書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

『ひらがな愚管抄』 第七巻

2017年01月22日 | 日本史
 http://www.geocities.jp/hgonzaemon/gukannshou7.html

 国王には、国王の振舞ひ能(よ)くせん人のよかるべきに、日本国の習ひは、国王の種姓(しゆしやう)の人ならぬ筋を国王にはすまじと、神の代より 定めたる国なり。その中には又同じくは善からんをと願ふは、又世の習ひ也。

 それに必ずしも我からの手ごみ(=手はずよく)に目出度くおはします事の難(かた)ければ、御後見(うしろみ)を用ゐて大臣(おほおみ)と云ふ臣下をな して、仰せ合はせつつ世をば行なへと定めつる也。この道理にて国王もあまりに悪ろくならせ給ひぬれば、世と人との果報に押されて、え保(たも)たせ給はぬ なり。その悪ろき国王の運の尽きさせたまうに、また様々(やうやう=さまざま)のさま(=様態)の侍るなり。


 河内洋輔『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館 2007年6月)によれば、以上のここが『愚管抄』における神国思想の核心であるという(同書11-12頁)。神々の子孫である君と臣(貴族=天皇家以外の血筋の神々の子孫)による共同統治、これが同思想の“神意”であり、“正義”であり、また、慈円の言葉に従えば「道理」(その少なくとも一部)ということになるらしい。
 また同書によれば、北畠親房の『神皇正統記』になると、たしかに天皇位には限られた血筋の者しか登れないながら、だからといって天皇となった者がみなその地位に適格である者ではかならずしもないという事実が、確認・強調されるようになる由。この適格であることがすなわち“正統”ということであり、また“神意に適う”ことであると(同書13頁)。