐ帰りますゎ。
明日コンサートのハシゴなんで。
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2010.11.06(土)
●14:00 すみだトリフォニー
マーラー交響曲第6番悲劇的
インゴ・メッツマッハー指揮NJP
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●19:00 上野
ストラヴィンスキー春の祭典
マーラー交響曲第1番
ズービン・メータ指揮イスラエル・フィル
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両方とも刺激的。
メッツマッハーはこの前11/2の演奏が最高だっただけに、悲劇的も期待が高まりますね。
ブーレーズのような棒がなんとなくにおわないでもないが、出来ればアシュケナージのクレイジーな演奏の上をいってほしい。乞期待。
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メータはすっかりおじいさんぽくなってしまったが、あの大ぶりは昔からなんで気にきにならない。

それで、個人的にはメータとレヴァインを一番回数的に聴いていると思う。
お河童さんはプラザ合意(笑)の頃、リンカンセンター近くの河童洞窟に5シーズン棲息していたらしく、仕事はなに?と訊かれれば、メトとエイヴリーに日参すること、などとほざいていたらしいし。
ということで、メータがハルサイを譜面なしで振れるか、今でも。といったあたりがチェックかな。
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では、みなさん、今晩は銀座も六本木も新宿も西麻布も渋谷も神楽坂も、どこにも立ち寄らないで帰ります。たぶん(笑)

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1103- インゴ・メッツマッハー 新日フィル ハルトマン 2010.11.02

2010-11-03 11:34:18 | インポート

101102_201201


2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2010年11月2日(火)7:15pm
サントリーホール
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ブラームス 悲劇的序曲
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ハルトマン 交響曲第6番
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チャイコフスキー 交響曲第6番
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インゴ・メッツマハー 指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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メッツマハーのCDはたぶん何枚かもっていると思うが、生聴きは初めて。思っていた通り素晴らしい指揮者。チャイコ後半ではもしかしてこの曲をこなしていないな、という局面もありましたけど総じていい棒振り。
棒振りと言いながら棒は持ってません。素手で柔らかく振ります。全身を使うのもいい。
音が体から出てくるように思えるのは才能ある指揮者の典型的なパターンだ。全てを自分の中で一度消化してから再構築している。そのようなことが手に取るようにわかります。
このオーケストラのミュージック・ディレクターとはかなりの開きがある。プレイヤーもたぶんそんなこと言わずもがな、なんでしょうねきっと。
ピアノ出身のオペラ振り、現代音楽推進、掘り起し系。だいたいこちらのイメージも湧きます。実力派ですね。例えば現代音楽オペラ振りは、みんなが素通りしてしまいそうなところを自分の耳で振ります。自分のスタイルを完全に持っているいい指揮者。
顔写真だけだとゴツゴツしてますけど、割とスキニーで気を使っているのでしょうが、俊敏な動き大切です。
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ブラームスは、ためを思いっきりつけた濃い演奏。フルオーケストラながらダイナミックさに加え、呼吸をためて一気にはき出す、そんな感じの演奏でした。また柔らかな第二主題のようなフレーズは美しく聴かせてくれる。自分の耳で聴いたものを表現してくれている感じ。既成概念にとらわれず自分で感じたものを表現する。だから陳腐化していない。これが現代音楽掘り起し系の指揮者が名曲に立ち向かう時の一つの姿であるような気がする。いつでも。
それとどのような複雑なところもテンポを落とさず明確に振り続ける。
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今日の目玉はハルトマン。
初めて聴きます。ハルトマン自体初めてと。
交響曲といいながら二楽章形式。
第一楽章12分
第二楽章15分
この、第二楽章なんですけど、
「熊蜂の飛行」みたいな音楽が15分間、鳴りっぱなしです。これはどちらかというと、トンデモ系かな。何を言いたいのかわからないが大迫力間違いなしではある。昔、ドイツにこんな曲を作っていた人もいたのか、そんな感じです。
その時代への苛立ちの表現ということもあるでしょう、エキセントリックな表現が延々と続きます。時代背景を、少なくとも心象風景としてでも表現するということは、それが普遍性を勝ち取るのは並大抵ではない。かえって外面(そとづら)の描写音楽の方が説得力があったりします。具体的なものの描写音楽はわかりやすい。ハルトマンのような音楽はなかなか大衆受けはしなかったのだと思います。
その意味でメッツマハーの取り組みは隙を突いたというか光をあて方が良いと思います。
第一楽章の淀んだ空気感。灰色の響き。第二楽章のせわしなさ。見事な対比で聴かせてくれました。ブラームス同様、複雑系でもテンポを落とさずむしろ駆り立てます。この明快さはこの種の指揮者の特徴であり、プレイヤーにとっても表現のし甲斐があるというものだろう。爆発が爆発を重ね頂点で終わります。ただ、曲自体に呼吸がない。両楽章ともなにか壁に塗りこまれたような音楽です。
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後半は悲愴。これが一番おもしろかった。単に客寄せプログラムぐらいのレベルの認識だったのですが、解釈、表現ともに秀逸でしょう。
Ⅰ:18分
Ⅱ:9分
Ⅲ:10分
Ⅳ:10分
一番示唆的だったのはいきなり冒頭で現れます。最初の弦からすぐにコントラバスが弱音で出ますが、ここをメッツマハーは明確に、指でコントラバスを指します。ハッと思うんです。この音聴いたとき、これって最終楽章の最後の音だ、と。
最初から最後が見えている。現代音楽のオペラ振りの指揮者ってこうゆうところがあるんですね。ブーレーズなんかも同じ。新鮮に曲が聴ける。蘇る何かがある。いつも示唆に富むなにかがある。いい指揮者だとこうゆうところで思ってしまう。
それにもまして素晴らしかったのは、第4楽章。尻つぼみ楽章なんですが、この楽章のストリングの歌の呼吸が最高。ザーと弾いて、空白をつけ、ザーと次に入る。空白にかなりウエイトを置いている。ハルトマンよりこちらのチャイコの表現の方がまさしくマーラー第九の第4楽章結尾部のような様相を呈した。非常にユニークで示唆的。空白を全身で表現しているので意図的なのはもはや明確。このように表現したかったということです。
いい体験をしました。
第一楽章の第二主題にはいる呼吸の空白で咳をした人間がいましたが、我慢できないことは、いつでも一番大事な場面でしてしまうという例ですね。それを無視してあまりある濃い呼吸の表現でフレーズが流れていきますが、フレーズの塊がなにか微睡のようにとろーんとステージ上横に雲のように広がる。それらがフレーズを繰り返すたびに前の雲が消えず次々と雲があらわれ重なってでてくる、そんな感じ。
音色のバランスに配慮しながら歌っていく、アンサンブルバランスを自分の耳で整えながら表現していく。まさに現代音楽推進派の面目躍如たるところでしょう。
週末のマーラーの6番への期待が一気に拡がります。
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それにしても、悲愴の第3楽章っていつ聴いても爆な音楽だなぁ。名曲をCDで聴くのもいいけど、この第3楽章はやっぱり現場で聴いてほしい。いかに爆か、チャイコフスキーってとんでもない作曲家。
おわり

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1102- 文化の前は華火?

2010-11-01 22:54:23 | インポート

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おや、お河童さんまた夜更かししましたね。
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時代屋
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平日の0時に待ち合わせして居酒屋いくなんてぇのは。
気の持ちようということで。
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まわりにキャバ系がたくさんいました。
女性だけのグループ。
お客同伴系。
夜中なのに六本木は賑やか。
でも、
この時間帯、同伴はビフォアなのかなアフターなのかな。
微妙な時間帯。
客が来なくて早く店じまいしたアフター系?
どっちでもいいですよね。
大勢に影響ありません。
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この10月は演奏会オペラ合わせて14回ほど征服しました。

ここ

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バーの方も、ブルータスを見ながら潰しこみ中。
ブルータスに掲載されているバーはもともと結構潰しこんでいたのですが、新宿はお河童さん空白地帯で、新宿三丁目なんていったこともなかったんですが、地下鉄でC5で降りて雑踏にまみれてお店にはいればそこは別世界というか、個性のあるバーテンダーがしっかりとお城をつくっていて驚きでした。
いずれにしても10月はいろいろあってちょっと頭のピントがずれまくりです。
でも、まあ、楽しい月でした。

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