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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

劉昌佳 「戴震《孟子字義疏證》詮釋上的問題及其所涵蘊的價值」

2017年01月15日 | 東洋史
 『逢甲人文社會學報』第10期、2005年6月掲載。同誌49-75頁

 戴震が同著で提出した経書中の「之謂」「謂之」の解釈は、本当に正しいのだろうか。
 そしてその上にさらに屋を重ねた当論文の筆者の、「由於戴震所提出的「之謂」和「謂之」是屬於「全稱命題」,而「全稱命題」在經驗上存在著不可驗證性——在事實上無法將所有的例子一一驗證」という議論は、はたして成立しているのか。

 『孟子字義疏證』のこの箇所、なんべん読んでもよく理解できないので先達に教えを請うたのだが・・・。こちらの概念があちらのとはズレているらしいということ、そしてわからないのはそのせいだろうということは、わかる。あるいはたんにこちらが無知でついてゆけていないだけかもとも疑っている。
 太田辰夫氏は『古典中国語文法』(朋友書店年月)の「141」で、「謂」の用法の一局面として「之謂」と「謂之」とを論じている(同書71-72頁)。結論だけを言えば、「之謂」は「賓+之謂+主題語」、「謂之」は「主題語+謂之+賓語」の構文であって、なお後者の場合の「之」は主題語を指す、という説明がなされている。つまり現代日本語でかつ端的に解釈すれば、「之謂」は「~が~である」、「謂之」は「~は~である」ということである。 この説明については、詳しくは戴震の『孟子字義疏證』のくだんの箇所を見よという注が付いているから、結局壮大なる堂々巡りとなっている。ただ戴震があそこで言っているのはそれだけではないような気もする。

清水幾太郎責任編集 『世界の名著』 33 「ヴィーコ」

2017年01月15日 | 哲学
 彼ら〔中国人〕は、温暖な気候のおかげで知能が繊細になり、驚くほど優美なものを生み出すようになったとはいえ、いまだに絵画に影をつけることを知らない。光は影があってはじめて映えるものである。 (「新しい学」「第一巻 原理の確立」 本書104頁)

 案外頭の固い人だなと感じた。知らないのではなくてあえてつけないのかもしれない、絵はかならずしも事象をそのまま写すためだけのものではない、写実性をもって絵画の価値を決定しない見方もありうる、といった、第三者的な発想は思いうかばなかったのであろうか。

(中央公論社 1979年6月)