goo blog サービス終了のお知らせ 

書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

小西甚一『日本文藝史』Ⅲ(講談社 1986年4月)より

2018年02月18日 | 抜き書き

 詩に「理」およびそれの認識される「義理」(yili)を尊重するのは、欧陽修よりあと宋代の詩論の主流をなすが、それは新儒学の「理」志向と同じ基盤に立つものである(青木-一九三五b・六七―六八)〔引用者注〕。義理を重視する詩は、わかりやすいのだけれど、しばしば「講義」(jiangyi)すなわち説明過剰になりがちな欠点をもつ。 (「中世第二期の達成 一 漢詩文の再興 (一)『理』の表現」、本書370頁。下線は引用者、以下同じ)

。青木正児『支那文学思想史』内篇を指す。

 義理の重視と美しさへの志向は、文章においても併存する。それは、散文と駢文の併存に対応している。このばあい、散文とは、古典語で書かれた韓愈・柳宗元ふうのスタイルをさす。しばしば「古文」ともよばれる。白居易ふうの散文は、すでに中世第一期からおこなわれていたけれども、緊密な構成による論理の徹底を本領とする韓・柳ふうの散文は受容されなかった〔略〕。それが十四世紀よりあと日本でも流行するようになったのは、欧陽修や蘇軾たちにより韓・柳ふうの散文が宋代の主流をなしたことの影響であろう〔略〕。とりわけ、その主導者だった蘇軾が禅への深い理解をもっていたことは、留学僧たちをいっそう韓・柳ふうの散文へ引きつけたにちがいない。ところが、それは、緊密な論旨の構成により享受者を感動させようとするものだから、どうしても義理の精錬を要することになる。これに対し、駢文のほうは、文章の内質よりも言いかたの美しさを志向するのが本性であり、それは禅林の駢文でも変わらない。 (「中世第二期の達成 一 漢詩文の再興 (一)『理』の表現」、本書372頁)

 宋代文化の核となった「理」は、十四世紀の日本にさまざまな面で滲透したそのひとつの面が論史書である。史書としては、既に『愚管抄』があるけれども、その「理」は天台宗の形而上学と共通点をもち、現世の在りかたを政治学の立場から批判するわけではない。ところが、北畠親房(ちかふさ)〔原文ルビ〕(一二九三―一三五四)の『神皇正統記』は、彼の抱く政治理念から日本の社会がいかに在るべきかを論じたもので、同じく論史ではあっても、慈円とは立場を異にする。それは、宋代の史学を承けたものと考えられる。シナの史書は、すべて政治批判のために述作されたのであり、事実だけを客観的に記述しているばあいでも、その奥底には無言の、しかし厳正な批判を潜める。それが宋代になると、政治の流れを「理」に基づいて正面から批判しようという意識が加わり、とりわけ政権の継承に関する正統論が有力な題目として採りあげられた。司馬光(一〇一九―八六)の『資治通鑑(しじつがん)】〔原文ルビ〕は、こうした傾向を代表する巨業だが、親房の論史は、これと共通な立場で書かれている。そこには、直接の影響関係を認めてよい。親房は『資治通鑑』を学習していたからである。 (「中世第二期の達成 五 和漢混淆文の普及 (一)論史と講史」、本書491頁)


石田一良 『愚管抄の研究』

2017年01月28日 | 日本史
 出版社による紹介

 慈円の「道理」とは、いまでいう世界史の基本法則にくわえて摂関家、それも近衛ではなく我が九条家が、けっして摂関家としての地位と家格を失うことなくお上と固く手を携えて治世にいそしむ事であるという指摘。
 ついでながらずいぶん欲張りな世界観だと思わないでもない。

(ぺりかん社 2000年11月)

『ひらがな愚管抄』 第七巻

2017年01月22日 | 日本史
 http://www.geocities.jp/hgonzaemon/gukannshou7.html

 国王には、国王の振舞ひ能(よ)くせん人のよかるべきに、日本国の習ひは、国王の種姓(しゆしやう)の人ならぬ筋を国王にはすまじと、神の代より 定めたる国なり。その中には又同じくは善からんをと願ふは、又世の習ひ也。

 それに必ずしも我からの手ごみ(=手はずよく)に目出度くおはします事の難(かた)ければ、御後見(うしろみ)を用ゐて大臣(おほおみ)と云ふ臣下をな して、仰せ合はせつつ世をば行なへと定めつる也。この道理にて国王もあまりに悪ろくならせ給ひぬれば、世と人との果報に押されて、え保(たも)たせ給はぬ なり。その悪ろき国王の運の尽きさせたまうに、また様々(やうやう=さまざま)のさま(=様態)の侍るなり。


 河内洋輔『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館 2007年6月)によれば、以上のここが『愚管抄』における神国思想の核心であるという(同書11-12頁)。神々の子孫である君と臣(貴族=天皇家以外の血筋の神々の子孫)による共同統治、これが同思想の“神意”であり、“正義”であり、また、慈円の言葉に従えば「道理」(その少なくとも一部)ということになるらしい。
 また同書によれば、北畠親房の『神皇正統記』になると、たしかに天皇位には限られた血筋の者しか登れないながら、だからといって天皇となった者がみなその地位に適格である者ではかならずしもないという事実が、確認・強調されるようになる由。この適格であることがすなわち“正統”ということであり、また“神意に適う”ことであると(同書13頁)。

相良亨 『日本の思想 理・自然・道・天・心・伝統』

2015年06月15日 | 地域研究
 『貞永式目(御成敗式目)』『愚管抄』の「道理」は、慣習をふまえて現今の状況に応じた適切な処置を成す営為と(「一 理」)。
 『愚管抄』はよくわからぬが、『貞永式目』の「道理」はそうだろうか。“適切”の判断は何に基づいてなされるのか。

(ぺりかん社 1989年2月)