書籍之海 漂流記

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『六韜』「文韜」“文師”の「義」の字についてのいくつかの意見

2017年01月09日 | 人文科学
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文王曰:「樹斂何若而天下歸之?」
太公曰:「天下非一人之天下,乃天下之天下也。同天下之利者,則得天下;擅天下之利者,則失天下。天有時,地有財,能與人共之者、仁也;仁之所在,天下歸之。免人之死、解人之難、救人之患、濟人之急者,德也;德之所在,天下歸之。與人同憂同樂、同好同惡者,義也;義之所在,天下赴之。凡人惡死而樂生,好德而歸利,能生利者、道也;道之所在,天下歸之。」


 「與人同憂同樂、同好同惡者,義也;義之所在,天下赴之。」の「義」とは何だろう。前半「與人同憂同樂、同好同惡者,義也」の、「與人同憂同樂、同好同惡」は、結果にすぎない。義はその原因である。だから「義は人と憂いを同じくし楽しみを同じくすることと好みを同じくし悪みを同じくすることである」とは解釈できない。
 この部分は、それとは逆に、今の日本語の感覚からいえば、「人と憂いを同じくし楽しみを同じくすることが義である」と解釈すべきである。「同じくすることは」では主語と述語が逆様になってしまう。
 ところで訓読では、「人と憂いを同じくし楽しみを同じくし好みを同じくし悪みを同じくする(者)は義なり」としかできない(「者=(もの)は」という訓読文の文法規則)。つまり訓読文は、少なくともこの点に関しては、漢文(古代漢語)を誤訳する(そして誤訳しかできない)ということになる。