詩に「理」およびそれの認識される「義理」(yili)を尊重するのは、欧陽修よりあと宋代の詩論の主流をなすが、それは新儒学の「理」志向と同じ基盤に立つものである(青木-一九三五b・六七―六八)〔引用者注〕。義理を重視する詩は、わかりやすいのだけれど、しばしば「講義」(jiangyi)すなわち説明過剰になりがちな欠点をもつ。 (「中世第二期の達成 一 漢詩文の再興 (一)『理』の表現」、本書370頁。下線は引用者、以下同じ)
注。青木正児『支那文学思想史』内篇を指す。
義理の重視と美しさへの志向は、文章においても併存する。それは、散文と駢文の併存に対応している。このばあい、散文とは、古典語で書かれた韓愈・柳宗元ふうのスタイルをさす。しばしば「古文」ともよばれる。白居易ふうの散文は、すでに中世第一期からおこなわれていたけれども、緊密な構成による論理の徹底を本領とする韓・柳ふうの散文は受容されなかった〔略〕。それが十四世紀よりあと日本でも流行するようになったのは、欧陽修や蘇軾たちにより韓・柳ふうの散文が宋代の主流をなしたことの影響であろう〔略〕。とりわけ、その主導者だった蘇軾が禅への深い理解をもっていたことは、留学僧たちをいっそう韓・柳ふうの散文へ引きつけたにちがいない。ところが、それは、緊密な論旨の構成により享受者を感動させようとするものだから、どうしても義理の精錬を要することになる。これに対し、駢文のほうは、文章の内質よりも言いかたの美しさを志向するのが本性であり、それは禅林の駢文でも変わらない。 (「中世第二期の達成 一 漢詩文の再興 (一)『理』の表現」、本書372頁)
宋代文化の核となった「理」は、十四世紀の日本にさまざまな面で滲透した。そのひとつの面が論史書である。史書としては、既に『愚管抄』があるけれども、その「理」は天台宗の形而上学と共通点をもち、現世の在りかたを政治学の立場から批判するわけではない。ところが、北畠親房(ちかふさ)〔原文ルビ〕(一二九三―一三五四)の『神皇正統記』は、彼の抱く政治理念から日本の社会がいかに在るべきかを論じたもので、同じく論史ではあっても、慈円とは立場を異にする。それは、宋代の史学を承けたものと考えられる。シナの史書は、すべて政治批判のために述作されたのであり、事実だけを客観的に記述しているばあいでも、その奥底には無言の、しかし厳正な批判を潜める。それが宋代になると、政治の流れを「理」に基づいて正面から批判しようという意識が加わり、とりわけ政権の継承に関する正統論が有力な題目として採りあげられた。司馬光(一〇一九―八六)の『資治通鑑(しじつがん)】〔原文ルビ〕は、こうした傾向を代表する巨業だが、親房の論史は、これと共通な立場で書かれている。そこには、直接の影響関係を認めてよい。親房は『資治通鑑』を学習していたからである。 (「中世第二期の達成 五 和漢混淆文の普及 (一)論史と講史」、本書491頁)