2016年11月7日(月) 7:00pm サントリー
柴田南雄生誕100年・没後20年記念演奏会
オール・柴田南雄 作品
ディアフォニア (1979) 2+5+3′
日本フィルハーモニー交響楽団
追分節考 (1973) 15′
尺八、関一郎
東京混声合唱団
武蔵野音楽大学合唱部
Int
交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」 4+3′6′7+9+10+7+8′
日本フィルハーモニー交響楽団
東京混声合唱団、武蔵野音楽大学合唱部
指揮 山田和樹
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作曲家生誕100年、没後20年にまことにふさわしい企画。知の巨人の秀逸作品群に最高峰の表現を魅せてくれたプレイヤー達と指揮者に拍手喝采。エポックメイキングな一夜となりました。
指揮者のヤマカズは、2か月前の9月2日、3日に、コンソート・オブ・オーケストラ。続く9月6日に、萬歳流し。そして今日と、柴田作品を精力的に取り上げています。どれも、共感の棒、パフォーマンスレベルも高いもの。
大したもんだ。
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ディアフォニア。2+5+3
1部2部3部は連続して演奏される。区切りは極めて明確。
1部は12音進行。シェーンベルクのあとのウェーベルンやベルクがハイブリッドしたような豊かな情緒を感じさせるもので、12音も今は昔、オーソドックスな暖かみがあるものだ。12音独特の空虚な響きに心の準備が出来て、すぐに聴けるモードにスイッチを入れることが出来るのは現代の聴衆の特権かも知れない。
2部は指指示(ゆびしじ)メインのトーンクラスター風味進行。1部同様スイッチがすぐに入る。これも今は昔、妙に新鮮だなあ。ここ、特に、ステージの広がりを実感させる演奏は秀逸でした。
3部のまとめ上げでは、後半ブラスが盛り上がる。引き伸ばされた響きは、なにやら京都の閃光のイメージがふつふつと。そして弦がしゃれた終止。
柴田モードへ。
追分節考。15
歌い手たちと尺八がホールの通路を歩き回りながら歌う。素材の旋律譜どれを歌うのかを舞台のポーディアムに立っているヤマカズが字を書いたうちわのようなもので指示。記号があればカオスは起きない。整理された混沌。
この曲は語りつくされていると思います。3000回にならんという演奏回数のようですし。すごいもんです。
ワインヤードで上演されるのを作曲家は予期していたのかどうかわかりませんけれども、ホールに散らばった歌い手たち。指揮者ポジションのあたりに中心点があるように声が照射されていく、非常に効果的なサウンド。スケール感出ました。
そして、ヤマカズの求心力、遠くまでおよぶコントロール、お見事。コーラスはこれだけ離れて、かつ、多層な響きを作り出していかなければならず、困難を極めると思います。インストゥルメントのように周りの音を聴きながらプレイするアンサンブルといったものとは一味違う感触を味わいました。尺八もよく響きました。細くて通る一筆書き。
終って、ほっと、沸き立つ。
交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」 4+3′6′7+9+10+7+8′
これの生聴きを幾年月待ったことか。ヤマカズが実現させてくれた。まずは深々とお礼です。
作曲家によるプログラムノートでは第1部第2部それぞれ35分ほどと言っています。今日の演奏では第1部29分、第2部25分。全54分。
第1部1,2,3,4,5楽章。第2部6,7,8楽章。
第1部の第5楽章後半のセンツァ・テンポでタイミングに幅が出ると思います。第2部では6,7楽章で幅が出ますね。それにしても大幅に短い演奏時間でした。
1,2部に分かれているが実際には連続演奏。3楽章のスケルツォだけがひとつ浮き立つように前後にポーズがあります。あとは全て連続演奏。
第1楽章4 アダージョ オケ
+第2楽章3 アレグロ オケ
第3楽章6 スケルツォ2オケ、トリオ2合唱、スケルツォ2オケ
第4楽章7 アダージョ・カンタービレ オケ
+第5楽章9 序奏1、アレグロ4、センツァ・テンポ4 オケ
+第6楽章10 無伴奏合唱無限カノン
+第7楽章7 方丈記口説 合唱とオケ
+第8楽章8 フィナーレ 合唱とオケ
第5楽章までの第1部は、ほぼ西欧ミュージック。
1楽章は8楽章フィナーレの大詰めと弧をなすもの。咆哮するブラスや静けさがツーンと鳴る作曲家のいわゆる当時の現代音楽をそのまま聴いている雰囲気がある。始まりという感じ。
中間部のフルートソロは、あとの8楽章で再現するので、この1楽章をイメージさせ、解説が無くても終わりが来たとわかる。
2楽章は古典的で軽妙洒脱。途中、プレイヤーが方丈記を朗読。ちょっと声が小さいかな。
もう、ここまでで、時代の様式が陳列されたおもむき。
3楽章のスケルツォはこれまた明白なスケルツォ。それもマーラー時代の思い起こし。
トリオ部分に合唱が入る。1930年代の素材を盛りだくさん、コラージュ風味で。スケルツォ回帰の直前は回文も。とは言っても、このトリオは2分ほどなので、てんこ盛り通過みたいになっちまう。ゆっくりゆっくりのトリオで進める方がより理解が進むと感じました。
さらに陳列は進む。
4楽章のアダージョ・カンタービレ、作曲家の憧憬。なのか。前半ショスタコーヴィッチ・モード、後半は透徹したショスタコーヴィッチの響きにウェーベルンあたりのウェットさ、後期ロマン派のもっと明るそうなものが輝く。メシアンもいるかな。
とにかく、ここらあたりまで、全部知っているよ、こんな時代変遷、簡単に書けるよ。そんな感じの筆の進み具合に唖然とする。それでも、まだ、先があると。
1部大詰めの5楽章。ここではバラバラ演奏が新鮮。
序奏と続くアレグロは12音。明快。この進行がだんだんと快感になってくる。12音進行は空虚になりきらないところがあって柴田独特の感性を感じる。彼の時代にあったのに、それを過去のものとしてとらえていたような気がしてならない。ひとつ上から見ていたのだろうか。換言すると、様式がコピーされたとあまり感じないのである。
後半は拍子を取らない。センツァ・テンポ。Without tempなのかな。テンポ設定が無いので各奏者がバラバラにプレイを始める。ありましたね、あの時代このような作品、たくさんあった気がします。なんだろうなこれ、などと当時は思ったものでしたが、今日こうやって聴くと新鮮な思い出し。音階の分解、そして時間軸を取り払った時代様式。この第5楽章色々と混ざり尽し。
ここまでの5個の楽章、お見事にあちこち飛びまくりです。まとまっている感があるのは通奏低音的な意識にある方丈記のせいなのか。
第4楽章のあたりでP席に陣取っていた合唱はそろそろと引きあげており、第2部の歌に備える。
第2部始まりの第6楽章は第5楽章からの連続演奏、といっても、インストゥルメントから声に変わるので区切りはよくわかる。この楽章は合唱のみ。
シアターピースのように合唱が客席から入ってきて方丈記を歌う。無限カノン。
ゆく河の流れは絶えずして、そのイメージですかね。サントリーの空間の空気感がよくわかる響きの声で、まとまりではなく交錯する音群。
2部の6楽章と続く7楽章は、前半第1楽章からの西欧世界が一変し、柴田ワールドとなるわけですね。これら6,7楽章はほぼシアターピースの様相。
作品中この第6楽章無限カノンが一番長いわけですが、ホールにより同じ内容でも時間幅があるかもしれない。サントリーだとドア外の通路も含め、移動によけいな時間がかからないような構造ですし、すっすっと動ける。
第7楽章は声楽アンサンブルが今度はメンバーが一人ずつ別々の口説。内容は方丈記の中身そのもの。天変地異等々をステージに向かい語り、はたまた聴衆に語り掛ける。騒然となるなか、オーケストラが加わる。まるで時空が曲がっていくかのような個別に押し出された楽器群がところてん式に次々と現れてくる。ブラッシングされた不協和音が鳴る中、騒然となる。柴田の真骨頂はすぐにあっけなく静寂に変わり、
8楽章のフィナーレへ。方丈記の冒頭が歌われ、最後のほっといてくれ部分が語られ、そのあと1楽章回帰。フルートが信号になっています。ツーンと鳴っていた音楽がシーンとやむ。長い空白。ヤマカズ、タクトを動かし、身体を起こしエンディング。
この異様な風景はいったいなんだったのかと。
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様式の歴史の流れをシャッフルしてまとめあげるには、この方丈記しかないという話だったのか。柴田南雄、凄い作品、これはやっぱり生で観て聴くしかないなぁとあらためて思う。
ヤマカズは終始リラックスした振り、合唱コントロールが板についているのが大きいですね。それに、日フィルを掌握しているというのもデカい。
合唱はアンサンブル、ソロ含め、自発性を大いに引き出しているし、日フィルの柔らかいゆく河の流れのようなサウンド、そしてふくよかとさえ言える12音進行、クラスターの揺らぎさえあたたかい。早い話、人間的な指揮なんですよね。こういった作品、とんがってない人が振ったほうがいいかもです。これ実感。
身も心も満腹。エポックメイキング・ナイト、満喫しました。ありがとうございました。
おわり