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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

韓敏 『大地の民に学ぶ』 新世界読書放浪

2017年01月20日 | 人文科学
 http://neto.blog10.fc2.com/blog-entry-13821.html

 「ホーム人類学」に拘る著者が自身の出身地である瀋陽や東北を舞台とせず、あえて南方の地を対象とするのも日本の文化人類学が基本とした異文化研究に倣って、中国の地方の多文化性を確認するという作業の様な気もした。

 臨川書店刊、2015年11月出版の同書を私も遅まきながら読む。なるほど。ただあるいは、西欧での祖型にあくまで忠実に、「異文化研究」を基本とする日本の文化人類学を、「不可解」と言い切るほどに、「自文化研究」の志は十分以上にあったけれども、そのための学問上の方法論を、自分のそれ用に完全に調整することまではできなかったということかと思ったりもする。

ロバート・ローラー著 長尾力訳 『アボリジニの世界 ドリームタイムと始まりの日の声』

2017年01月19日 | 抜き書き
 インド・ヨーロッパ語では、思考はすべて、過去、現在、未来という時制で表現されるため、時間とはちょうど、過去から未来へと動く時計の針のように、一方向にしか流れない抽象的な背景のように思われている。アボリジニの諸言語には、「時間」に当たる言葉がない。アボリジニには、「時間」という概念がないのである。アボリジニの言う「創造」では、時間の経過や歴史は、過去から未来への運動ではなく、主観的状態から客観的状態への移りゆきを意味する。アボリジニの世界に参入するための第一歩は、西欧社会の伝統ともいうべき抽象的時間概念を捨て去ることである。その代わりに、「夢見から実在が生じる」とする意識の運動モデルを想定すれば、創造プロセスに見られる宇宙規模の作用にも納得がいく。 (「第2章 夢見の時空」 本書64頁)

 〔西欧人の〕空間概念は、時間概念に基づいている。「時間」という概念は、距離を測るには不可欠のものである。だから、「長い」とか「短い」といった、空間を表現するための言葉の大半は、時間を言い表す場合にも使われるのだ。/ところがアボリジニは、空間を距離とは考えない。アボリジニにとっての空間とは、意識なのだ。空間は、意識同様、二つのモードに分けられる。空間内にある知覚可能な実在はちょうど意識に相当し、対象感に存在する肉眼では見えない空間は、無意識に当たる。〔中略〕現実には、「無意識」と「意識」とは常に同じものである。「無意識」とは、夢見という連続対の一部なのだ。 (同上 68頁)

(青土社 2003年1月)

井尻正二 『化石』

2017年01月19日 | 抜き書き
 形式論理学的思考の正しさ、というものは、自然のもつ論理性が、労働を媒介にして、何万年ものあいだ、何億回となくくりかえされる刺激〔原文傍点、以下同じ〕を通じて脳という物質に投影され、しだいに刻印され、それが反応という形でテストされているうちに、自然の論理性にしたがって運動する能力――いわば思考作用――をもった、脳という物質(神経系)――あくまで脳という名の物質(神経系)であって、論理(とよばれる思考)ではない――が鋳造されたためだ、とひそかに考えている。 (「Ⅶ 化石は考える」、“形式論理学と反映論”、本書189頁)

(岩波書店 1968年3月)

『三字経』の末尾のくだりと宋真宗「勧学文」の思想的な共通点――「実用理性」

2017年01月18日 | 東洋史
 先日からの続き。
 タイトルの「実用理性」は、功利主義的人格のこと。劉暁波氏の著作から借りた概念と用語。

 『三字経』の末尾は、こうなっている。

 勤有功  勤(つと)むれば功(こう)有(あ)り
 戯無益  戯(たはむ)るれば益(えき)無(な)し
 戒之哉  之(これ)を戒(いまし)めよや
 宜勉力  宜(よろ)しく勉(つと)め力(つと)むべし」
 (訓読は加藤敏氏のそれによる)

 「功有り」の「功」は功績あるいは功労の功であり、次行の「益」(=利益)と対になっていることからわかるように、これは具体的な見返り、実利、つまり“得”のことである。さらに具体的にいえば、科挙に合格すること、そしてそれによって得られる地位(官職)とそれに付随する権力に財貨、そして一層具体的にして下世話になるが、飽食と女色である。これは私の勝手な当て推量ではなくして、王応麒のほんの少し前の先輩にあたる北宋の真宗皇帝が、「汝臣民刻苦して勉強すればこんなよいものが手に入るぞよ」と、御製で保証しているものである。

 宋真宗「勧学文」

 富家不用買良田,
 書中自有千鍾粟。
 安居不用架高堂,
 書中自有黃金屋。
 娶妻莫愁無良媒,
 書中有女顏如玉。
 出門莫愁無人隨,
 書中車馬多如簇。
 男兒欲遂平生志,
 五更勤向窗前讀。
 (テキストはこちらから)

 前にもブログに書いたが、「経書はあたかも打出の小槌のごとく、良田も高堂も僕従も美女も、ことごとくこの中から打出せる」(砺波護要約、『唐の行政機構と官僚』より)の旨が、ここには書いてある。そして最後は、「男児平生の志を遂げんと欲すれば 六経勤めて窓前に向かいて読め」と、締め括ってある。富と地位と権力とセックスが男子一生の志なのであろうか。そして経書を読む、つまり学問することの究極の目的はそれかと、索然とした思いに囚われる。
 『三字経』は童蒙初学の書である。いまでいえばぴかぴかの一年生相手に、「お金と偉い肩書きと威張れる力が自分のものになるし好きな女の子をいくらでも囲ったり乳繰りあったりできるようになるから勉強しようね」と説くとは、言うことも為ることも、いかにも志の低いことである。志とはがんらい彼の地の言葉であり文化なのだが。

鈴木亘『経済学者 日本の最貧困地域に挑む あいりん改革 3年8カ月の全記録』

2017年01月16日 | 政治
 誰もが自分のことで手一杯、それ以上は勘弁、全体や社会のことなど考える余裕などない、できれば自分のやるべきこともやらずしかし代金だけはもらいたいというのが普通の人の普通のあり方だということを、いまさらながらに想わされる内容。だがそのような、閉塞し凝滞した情況のなかで、事態を改善せんと現実に執着(としか形容のしようのない)し、絶えずあれこれの方法を見いだしてはそれをてこに少しでも動かそうとする著者の言動の壮絶な軌跡は、まさに“志のある人”のそれと評するべきであろうか。

(東洋経済新報社 2016年10月)

飯野りさ 「中東少数派の自己認識 あるシリア正教徒の音楽史観と名称問題」

2017年01月16日 | 地域研究
 西尾哲夫編著『中東世界の音楽文化 うまれかわる伝統』(スタイルノート 2016年9月)所収、同書264-281頁。

 シリア正教徒は、“宗派的にもまたある意味で民族的にもシリア正教徒”なのだそうだ。宗教が民族的なアイデンティティの基盤にもなっているという意味である。話す言語や、それ以外の文化や伝統は、ここには関わってこないらしい。

 シリアやレバノンに居住している、ないしは居住していた人々は、アラビア語を話すがアラブ人ではなく、トルコ南東部すなわち南東アナトリア地方の場合、クルド語も話すがクルド人ではなく、ウルファにいた人々はアルメニア語も話したがアルメニア人ではない。すなわち、シリア正教徒とは、典礼語として古典シリア語を使用し、母語としてないしは生活言語として口語シリア語〔現代アラム語〕を話す人々もいる、宗教を核とした、ある種の民族的な集団なのである。
 (「1. はじめに――中東における民族と宗教」 同書265頁)

劉昌佳 「戴震《孟子字義疏證》詮釋上的問題及其所涵蘊的價值」

2017年01月15日 | 東洋史
 『逢甲人文社會學報』第10期、2005年6月掲載。同誌49-75頁

 戴震が同著で提出した経書中の「之謂」「謂之」の解釈は、本当に正しいのだろうか。
 そしてその上にさらに屋を重ねた当論文の筆者の、「由於戴震所提出的「之謂」和「謂之」是屬於「全稱命題」,而「全稱命題」在經驗上存在著不可驗證性——在事實上無法將所有的例子一一驗證」という議論は、はたして成立しているのか。

 『孟子字義疏證』のこの箇所、なんべん読んでもよく理解できないので先達に教えを請うたのだが・・・。こちらの概念があちらのとはズレているらしいということ、そしてわからないのはそのせいだろうということは、わかる。あるいはたんにこちらが無知でついてゆけていないだけかもとも疑っている。
 太田辰夫氏は『古典中国語文法』(朋友書店年月)の「141」で、「謂」の用法の一局面として「之謂」と「謂之」とを論じている(同書71-72頁)。結論だけを言えば、「之謂」は「賓+之謂+主題語」、「謂之」は「主題語+謂之+賓語」の構文であって、なお後者の場合の「之」は主題語を指す、という説明がなされている。つまり現代日本語でかつ端的に解釈すれば、「之謂」は「~が~である」、「謂之」は「~は~である」ということである。 この説明については、詳しくは戴震の『孟子字義疏證』のくだんの箇所を見よという注が付いているから、結局壮大なる堂々巡りとなっている。ただ戴震があそこで言っているのはそれだけではないような気もする。

清水幾太郎責任編集 『世界の名著』 33 「ヴィーコ」

2017年01月15日 | 哲学
 彼ら〔中国人〕は、温暖な気候のおかげで知能が繊細になり、驚くほど優美なものを生み出すようになったとはいえ、いまだに絵画に影をつけることを知らない。光は影があってはじめて映えるものである。 (「新しい学」「第一巻 原理の確立」 本書104頁)

 案外頭の固い人だなと感じた。知らないのではなくてあえてつけないのかもしれない、絵はかならずしも事象をそのまま写すためだけのものではない、写実性をもって絵画の価値を決定しない見方もありうる、といった、第三者的な発想は思いうかばなかったのであろうか。

(中央公論社 1979年6月)