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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

【読書感想】エンピツ戦記 - 誰も知らなかったスタジオジブリ ☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言

2017年01月24日 | 映画
 http://fujipon.hatenadiary.com/entry/20160614/p1

  舘野仁美著 平林享子構成 大橋実イラスト『エンピツ戦記 誰も知らなかったスタジオジブリ』(中央公論新社 2015年11月)。
 
 「いやほんと」。この回想録を読んだ者として、まったく同感です。例として抜き出すところも同じ。私もここを挙げる。

守本順一郎 『東洋政治思想史研究』

2017年01月24日 | 東洋史
「補論一 中国封建社会の法と思想 朱子学的自然法の特質」。

 朱子学が、社会過程の認識と自然過程のそれとを統一的に把握する、一つの自然的な思想体系であるということは、いまは一つの常識となっているであろう。 (本書275頁)

 この朱子の自然法思想であるが、ここでは、自然法則としての物理が、社会法則としての道理に従属しており、さらにこの物理でもあり道理でもある理が、人間=個に本来内在している理性=本然の性としても捉えられている。しかし、この社会法則=理性は、実は朱子学によってはじめから与えられている具体的な内容をもつものであって、それこそ五倫=五常といわれるものであり、さらにそれは、中国の特殊封建的な身分論であったのである。
 (本書275頁)

 これはつまり、理=個に本来内在している理性=本然の性=五倫五常=(自然法則を従属させた)社会法則=中国の特殊封建的な身分論ということである。 
 理性とは中国の特殊封建的な身分論なのであるか。そして、その理性が、「実は朱子学によってはじめから与えられている具体的な内容をもつもの」であるとすれば、そこに、人間がみずからの頭脳において思考する余地はないということになる。そんなものは理性とは呼べまい。少なくとも現代日本語の、あるいは現代日本語を使用しそれによって思考する現代日本人が考える“理性”とは、べつのものである。朱子は人間に限らず動物にも植物にも、万物に性が内在すると言った(『宋元学案』巻48「晦翁学案上 語要」)。つまり守本氏の主張に従えば、朱子はこの世の全ての物に理性があるといったわけであって、これはたとえばこんにちの私には了解しがたい主張である。
 さらに言えばだが、「自然法則としての物理が、社会法則としての道理に従属しており、さらにこの物理でもあり道理でもある」世界の自然はこんにちのnatureを濾過した「自然」と同じものかどうかの吟味から始めなければならぬのではないか。「自然法」であるとしても、それは何如なる「自然」の「法」か。

(未来社 1967年9月)

『ひらがな愚管抄』 第七巻

2017年01月22日 | 日本史
 http://www.geocities.jp/hgonzaemon/gukannshou7.html

 国王には、国王の振舞ひ能(よ)くせん人のよかるべきに、日本国の習ひは、国王の種姓(しゆしやう)の人ならぬ筋を国王にはすまじと、神の代より 定めたる国なり。その中には又同じくは善からんをと願ふは、又世の習ひ也。

 それに必ずしも我からの手ごみ(=手はずよく)に目出度くおはします事の難(かた)ければ、御後見(うしろみ)を用ゐて大臣(おほおみ)と云ふ臣下をな して、仰せ合はせつつ世をば行なへと定めつる也。この道理にて国王もあまりに悪ろくならせ給ひぬれば、世と人との果報に押されて、え保(たも)たせ給はぬ なり。その悪ろき国王の運の尽きさせたまうに、また様々(やうやう=さまざま)のさま(=様態)の侍るなり。


 河内洋輔『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館 2007年6月)によれば、以上のここが『愚管抄』における神国思想の核心であるという(同書11-12頁)。神々の子孫である君と臣(貴族=天皇家以外の血筋の神々の子孫)による共同統治、これが同思想の“神意”であり、“正義”であり、また、慈円の言葉に従えば「道理」(その少なくとも一部)ということになるらしい。
 また同書によれば、北畠親房の『神皇正統記』になると、たしかに天皇位には限られた血筋の者しか登れないながら、だからといって天皇となった者がみなその地位に適格である者ではかならずしもないという事実が、確認・強調されるようになる由。この適格であることがすなわち“正統”ということであり、また“神意に適う”ことであると(同書13頁)。

 『荘子』「齊物論」のいわゆる“胡蝶の夢”の部分についての私見

2017年01月21日 | 哲学
 昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也,自喻適志與!不知周也。俄然覺,則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與?周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。 (テキストは中國哲學書電子化計劃から) 

 この“胡蝶の夢”のくだりを、ウィキペディア同項は、「万物は絶えざる変化を遂げるが、その実、本質においては何ら変わりのないことを述べているのである」と、解しているけれども、どうだろう。
 「人間の精神と認識と知恵は有限だから、最初からわかるはずがないものを一所懸命ことわけて考えてみてもしかたがない」という意味なのではないかと、私は一読以来、思っている。どちらも自分であること、それだけは確かだ、ならばそれでよいではないかと。
 さらに個人的な印象を述べると、おそらく分析的に考え言挙げしようと思えばおそろしいほどにできるはずの男がそう言うところに、却っての重みと凄みがあると感じる。

廣雅疏證 中國哲學書電子化計劃維基

2017年01月21日 | 人文科学
 http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=612641

 読中のメモ。『爾雅』に倣いなおかつそれを補うという目的で著された以上、体裁もそれに倣うのは当然で、ゆえに「古旨先創方作造朔萌芽本根葉置輩昌孟鼻業始也」と、日本語でいえば「(諸書に見える)~~~~は(すべて)始(の意味)である」というかたちを取るのは当然であるが、結局『爾雅』で抱いた疑問には、張揖も王念孫もいまのところ答えてくれてはいない。王引之の執筆部分はまだまったく読んでいない。

コロナ・ブックス編集部編 『日本の笑い 遊び、洒落、風刺の日本美術』

2017年01月21日 | 芸術
 出版社による紹介

 絵的に(対象のとらえ方、デッサン、描法が)未来へ突き抜けていて、時代のほうがあとから追いついた感のあるのは、ひとり耳鳥斎だけではない。義梵・広重もまた。北斎は時代における天才であるようだ。大津絵は先端が時代(一般)と折れ合った姿か。蕪村はそもそも時代が眼中になさそうな。若冲と破笠は無時代というかすこしおかしいのでは。それぞれ瞥見の印象。

(平凡社 2011年12月)