『逢甲人文社會學報』第10期、2005年6月掲載。同誌49-75頁。
戴震が同著で提出した経書中の「之謂」「謂之」の解釈は、本当に正しいのだろうか。
そしてその上にさらに屋を重ねた当論文の筆者の、「由於戴震所提出的「之謂」和「謂之」是屬於「全稱命題」,而「全稱命題」在經驗上存在著不可驗證性——在事實上無法將所有的例子一一驗證」という議論は、はたして成立しているのか。
『孟子字義疏證』のこの箇所、なんべん読んでもよく理解できないので先達に教えを請うたのだが・・・。こちらの概念があちらのとはズレているらしいということ、そしてわからないのはそのせいだろうということは、わかる。あるいはたんにこちらが無知でついてゆけていないだけかもとも疑っている。
太田辰夫氏は『古典中国語文法』(朋友書店年月)の「141」で、「謂」の用法の一局面として「之謂」と「謂之」とを論じている(同書71-72頁)。結論だけを言えば、「之謂」は「賓+之謂+主題語」、「謂之」は「主題語+謂之+賓語」の構文であって、なお後者の場合の「之」は主題語を指す、という説明がなされている。つまり現代日本語でかつ端的に解釈すれば、「之謂」は「~が~である」、「謂之」は「~は~である」ということである。 この説明については、詳しくは戴震の『孟子字義疏證』のくだんの箇所を見よという注が付いているから、結局壮大なる堂々巡りとなっている。ただ戴震があそこで言っているのはそれだけではないような気もする。
戴震が同著で提出した経書中の「之謂」「謂之」の解釈は、本当に正しいのだろうか。
そしてその上にさらに屋を重ねた当論文の筆者の、「由於戴震所提出的「之謂」和「謂之」是屬於「全稱命題」,而「全稱命題」在經驗上存在著不可驗證性——在事實上無法將所有的例子一一驗證」という議論は、はたして成立しているのか。
『孟子字義疏證』のこの箇所、なんべん読んでもよく理解できないので先達に教えを請うたのだが・・・。こちらの概念があちらのとはズレているらしいということ、そしてわからないのはそのせいだろうということは、わかる。あるいはたんにこちらが無知でついてゆけていないだけかもとも疑っている。
太田辰夫氏は『古典中国語文法』(朋友書店年月)の「141」で、「謂」の用法の一局面として「之謂」と「謂之」とを論じている(同書71-72頁)。結論だけを言えば、「之謂」は「賓+之謂+主題語」、「謂之」は「主題語+謂之+賓語」の構文であって、なお後者の場合の「之」は主題語を指す、という説明がなされている。つまり現代日本語でかつ端的に解釈すれば、「之謂」は「~が~である」、「謂之」は「~は~である」ということである。 この説明については、詳しくは戴震の『孟子字義疏證』のくだんの箇所を見よという注が付いているから、結局壮大なる堂々巡りとなっている。ただ戴震があそこで言っているのはそれだけではないような気もする。