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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

守本順一郎 『東洋政治思想史研究』

2017年01月24日 | 東洋史
「補論一 中国封建社会の法と思想 朱子学的自然法の特質」。

 朱子学が、社会過程の認識と自然過程のそれとを統一的に把握する、一つの自然的な思想体系であるということは、いまは一つの常識となっているであろう。 (本書275頁)

 この朱子の自然法思想であるが、ここでは、自然法則としての物理が、社会法則としての道理に従属しており、さらにこの物理でもあり道理でもある理が、人間=個に本来内在している理性=本然の性としても捉えられている。しかし、この社会法則=理性は、実は朱子学によってはじめから与えられている具体的な内容をもつものであって、それこそ五倫=五常といわれるものであり、さらにそれは、中国の特殊封建的な身分論であったのである。
 (本書275頁)

 これはつまり、理=個に本来内在している理性=本然の性=五倫五常=(自然法則を従属させた)社会法則=中国の特殊封建的な身分論ということである。 
 理性とは中国の特殊封建的な身分論なのであるか。そして、その理性が、「実は朱子学によってはじめから与えられている具体的な内容をもつもの」であるとすれば、そこに、人間がみずからの頭脳において思考する余地はないということになる。そんなものは理性とは呼べまい。少なくとも現代日本語の、あるいは現代日本語を使用しそれによって思考する現代日本人が考える“理性”とは、べつのものである。朱子は人間に限らず動物にも植物にも、万物に性が内在すると言った(『宋元学案』巻48「晦翁学案上 語要」)。つまり守本氏の主張に従えば、朱子はこの世の全ての物に理性があるといったわけであって、これはたとえばこんにちの私には了解しがたい主張である。
 さらに言えばだが、「自然法則としての物理が、社会法則としての道理に従属しており、さらにこの物理でもあり道理でもある」世界の自然はこんにちのnatureを濾過した「自然」と同じものかどうかの吟味から始めなければならぬのではないか。「自然法」であるとしても、それは何如なる「自然」の「法」か。

(未来社 1967年9月)

大井玄 『呆けたカントに『理性』はあるか」 より

2015年11月01日 | 抜き書き
 人類と並んで畜類も思惟および理知(reason)を賦与されていることはもっとも明白な真理である。 (ヒューム『人性論(動物の理知について)』大槻春彦訳)
 ※本書103頁に引かれる。朱子が某人の問いに答えた内容に似ている。

  植物には知はないがそれ以外の動く物(動物)にはあるか。
  万物には性が内在するから、動物はむろん有り、植物にも有る。
  『宋元学案』巻四十八「晦翁学案上 語要」

 言い換えれば、ヒュームは人間も動物も自然の一部であると考えていました。承前)神から人間だけが特別扱いされているとは考えなかった。 (本書103頁)

 彼〔ヒューム〕の考察によれば、『理性』と呼ばれる機能は、ある時間と空間とにおいて、その動物が知覚する対象を判断し、適切な行動を選択する能力にすぎません。〔略〕彼の「理性」についての解釈は、現在の進化生物学、遺伝学、動物行動学、比較認知科学などがそろって支持するものです。
 (本書104頁)

 恥ずかしい、きまり悪いといった社会的情動が理性をコントロールしているからこそ、社会における生存に有利な意思決定と行動ができるわけです。
 (本書135頁)

 理性は、情念の奴隷であり、且つただ奴隷であるべきである。 (ヒューム『人性論』大槻春彦訳、大井前掲書190頁の注61で引用)

(新潮社 2015年5月)

『宋元学案』  巻四十八 「晦翁学案上 語要」

2015年05月10日 | 東洋史
 前項より続き。
 朱熹は、某人の「植物には知はないがそれ以外の動く物(動物)にはあるか」という問いに、「万物には性が内在するから、動物はむろん有り、植物にも有る」と答えている。黄百家はこの個所に注を施して、「西洋人は万物を人間・動物・植物の三種に分け、人間のみ霊魂を有し、動物には本能知覚があり、植物は生命力があるだけとしている。じつに妥当な見解である(頗諦當)」と記している。第2冊(下参照)、1521頁。

(中華書局版 全4冊 1986年12月)