『中国阿拉伯語教育史綱』と同じく、やはり紀元前1世紀の『史記』にある条支うんぬんから話が始まる。イスラム教は紀元後7世紀にならないと出現しないというのに。そのうえ唐代のまだイスラム化前のアラブ人やペルシア人商人(蕃客)のことまで持ち出す。彼らと回族と何の関係があるのか。馬鹿さ加減も極まれりというべし。
ただ、経堂語が、元明時代の古い漢語を文法・語彙において基本としつつ、同時にアラビア語・ペルシア語の語彙(その他仏教および道教の術語の訳を含む――二語であればなぜか前後の語順が転倒している例がままある――)を大量に交えた、一般の漢語とは異なる独特の言語であることを詳しく具体的に説明してあることには、おおいに学んだことも認める。
(中国 寧夏人民出版社 1994年4月)
ただ、経堂語が、元明時代の古い漢語を文法・語彙において基本としつつ、同時にアラビア語・ペルシア語の語彙(その他仏教および道教の術語の訳を含む――二語であればなぜか前後の語順が転倒している例がままある――)を大量に交えた、一般の漢語とは異なる独特の言語であることを詳しく具体的に説明してあることには、おおいに学んだことも認める。
(中国 寧夏人民出版社 1994年4月)
中西竜也「第6章 清代の中国ムスリムにおけるペルシア語文化受容」(175-203頁)。
当時の中国ムスリム(回民・漢装回・漢回、現在の回族)においては、ペルシア語文化の影響はもちろん存在したが、ペルシア語は書写語としての地位を確立できなかったという。その理由は、先ず第一にペルシア語を単語や断片的な句ではなく言語として読解することのできる人間の数が非常に少なかったこと(アラビア語のそれも少なかった)、そしてアラビア語はそれでも彼らの経堂(イスラーム教育施設)において教材として用いられる需要と権威があったが、それがペルシア語にはなかったことであると、著者は指摘する。
中国ムスリムにおいては、外国人ムスリムの流入・定住が減少する明の中葉以降、漢化(言語においては漢語化)が進み、明末に再度のイスラーム化が起こるが、この際、それ以前には威信において差のなかったこれら二つの言語が、アラビア語優勢へと変化した由。
興味深いことに、却って彼らの漢語がペルシア語の影響をうけて、主として語彙レベルにおいてだが、「ペルシア語的漢語」ともよぶべき一種独特な言語(漢語の一方言といえるのか?)を形成していたらしい。
なお、中国ムスリムのなかで、アラビア語やペルシア語を読み書きできた、僅かであったというそのこれら二言語の修得者たちの、アラビア語・ペルシア語の言語としての水準(文法的正確性)や、独自性(彼らにだけ見られる文法的あるいは修辞的特徴)については、言及がない。
(北海道大学出版会 2009年6月)
当時の中国ムスリム(回民・漢装回・漢回、現在の回族)においては、ペルシア語文化の影響はもちろん存在したが、ペルシア語は書写語としての地位を確立できなかったという。その理由は、先ず第一にペルシア語を単語や断片的な句ではなく言語として読解することのできる人間の数が非常に少なかったこと(アラビア語のそれも少なかった)、そしてアラビア語はそれでも彼らの経堂(イスラーム教育施設)において教材として用いられる需要と権威があったが、それがペルシア語にはなかったことであると、著者は指摘する。
中国ムスリムにおいては、外国人ムスリムの流入・定住が減少する明の中葉以降、漢化(言語においては漢語化)が進み、明末に再度のイスラーム化が起こるが、この際、それ以前には威信において差のなかったこれら二つの言語が、アラビア語優勢へと変化した由。
興味深いことに、却って彼らの漢語がペルシア語の影響をうけて、主として語彙レベルにおいてだが、「ペルシア語的漢語」ともよぶべき一種独特な言語(漢語の一方言といえるのか?)を形成していたらしい。
なお、中国ムスリムのなかで、アラビア語やペルシア語を読み書きできた、僅かであったというそのこれら二言語の修得者たちの、アラビア語・ペルシア語の言語としての水準(文法的正確性)や、独自性(彼らにだけ見られる文法的あるいは修辞的特徴)については、言及がない。
(北海道大学出版会 2009年6月)
再読して、回族の民族認定が若干特殊視されていることにあらためて気が付く(中見「序章」本書29頁)。そして漢族についても理由は違えど、同様の疑問が呈されている、「ひとつの『民族』としてとらえうるものなのか、その根拠は判然としない」(同上)と。どちらも「中国における『民族』の概念と範囲」の「独特さ」の例として引かれる。
(山川出版社 2002年4月)
(山川出版社 2002年4月)
長いばかりでくだらない。読むのに青息吐息となった。1921年以前に 'pre-national' identity が後に「ウイグル人」と呼ばれる人々の間にあったと主張するのだが、「なかった」とは誰も言っていない。あったのは確かだが、その程度と具体的な有り様がどうであったかが、問題なのだ。問題設定からしてずれている。もとがおかしいから、あとはいくら綿密に論を組み立て先行研究を丹念にひっぱってこようと、むしろそうであればあるほど、読む側はなぜ随いてゆかねばならないのかが分からず、苦痛になるだけだ。
この論文には、'pre-national' identity の例証となりえる事例については多々挙げているが、肝心の'pre-national' identityについての定義がないから、挙げられるおびただしい事例を評価できない。西トルキスタンに逃れたタランチとトゥンガン(回族)と、それから東トルキスタンのカシュガルリク(カシュガル住民)にはあったというのだが、ではそれは裏を返せばそれ以外の新疆(天山山脈の南と北)地域には、なかったということである。これを「そんなにあった」と肯定的に捉えるのか、それとも「それだけしかなかった」と否定的に捉えるのか。評価の座標軸が示されないから、当然評価もされない。それでは読む方は途方にくれる。
それだけではない。そもそも本文にセルゲイ・マローフの名が出ず、「ウイグル」の語が選ばれた理由についても触れず、文献目録に日本人の研究が一つも見えないというのはどういうことだろう。
しかしながら、少なくとも私にとっては、文献目録は辛うじて役に立った。1921年タシュケント会議についての関係研究(論文および著作)を知ることができたからだ。それ以外はいまのところ、どうしようもないという感想しか持たない。
(Central Asian Survey, vol. 28-1, 2009)
この論文には、'pre-national' identity の例証となりえる事例については多々挙げているが、肝心の'pre-national' identityについての定義がないから、挙げられるおびただしい事例を評価できない。西トルキスタンに逃れたタランチとトゥンガン(回族)と、それから東トルキスタンのカシュガルリク(カシュガル住民)にはあったというのだが、ではそれは裏を返せばそれ以外の新疆(天山山脈の南と北)地域には、なかったということである。これを「そんなにあった」と肯定的に捉えるのか、それとも「それだけしかなかった」と否定的に捉えるのか。評価の座標軸が示されないから、当然評価もされない。それでは読む方は途方にくれる。
それだけではない。そもそも本文にセルゲイ・マローフの名が出ず、「ウイグル」の語が選ばれた理由についても触れず、文献目録に日本人の研究が一つも見えないというのはどういうことだろう。
しかしながら、少なくとも私にとっては、文献目録は辛うじて役に立った。1921年タシュケント会議についての関係研究(論文および著作)を知ることができたからだ。それ以外はいまのところ、どうしようもないという感想しか持たない。
(Central Asian Survey, vol. 28-1, 2009)
「講座イスラーム世界」の3。
なんか凄い題だなと驚く 。
松田孝一氏の「モンゴル時代中国におけるイスラームの拡大」を読む。湖南省楓樹ウイグル族回族郷の、元代のウイグル人(高昌ウイグル)の子孫たちと、彼らの元代における動静について何か言及はあるかと思って見てみたが、ない。元代にはイスラームではなかったからというのがいまのところもっとも合理的な説明ではないかと思える。
(栄光教育文化研究所 1995年2月)
なんか凄い題だなと驚く 。
松田孝一氏の「モンゴル時代中国におけるイスラームの拡大」を読む。湖南省楓樹ウイグル族回族郷の、元代のウイグル人(高昌ウイグル)の子孫たちと、彼らの元代における動静について何か言及はあるかと思って見てみたが、ない。元代にはイスラームではなかったからというのがいまのところもっとも合理的な説明ではないかと思える。
(栄光教育文化研究所 1995年2月)
〈http://www.oklink.net/mjfc/zhangcengzhi/xinlingshi/index.html〉
梅村坦編訳『殉教の中国イスラム-神秘主義教団ジャフリーヤの歴史』(亜紀書房 1993年10月)の原書(1991年出版)。イスラム教ジャフリーヤ派と同派を信仰する回族の歴史。
「心霊史」とは心すなわち信仰の歴史、そして著者は最初にはっきり、論理的分析も理性的な判断も有害無益と宣言している。だから拝聴するしか手がない。著者は、自分たちの側の言い伝えと史料(『ラシュフ』)のみが正しく、それ以外の来源の客観史料(例えば体制[清王朝]側の『欽定石峰堡記略』)は都合のいいところは採り、そうでないところは採らない。その態度は終始一貫している。
ちなみにいま「ウィキペディア」の中国語版で「心灵史」を見てみたら、ずばり「小説」と書かれていた。
梅村坦編訳『殉教の中国イスラム-神秘主義教団ジャフリーヤの歴史』(亜紀書房 1993年10月)の原書(1991年出版)。イスラム教ジャフリーヤ派と同派を信仰する回族の歴史。
「心霊史」とは心すなわち信仰の歴史、そして著者は最初にはっきり、論理的分析も理性的な判断も有害無益と宣言している。だから拝聴するしか手がない。著者は、自分たちの側の言い伝えと史料(『ラシュフ』)のみが正しく、それ以外の来源の客観史料(例えば体制[清王朝]側の『欽定石峰堡記略』)は都合のいいところは採り、そうでないところは採らない。その態度は終始一貫している。
ちなみにいま「ウィキペディア」の中国語版で「心灵史」を見てみたら、ずばり「小説」と書かれていた。
(承前)
▲「百度百科」「枫树乡(楓樹郷)」項
〈http://baike.baidu.com/view/1841720.htm〉
ここには、同郷には清真寺(イスラム寺院)があるとなっている。それも洪武帝の勅願にかかるものだそうだ。きわどいところだが、ここへやってきた頃の彼らは、まだ仏教徒ではなかったろうか。
もともとマニ教・仏教を信仰していた西ウイグル王国のウイグルがいまはイスラム教徒になっているということだろうか。
関連部分の原文。
清真寺
走进枫树乡清真寺院门,菊花盛开,使整座古寺沐浴在浓郁的清香之中。“大明镇南定国将军哈勒·八士合葬之墓”耸峙在院内右方,给人一种肃穆、安详的气氛。墓体由青石砌筑而成,长2.32米、宽1.25米、高2米的方形石台,红漆“塔埠”顶立玉碑;墓体右侧为墓主生平介绍,镶于墓身之中,左侧刻有“桃源县人民政府重点文物保护单位”等字样。手抚墓前朱元璋御笔钦赐的“威震南方”石碑,凭吊之情油然而生。
清真寺旁是明太祖敕建的“荐楼”、“镇南堂”、“忠勇坊”等。荐楼,取颂扬祖之意。雕梁画栋、刻桷丹楹,中置一位龙凤幡绕之武将,并供奉诏敕,珍藏赐品,陈列甲胃,韬藏弓矢。睹物兴怀,令人想到翦氏先祖镇南平蛮、剿寇灭巫之伟绩。镇南堂是湖南维吾尔族唯一的宗祠,洪武二十二年秋,朱元璋御笔钦赐“威震南方”的金匾悬挂在镇南堂上,以示纪念。
清真寺的前身是最早修筑的“镇南经殿”。据《湖南通志》、《翦氏族谱》载,洪武二十六年,凉国公蓝玉被诛杀前重涉翦旗营,是时讲经殿已筑,距枫树口(哈勒始祖当年在此遍植枫树,由此得名)正西550步处;明成祖十年改为镇南经殿,康熙二十年重修改为清真西寺,民国五年(1915年)翦山胜重修时又更名为清真寺,1966年被拆除。1988年经国务院宗教局、湖南省宗教局批准、赞助,占地3800平方米的清真寺经5年苦心修建,于1993年落成。是年6月,经常市政府批准,由桃源县政府组织实施,将哈勒·八士墓与碑迁往枫树乡清真寺内。
仰望清真寺气势雄伟,造型古朴,寺顶呈圆弧形,上塑一轮弯月,具有浓郁的新疆和阿拉伯清真寺建筑风格。走过花径的尽头,即为教长室、殡仪馆、沐浴室和大殿等建筑,殿顶勾画着精美别致的花卉图案,殿内宽敞明亮,每天可同时容纳200多人礼拜。湖南维族穆斯林信奉伊斯兰教,至今仍然保持着浓郁的宗教色彩和民族特点。宰牲时,必请阿訇或大师父操刀,否则决不食用。每年在清真寺过古尔邦节和开斋节。
原文では、この郷のウイグル族はイスラム教を信仰すると書いてあるのみである。
この文面を注意深く読んでみると、だんだんそのおかしさに気が付いてくる。
洪武帝が建てたという建物は“荐徳楼”“忠勇坊”“鎮南堂”などという名で、どうもイスラム教に関係するものではなさそうである。それらの名称はかえって儒教的・伝統中国的でさえある。もしかしてこれらは単なる平定の記念碑的な建造物ではなかったか。“鎮南堂”など、まさにそのにおいが濃い。さらにいえば、鎮南堂に洪武帝がたまわったという扁額も、「威震南方(威は南方を震わす)」という字面で、ますますその疑いを強くする。そもそもこれら一連の建物は、もともとは「鎮南経殿」という名称で、ここがイスラム寺院に改築されて清真寺(清真西寺)と呼ばれるようになったのはさらに時代を下った清朝時代、康煕帝の時代(17世紀末)だという。つまり彼ら西ウイグル王国の末裔たちは、当初はイスラム教徒ではなかったのであろう。なかにはいたかもしれないが。
この宗教の変化は、彼らがここへ移り住んできてからも先祖の土地たる新疆東部(ウイグリスタン)との交流が続いていたことによるものか。それともこれはこの地で近接して住む回族の影響であったのか。また彼らの元来の言語は(まだ生きているというが)、現在の新疆ウイグル自治区において使われるウイグル語と比べてどれくらいの差異があるのか。
博雅の士の教えを請う。
▲「百度百科」「枫树乡(楓樹郷)」項
〈http://baike.baidu.com/view/1841720.htm〉
ここには、同郷には清真寺(イスラム寺院)があるとなっている。それも洪武帝の勅願にかかるものだそうだ。きわどいところだが、ここへやってきた頃の彼らは、まだ仏教徒ではなかったろうか。
もともとマニ教・仏教を信仰していた西ウイグル王国のウイグルがいまはイスラム教徒になっているということだろうか。
関連部分の原文。
清真寺
走进枫树乡清真寺院门,菊花盛开,使整座古寺沐浴在浓郁的清香之中。“大明镇南定国将军哈勒·八士合葬之墓”耸峙在院内右方,给人一种肃穆、安详的气氛。墓体由青石砌筑而成,长2.32米、宽1.25米、高2米的方形石台,红漆“塔埠”顶立玉碑;墓体右侧为墓主生平介绍,镶于墓身之中,左侧刻有“桃源县人民政府重点文物保护单位”等字样。手抚墓前朱元璋御笔钦赐的“威震南方”石碑,凭吊之情油然而生。
清真寺旁是明太祖敕建的“荐楼”、“镇南堂”、“忠勇坊”等。荐楼,取颂扬祖之意。雕梁画栋、刻桷丹楹,中置一位龙凤幡绕之武将,并供奉诏敕,珍藏赐品,陈列甲胃,韬藏弓矢。睹物兴怀,令人想到翦氏先祖镇南平蛮、剿寇灭巫之伟绩。镇南堂是湖南维吾尔族唯一的宗祠,洪武二十二年秋,朱元璋御笔钦赐“威震南方”的金匾悬挂在镇南堂上,以示纪念。
清真寺的前身是最早修筑的“镇南经殿”。据《湖南通志》、《翦氏族谱》载,洪武二十六年,凉国公蓝玉被诛杀前重涉翦旗营,是时讲经殿已筑,距枫树口(哈勒始祖当年在此遍植枫树,由此得名)正西550步处;明成祖十年改为镇南经殿,康熙二十年重修改为清真西寺,民国五年(1915年)翦山胜重修时又更名为清真寺,1966年被拆除。1988年经国务院宗教局、湖南省宗教局批准、赞助,占地3800平方米的清真寺经5年苦心修建,于1993年落成。是年6月,经常市政府批准,由桃源县政府组织实施,将哈勒·八士墓与碑迁往枫树乡清真寺内。
仰望清真寺气势雄伟,造型古朴,寺顶呈圆弧形,上塑一轮弯月,具有浓郁的新疆和阿拉伯清真寺建筑风格。走过花径的尽头,即为教长室、殡仪馆、沐浴室和大殿等建筑,殿顶勾画着精美别致的花卉图案,殿内宽敞明亮,每天可同时容纳200多人礼拜。湖南维族穆斯林信奉伊斯兰教,至今仍然保持着浓郁的宗教色彩和民族特点。宰牲时,必请阿訇或大师父操刀,否则决不食用。每年在清真寺过古尔邦节和开斋节。
原文では、この郷のウイグル族はイスラム教を信仰すると書いてあるのみである。
この文面を注意深く読んでみると、だんだんそのおかしさに気が付いてくる。
洪武帝が建てたという建物は“荐徳楼”“忠勇坊”“鎮南堂”などという名で、どうもイスラム教に関係するものではなさそうである。それらの名称はかえって儒教的・伝統中国的でさえある。もしかしてこれらは単なる平定の記念碑的な建造物ではなかったか。“鎮南堂”など、まさにそのにおいが濃い。さらにいえば、鎮南堂に洪武帝がたまわったという扁額も、「威震南方(威は南方を震わす)」という字面で、ますますその疑いを強くする。そもそもこれら一連の建物は、もともとは「鎮南経殿」という名称で、ここがイスラム寺院に改築されて清真寺(清真西寺)と呼ばれるようになったのはさらに時代を下った清朝時代、康煕帝の時代(17世紀末)だという。つまり彼ら西ウイグル王国の末裔たちは、当初はイスラム教徒ではなかったのであろう。なかにはいたかもしれないが。
この宗教の変化は、彼らがここへ移り住んできてからも先祖の土地たる新疆東部(ウイグリスタン)との交流が続いていたことによるものか。それともこれはこの地で近接して住む回族の影響であったのか。また彼らの元来の言語は(まだ生きているというが)、現在の新疆ウイグル自治区において使われるウイグル語と比べてどれくらいの差異があるのか。
博雅の士の教えを請う。
そういえば史学者の翦伯賛(1898-1968)も湖南省人だが、ウイグル族だった。不思議に堪えず、調べてみる。
▲「维基百科」「翦伯赞」項
〈http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%A6%E4%BC%AF%E8%B5%9E〉
当たり。翦の原籍は“湖南省桃源县枫树乡回维村”だそうな。湖南省にウイグル族の自治村があるらしい。
こんどはこれを調べてみる。ところがこの名では出てこない。なにぶん100年以上経っているため、行政区画等編成換えがあったかもしれぬ。「湖南省」で調べてみる。
▲「维基百科」「湖南省」項
〈http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%96%E5%8D%97%E7%9C%81#.E6.B0.91.E6.97.8F〉
本文ではとくに言及なく、末尾の行政区画表で「桃源县(桃源県)」を探してクリック。たしかに「楓樹維吾爾族回族鄉」の名は出たが下部の村名のみ。
「百度百科」のほうで「楓樹維吾爾族回族鄉」を入力してみることにする。
▲「百度百科」「枫树维吾尔族回族乡(楓樹ウイグル族回族郷)」項
〈http://baike.baidu.com/view/2456314.htm〉
あった。明朝初期(14世紀)に太祖洪武帝の命令によってこの地方を平定すべく派遣されてきたウイグル人軍団の末裔らしい。その彼らは、元の時代(13世紀)にチンギス・ハーンの支配下に入った、もとはといえばトルファンやハミ出身者で高昌ウイグル王国(天山ウイグル王国・西ウイグル王国)に属していた人々の子孫であったという。彼らはここに陣地を構え、四方に出撃して抵抗勢力を見事殲滅(翦除)した。彼らの武功を嘉みした洪武帝がその指揮官にそれに因んで“翦”の姓を下賜した由。
ということは、彼らは遊牧ウイグルの子孫であって、現在のウイグル人とは系統(宗教的、民族的また言語的にも)が異なるはずだが。
以下は関係箇所の全文。
是除新疆外最大的维吾尔族群聚地,素有“维吾尔族第二故乡”之称,著名的历史学家、马克思主义者翦伯赞就出生在我乡回维村。 据大量史料记载:湖南维吾尔族的祖籍不在桃源,亦不在湘楚之地,而是元朝时期在我国西域高昌王国的统地,即现在新疆的吐鲁番、哈密,属高昌王国的一个望族。公元1227年,成吉思汗统帅下的一支伊斯兰军将领哈勒,曾任高昌王国兵马大都督,尔后率军攻灭西夏,进入了现在的甘肃、宁夏一带,他的后裔也因此一直在元朝为官。
公元14世纪中叶,元灭明兴。洪武初年,明太祖朱元璋为了维护国家的统一,平定南方叛乱,巩固其统治地位,起用了哈勒的后裔、时任燕京总兵的哈勒·八十为大都督,率众将南征,进入湘楚之地。因哈勒·八十“翦除敌对势力有功”,被明太祖朱元璋晋封为“镇南定国将军”,加封“太子太保”衔;赐其姓“翦”,更其名“八十”为“八士”。命其镇守湖、广、云、贵一带,翦八士驻兵桃源枫树,设立大本营,称为“哈旗营”。
洪武二十二年(公元1389年),八士因平定南方终于疆场,其子拜著继其父职,先后出征湖、广、云、贵等地,屡建奇功,不幸死于云南战场,与父敕葬在常东关外黄龙岗(后迁桃源枫树翦家岗)。拜著长子常蒲不愿为官,辞职北归新疆,明永乐元年(公元1403年),明成祖朱棣晋封次子常黎为常卫正指挥使,诰授中宪大夫。朱洪武念哈勒父子平定叛乱有功,降诏在湖南桃源枫树翦旗营(今桃源县枫树维吾尔族回族乡回维村)敕建的“忠勇坊”、“荐楼”、“镇南堂”、“讲经殿”均于永乐元年完工。朱元璋御笔亲赐“威震南方”金匾悬挂镇南堂以示嘉奖和纪念。从此其后裔所率领的伊斯兰军队都在常、桃源一带落籍定居,或力田为农,或服贾为商,或读书为仕,或披甲为戎,至今已繁衍到26代,8000多人。
湖南维吾尔族定居常、桃源一带,已经有600多年的历史了,其间有过繁荣、兴旺,也有过曲折、艰辛。
▲「维基百科」「翦伯赞」項
〈http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%A6%E4%BC%AF%E8%B5%9E〉
当たり。翦の原籍は“湖南省桃源县枫树乡回维村”だそうな。湖南省にウイグル族の自治村があるらしい。
こんどはこれを調べてみる。ところがこの名では出てこない。なにぶん100年以上経っているため、行政区画等編成換えがあったかもしれぬ。「湖南省」で調べてみる。
▲「维基百科」「湖南省」項
〈http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%96%E5%8D%97%E7%9C%81#.E6.B0.91.E6.97.8F〉
本文ではとくに言及なく、末尾の行政区画表で「桃源县(桃源県)」を探してクリック。たしかに「楓樹維吾爾族回族鄉」の名は出たが下部の村名のみ。
「百度百科」のほうで「楓樹維吾爾族回族鄉」を入力してみることにする。
▲「百度百科」「枫树维吾尔族回族乡(楓樹ウイグル族回族郷)」項
〈http://baike.baidu.com/view/2456314.htm〉
あった。明朝初期(14世紀)に太祖洪武帝の命令によってこの地方を平定すべく派遣されてきたウイグル人軍団の末裔らしい。その彼らは、元の時代(13世紀)にチンギス・ハーンの支配下に入った、もとはといえばトルファンやハミ出身者で高昌ウイグル王国(天山ウイグル王国・西ウイグル王国)に属していた人々の子孫であったという。彼らはここに陣地を構え、四方に出撃して抵抗勢力を見事殲滅(翦除)した。彼らの武功を嘉みした洪武帝がその指揮官にそれに因んで“翦”の姓を下賜した由。
ということは、彼らは遊牧ウイグルの子孫であって、現在のウイグル人とは系統(宗教的、民族的また言語的にも)が異なるはずだが。
以下は関係箇所の全文。
是除新疆外最大的维吾尔族群聚地,素有“维吾尔族第二故乡”之称,著名的历史学家、马克思主义者翦伯赞就出生在我乡回维村。 据大量史料记载:湖南维吾尔族的祖籍不在桃源,亦不在湘楚之地,而是元朝时期在我国西域高昌王国的统地,即现在新疆的吐鲁番、哈密,属高昌王国的一个望族。公元1227年,成吉思汗统帅下的一支伊斯兰军将领哈勒,曾任高昌王国兵马大都督,尔后率军攻灭西夏,进入了现在的甘肃、宁夏一带,他的后裔也因此一直在元朝为官。
公元14世纪中叶,元灭明兴。洪武初年,明太祖朱元璋为了维护国家的统一,平定南方叛乱,巩固其统治地位,起用了哈勒的后裔、时任燕京总兵的哈勒·八十为大都督,率众将南征,进入湘楚之地。因哈勒·八十“翦除敌对势力有功”,被明太祖朱元璋晋封为“镇南定国将军”,加封“太子太保”衔;赐其姓“翦”,更其名“八十”为“八士”。命其镇守湖、广、云、贵一带,翦八士驻兵桃源枫树,设立大本营,称为“哈旗营”。
洪武二十二年(公元1389年),八士因平定南方终于疆场,其子拜著继其父职,先后出征湖、广、云、贵等地,屡建奇功,不幸死于云南战场,与父敕葬在常东关外黄龙岗(后迁桃源枫树翦家岗)。拜著长子常蒲不愿为官,辞职北归新疆,明永乐元年(公元1403年),明成祖朱棣晋封次子常黎为常卫正指挥使,诰授中宪大夫。朱洪武念哈勒父子平定叛乱有功,降诏在湖南桃源枫树翦旗营(今桃源县枫树维吾尔族回族乡回维村)敕建的“忠勇坊”、“荐楼”、“镇南堂”、“讲经殿”均于永乐元年完工。朱元璋御笔亲赐“威震南方”金匾悬挂镇南堂以示嘉奖和纪念。从此其后裔所率领的伊斯兰军队都在常、桃源一带落籍定居,或力田为农,或服贾为商,或读书为仕,或披甲为戎,至今已繁衍到26代,8000多人。
湖南维吾尔族定居常、桃源一带,已经有600多年的历史了,其间有过繁荣、兴旺,也有过曲折、艰辛。
▲「レコードチャイナ」2011-11-02 13:11:33、翻訳・編集/内山。
〈http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=55646〉
山西省に行ったことはあるが、真夏(8月)だったから、干し柿は残念ながら食べる機会を得なかった。かわりにトマトを食べた。そのトマトを洗った、表面に点々と付着していた水のせいか、すさまじい下痢をした。それで得た教訓は、こぎれいな食堂でも、食器や食材がちゃんと洗ってあっても、洗ったその水が悪ければ――あるいはその土地の水であれば――、慣れぬ旅行者は当たるということだった。そののち山東省の山中にある回族の一膳飯屋さんでも当たったが、これは出された料理(餃子)がすでに少々いかれていたのだった(口に入れた瞬間にやられたとわかった。ただしご馳走してくれた人物の面子をおもんばかってすべて食べた)。たぶん暑かったせいだろう。しかしこれとて同行のガイドさんや運転手さんは平気だったから、やはりこれは土地になれぬ旅人ゆえのことだろうと思う。いうなればこちらが悪いのである。あるいは外国を訪れる際の当然の洗礼というべきなのもしれない。そうならないほうが不思議という。
〈http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=55646〉
山西省に行ったことはあるが、真夏(8月)だったから、干し柿は残念ながら食べる機会を得なかった。かわりにトマトを食べた。そのトマトを洗った、表面に点々と付着していた水のせいか、すさまじい下痢をした。それで得た教訓は、こぎれいな食堂でも、食器や食材がちゃんと洗ってあっても、洗ったその水が悪ければ――あるいはその土地の水であれば――、慣れぬ旅行者は当たるということだった。そののち山東省の山中にある回族の一膳飯屋さんでも当たったが、これは出された料理(餃子)がすでに少々いかれていたのだった(口に入れた瞬間にやられたとわかった。ただしご馳走してくれた人物の面子をおもんばかってすべて食べた)。たぶん暑かったせいだろう。しかしこれとて同行のガイドさんや運転手さんは平気だったから、やはりこれは土地になれぬ旅人ゆえのことだろうと思う。いうなればこちらが悪いのである。あるいは外国を訪れる際の当然の洗礼というべきなのもしれない。そうならないほうが不思議という。