「補論一 中国封建社会の法と思想 朱子学的自然法の特質」。
朱子学が、社会過程の認識と自然過程のそれとを統一的に把握する、一つの自然的な思想体系であるということは、いまは一つの常識となっているであろう。 (本書275頁)
この朱子の自然法思想であるが、ここでは、自然法則としての物理が、社会法則としての道理に従属しており、さらにこの物理でもあり道理でもある理が、人間=個に本来内在している理性=本然の性としても捉えられている。しかし、この社会法則=理性は、実は朱子学によってはじめから与えられている具体的な内容をもつものであって、それこそ五倫=五常といわれるものであり、さらにそれは、中国の特殊封建的な身分論であったのである。 (本書275頁)
これはつまり、理=個に本来内在している理性=本然の性=五倫五常=(自然法則を従属させた)社会法則=中国の特殊封建的な身分論ということである。
理性とは中国の特殊封建的な身分論なのであるか。そして、その理性が、「実は朱子学によってはじめから与えられている具体的な内容をもつもの」であるとすれば、そこに、人間がみずからの頭脳において思考する余地はないということになる。そんなものは理性とは呼べまい。少なくとも現代日本語の、あるいは現代日本語を使用しそれによって思考する現代日本人が考える“理性”とは、べつのものである。
朱子は人間に限らず動物にも植物にも、万物に性が内在すると言った(『宋元学案』巻48「晦翁学案上 語要」)。つまり守本氏の主張に従えば、朱子はこの世の全ての物に理性があるといったわけであって、これはたとえばこんにちの私には了解しがたい主張である。
さらに言えばだが、「自然法則としての物理が、社会法則としての道理に従属しており、さらにこの物理でもあり道理でもある」世界の自然はこんにちのnatureを濾過した「自然」と同じものかどうかの吟味から始めなければならぬのではないか。「自然法」であるとしても、それは何如なる「自然」の「法」か。
(未来社 1967年9月)