河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

ヘンツェ ペンデレツキ の新聞評 ホライゾン-4-

2006-12-23 22:30:00 | 音楽

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この前、ヘンツェとペンデレツキの自作自演の感想を書いた。

ヘンツェ ペンデレツキ 両方自作自演 ホライゾン-3- 1984.5.31

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ニューヨーク・タイムズにも翌日、評が載った。

THE NEW YORK TIMES

FRI, JUNE 1 1984

Philharmonic:

Horizons 1984 Festival

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By JOHN ROCKWELL

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ロックウェルさんの評。

水曜日のパネル(座談会)の様子と演奏会初日の様子である。

内容はこんな感じ。

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ニューヨーク・フィルハーモニックのホライゾン1984現代音楽フェスティヴァルは、水曜日の夜か昨晩かどちらかの方向に進行するかは、あなたがたがどう結論づけるかによる。

水曜日はリンカーン・センター・ライブラリーで、5人のパネリストが今年のフェスティヴァルのテーマ“ニュー・ロマンティシズム-A Broader View(新ロマン主義-より広範な見方)を明確にすべく奮闘した。

そして木曜日昨晩は、エイヴリー・フィッシャー・ホールで、演奏会初日プログラムが催された。

フィルハーモニック委嘱作曲家ジェイコブ・ドラックマンは、ホライゾン・シリーズをプログラムしただけではなく、“ニュー・ロマンティシズム”というテーマを企画した。

彼は昨年と今年の両方の説明を行い、1960年代後半における芸術音楽の発展は、感情に訴え、より身近さに、またシンプルな方向へと向かうターニング・ポイントであったと示唆した。

a broader view”により、彼はより広範囲な音楽を包含している。

ロマン主義と対照的な考えをしているかもしれない人たちのスタイルに彼のセオリーの適正さを証明した。あるいは、彼の新ロマン主義が輝いている背景を提供した。という点において。

ドラックマン氏の信念は明らかに正しいように思える。特に、彼はそれは価値の判断をすることを意味しているわけではないといっているので。

しかし、彼のアイデアは合理主義を標榜している作曲家には脅威である。

今年のプログラム・ブックでは、避けられない反論をミルトン・バビットが言っている。

バビット氏は、足首にかじりつくペリシテ人に対して激しくかき乱している。しかし、一昨日のパネルではそのような論争は慇懃に抑えられていた。

それは、昨晩の演奏会が本当の意味でのフェスティヴァルの幕開けであったことを意味していた。

結局のところ、幕開けというのはトークではなく音楽であったわけだ。

プログラムは二人の有名なヨーロッパの作曲家のものでありナイス・チョイスであった。

それはあたたかく熱狂的に聴衆を惹きつけた。また、フィルハーモニックの全能力をひきだした。

両曲とも作曲者が指揮をした。

彼らの指揮により、しばしば人をけなすフィルハーモニックの演奏者により完璧に第一級の演奏を提供した。

また、これらの音楽のように複雑で色彩的で贅沢な現代スコアに合った透明性と鮮やかさをもってすると、最高の音響が光輝くことをフィッシャー・ホールは証明した。

当日のプログラムの二つの作品というのは、ハンス・ウェルナー・ヘンツェの“トリスタン”副題“ピアノとテープとオーケストラのための前奏曲”と、クリストフ・ペンデレツキの交響曲第1番である。

両方とも録音が存在するが、ヘンツェの作品はアメリカ合衆国初演、ペンデレツキの作品はニューヨーク初演であった。

両曲とも1970年代前半に作曲された。ちょうどドラックマン氏の転換期と思われる時期のあとである。

両曲はヨーロッパ・オーケストラの高度な技量により、凝縮された新ロマン主義の精神を雄弁に語る。

45分続くヘンツェ氏の作品は真の現代の傑作の味わいがある。

この作曲家においてはいつものように、オーケストラ効果は豪華贅沢で多面性に富む。

しかし、いつもこのような方法であるとは限らない。

全ての音色は真の感動的な力の音楽的提示へと統合されていく。むしろ、映画監督のハンス・ユルゲン・ジーバーベルクと彼のドイツ・ロマン主義の瞑想的なコラージュのように、ヘンツェ氏はいろいろ混ぜ合わせる。ワーグナー、ブラームス、調性的なオーケストラ効果、ピアノ・ソロ(ここでは賞賛に値するエマニュエル・アックス)、邪魔なもの、慰めのあるもの双方のテクスチュアの中への録音されたテープ音と電気的に変換されたサウンド。

ペンデレツキ氏の半時間の交響曲はそんなに説得力のあるものではない。

彼は60年代に、激しい表現主義的な色合いの作品で実績を作った。それは滑るようなグリッサンド、そして電気音楽のエキゾチックな楽器装置の模倣。

彼の(‘広島の犠牲者の追悼のために’といった)最良の作品は、これらのサウンドを強力でドラマティックな使用に取り組ませた。

しかし、この交響曲は、説得力のある音楽的またはドラマティックな一貫性を欠いた、一連の聴覚的な時間の方向にいってしまった。

おしまい

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ということで、訳の問題点は横に置くとして、

ロックウェルさんの評ではペンデレツキの分が悪い。(河童評も同じ。)

パネル座談会は行っていないので、こんな感じだったのか。というところ。

でも、批評も含め、その時代のみんなの問題意識、芸術への共感など、共有出来るものがありそれを表現出来る場があったということは、なんて素晴らしいこと。

その幸せはその時はわからない。

あとになってはじめてわかるもの。

だから、そのとき、ささいなことと思えるようなことも、全部かみしめて、というと疲れてしまうが、少なくとも音楽だけはいつも心をこめて聴く。

つづく

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