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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

イブン・イスハーク著 嶋田襄平訳 「マホメット伝」

2017年01月24日 | 哲学
 『筑摩世界文学大系』9「インド アラビア ペルシア集」(筑摩書房 1974年3月)所収、同書205-249頁。

 冒頭すぐ、「そなたはこの民族の支配者を身ごもった」(206頁)というくだりがでてきて、翻訳というもののもつ難しさときわどさというものをあらためて感じた。現代日本語で言う“民族”とまったく同じものがその昔のかの地にあったはずはなし、それしか当つべき訳語がないとしても、アラビア語の原語彙は、何をどう指すことばだったのか。

孫遜/鄭克孟等主編 『越南漢文小説集成』 巻14

2017年01月24日 | 地域研究
 収録作品
 野史  野史補遺  

 「提要」によれば1893年頃の成立。13巻と同様(むしろ時間的にはやや先行する)、仏領インドシナ時代(1883開始)の作品である。当巻所収の2作には、当時の新聞類に発表された複数の著者の手になるところの時事的話題を取り扱った文言文、いわゆる時文が分量・割合的に多く含まれる。そのせいもあるのだろう、前巻以上に新しい漢語が多い。「電信」「電気」「皇帝」「泰西」「欧洲」「欧羅巴」「法国」「地中海」「亜洲」「地球」「旧金山」「華盛頓」「維新」「変法」「推挙之法」「病院」「軽気球」「気燈」等。
 ただ時文への変容は語彙レベルに止まり、表現と文構造は固く伝統的文言文のそれを守っている。清末四大譴責小説康有為「上摂政王書」を思い出しつつ。

(上海古籍出版社 2012年10月)

孫遜/鄭克孟等主編 『越南漢文小説集成』 巻13

2017年01月24日 | 地域研究
 シリーズ全20巻についての紹介

 19世紀末から20世紀初にかけての作品を収める。すでに仏領インドシナ時代であり、この時期になると、フランスの侵略に直面して、近代化(西洋化)への意識と希求が、文言文で書かれた作品の語彙に反映されることになる。「愛国」「独立心」などといった、おそらくは日本から直接、あるいは中国経由で入ってきた和製漢語およびその内包する新概念が文中に現れる。それが見られるのは主として序文部分であり、すなわち作品の編纂目的、また問題意識が近代化・西洋化していることを意味する。

 収録作品  
 婆心懸鏡録  倫理教科書:人中物 南国佳事  大南行義列女伝  南国偉人伝  古怪卜師伝  武亭月円紀事

(上海古籍出版社 2012年10月)

【読書感想】エンピツ戦記 - 誰も知らなかったスタジオジブリ ☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言

2017年01月24日 | 映画
 http://fujipon.hatenadiary.com/entry/20160614/p1

  舘野仁美著 平林享子構成 大橋実イラスト『エンピツ戦記 誰も知らなかったスタジオジブリ』(中央公論新社 2015年11月)。
 
 「いやほんと」。この回想録を読んだ者として、まったく同感です。例として抜き出すところも同じ。私もここを挙げる。

守本順一郎 『東洋政治思想史研究』

2017年01月24日 | 東洋史
「補論一 中国封建社会の法と思想 朱子学的自然法の特質」。

 朱子学が、社会過程の認識と自然過程のそれとを統一的に把握する、一つの自然的な思想体系であるということは、いまは一つの常識となっているであろう。 (本書275頁)

 この朱子の自然法思想であるが、ここでは、自然法則としての物理が、社会法則としての道理に従属しており、さらにこの物理でもあり道理でもある理が、人間=個に本来内在している理性=本然の性としても捉えられている。しかし、この社会法則=理性は、実は朱子学によってはじめから与えられている具体的な内容をもつものであって、それこそ五倫=五常といわれるものであり、さらにそれは、中国の特殊封建的な身分論であったのである。
 (本書275頁)

 これはつまり、理=個に本来内在している理性=本然の性=五倫五常=(自然法則を従属させた)社会法則=中国の特殊封建的な身分論ということである。 
 理性とは中国の特殊封建的な身分論なのであるか。そして、その理性が、「実は朱子学によってはじめから与えられている具体的な内容をもつもの」であるとすれば、そこに、人間がみずからの頭脳において思考する余地はないということになる。そんなものは理性とは呼べまい。少なくとも現代日本語の、あるいは現代日本語を使用しそれによって思考する現代日本人が考える“理性”とは、べつのものである。朱子は人間に限らず動物にも植物にも、万物に性が内在すると言った(『宋元学案』巻48「晦翁学案上 語要」)。つまり守本氏の主張に従えば、朱子はこの世の全ての物に理性があるといったわけであって、これはたとえばこんにちの私には了解しがたい主張である。
 さらに言えばだが、「自然法則としての物理が、社会法則としての道理に従属しており、さらにこの物理でもあり道理でもある」世界の自然はこんにちのnatureを濾過した「自然」と同じものかどうかの吟味から始めなければならぬのではないか。「自然法」であるとしても、それは何如なる「自然」の「法」か。

(未来社 1967年9月)