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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

岡田英弘 『中国文明の歴史』

2009年09月23日 | 東洋史
 〔1895年に日清戦争に破れて近代化・西洋化に踏み切るまでの中国では〕現在「漢族」と呼ばれている人びとのあいだにさえ、同一民族としての連帯感なぞ存在していなかった。〔略〕「血」や「言語」のアイデンティティのかわりに存在したのは、漢字という表意文字の体系を利用するコミュニケーションであって、それが通用する範囲が中国文化圏であり、それに参加する人びとが中国人であった。 (「序章 民族の成立と中国の歴史」 本書22頁)

 渡部昇一氏曰く、キリスト教世界の伝統は神の前での平等であるのに対して、日本人の伝統は和歌の前での平等であると。ならば中国人は漢字の前での平等であるか。
 これを翻って言えば、漢字が読めない、書けない人間は、民族にかかわらず中国人ではないということだろう。つまり夷狄である。文盲や半文盲の多い農村部の住民――農民――が、どうして中国でひどく蔑視されるのかが、これで分かった。夷狄だからである。夷狄はなにも東西南北の向こうにだけいるわけではないのだ。そして夷狄は人ではない。現代中国語でいうところの「畜生」である。たとえば漢人はチベット人のことを「蔵畜生」と呼ぶ。ウイグル人は「回畜生」であり、西洋人は「洋畜生」である。そして「百姓はみんな畜生だ」と言う。

 农民都是畜生,大自然就这么被破坏了,死2亿农民,中国的大好河山会光复! 〈http://bbs.news.163.com/bbs/photo/147565775.html〉

(講談社 2004年12月)

井上浩一/栗生沢猛夫 『世界の歴史』 11 「ビザンツとスラヴ」 から

2009年09月22日 | 抜き書き
 ロシア人がモンゴル人により支配されていた時代に、モンゴルから多くの面で大きな影響をうけたことは否定しがたい。軍制や軍事技術、税制、駅逓制、外交技術などの面で、ロシアは多くをモンゴルから学んだのである。また通婚や日常的交流などにより、モンゴル的な特質を獲得していったことも疑いない。しかし重要なのは、これらの影響がロシア人のアイデンティティそのものにどれほど関わったのかということである。/このような観点からみるとき、モンゴルの支配は、ロシア人の根本に関わる点では決定的な影響は与えなかったといえる。影響はより技術的な面に強かったのである。 (粟生沢猛夫「第2部 スラブ――その多様性の源泉」「13 ロシアの発展」 本書426頁。太字は引用者)

 ロシア人はモンゴル人から「くにのかたち」を教えてもらったということか。

(中央公論社 1998年2月)

「タタールのくびき」についてふと仮説

2009年09月22日 | 思考の断片
▲「ИТАР-ТАСС」20.09.2009, 11.00、「Великий Новгород отметил 1150-летие」 (部分)
 〈http://www.itar-tass.com/level2.html?NewsID=14343589&PageNum=0

  Детинец всегда был ядром и сердцем Великого Новгорода. Первое упоминание в летописи относится к 1044 году. На протяжении столетий - это религиозный, политический и культурный центр Новгородской земли. Здесь проходило вече, выборы посадника, отсюда выступали на битву со шведами и немцами дружины Александра Невского. Стены кремля защищали главный - Софийский собор и резиденцию Новгородского владыки. Именно в Кремле велось летописание, сбор и переписывание книг. Перестроенная в конце ХV века согласно новым фортификационным требованиям каменная крепость представляет собой в плане неправильный овал, протянувшийся вдоль берега Волхова. В ансамбль кремля входят известнейшие новгородские памятники: Софийский собор, старейший в стране, построенный в 1045-1050 годах, Грановитая плата (1433), церкви Андрея Стратилата (ХV-ХV1 в.), Сергея Радонежского (1463 г.) и памятник "Тысячелетие России" (1862), а также крепостные сооружения. Из 12 башен кремля сохранилось 9: Владимирская, Федоровская, Митрополичья, Златоустовская, Преображенская, Кокуй, Княжая, Спасская, Дворцовая. Со смотровой площадки самой высокой башни Кокуй открывается великолепный вид на город и окрестности.

 ロシア人がモンゴル帝国の支配を後々まで「タタールのくびき」と呼んで苛酷さを呪い忌み嫌ったのは(もっとも最初にこの言葉を使ったのは14世紀末から15世紀始めのポーランド人らしいが)、それまで基本的に都市規模の社会生活の歴史と政治経験しか持たなかった彼らが、いきなり広域国家に組み込まれ、巨大で精密な統治機構のメカニズムにはじめて接して、慣れないその運営にとまどい、音を上げて、気楽だった古き良き時代を懐かしんだというところもあるのではないか。(この記事で取り上げるノヴゴロドはジョチ・ウルスの朝貢国に留まって直接の版図にはなっていないが。)
 また、モンゴル支配を脱したあとのロシア国家(モスクワ大公国)の専制性について、そもそもキエフ大公国の主な後継者たる三公国(ノヴゴロド、ヴラジーミル・スーズダリ、ガーリチ・ヴォルイニ)のなかで、モスクワ大公国の前身であるヴラジーミル・スーズダリ公国が最も公権力が強かったというその本来的な性格も、ロシア帝国の専制権力の由来を論じる際に、モンゴル支配の影響という外来的な理由とともに、内的な要素として考慮すべきではなかろうか。

素朴な修辞的疑問

2009年09月22日 | 思考の断片
▲「中華人民共和国国防部」2009-09-22 00:00:00、「五星红旗,你比我生命更重要」 (部分)
 〈http://news.mod.gov.cn/headlines/2009-09/22/content_4089777.htm

 来源:解放军报 作者:罗朝文 解放军报特约通讯员 武炎龙 《人民武警报》记者 沈晓泓。(责任编辑:张锋)

  迎着东方的晨曦,走上光荣的哨位,让象征国家主权和荣誉的五星红旗舒展在祖国的天空;
  怀着赤诚的情意,奏响庄严的乐曲,让鲜艳夺目的五星红旗把56个民族永远凝聚――
  这就是国旗卫士永恒的心愿,
  这就是护旗骄子不变的情怀。

 60年間教育してきて、結局「五星红旗,你比别人的生命更重要」なのは、いったいどういうわけだろう。

中国国務院新聞弁公室の深紅だがロマンホラーではない奇妙な冒険

2009年09月21日 | 思考の断片
▲「人民網」2009年09月21日15:53 、来源:新华社「《新疆的发展与进步》(全文) (13)」から
 〈http://politics.people.com.cn/GB/101380/10089947.html

 『「新疆の発展と進歩」白書』のキモはこの(13)の部分で、そのなかでも核心中の核心は以下の1段落だろう。

  2008年以来“东突”势力开始新一轮的破坏活动,针对北京奥运会先后制造了多起暴力恐怖事件。特别是2009年7月5日发生的新疆维吾尔自治区乌鲁木齐市打砸抢烧严重暴力犯罪事件,是由境内外恐怖主义势力、分裂主义势力、极端主义势力精心策划组织的,给各族群众生命财产造成重大损失,给当地正常秩序和社会稳定造成严重破坏。事件发生后,中央政府和自治区政府、中央和国家机关有关部门、军队和武警部队,紧紧依靠各族干部群众,坚决维护社会稳定、维护社会主义法制、维护人民群众根本利益,采取果断有力措施,依法坚决制止暴力犯罪行为,迅速平息事态,恢复了乌鲁木齐社会稳定。

 きまったレッテルを何度でも貼りなおすだけ。証拠も出せないし理屈だてて証明もなにもようしない。9.11のあとで米国が出した膨大・重厚・緻密な The 9/11 Commission Report とはまったく比べものにならない。貧弱である。
 この違いは国情や文化の差というよりは、近代国家としての国力の差であろう。本気になって同じようなものを作ろうとしてもおそらくはまだできまい。真摯な努力は徒労に終わろう。

I am a slow learner, part IV

2009年09月19日 | 抜き書き
 2008年10月15日「I am a slow learner, part III」から続き。

▲「中華人民共和国中央人民政府門戸網站」2009年09月18日、来源:新华社(新华社平壤9月18日电(记者 姚西蒙 张滨阳))「朝鲜领导人金正日会见胡锦涛主席特使戴秉国」 (部分)
 〈http://www.gov.cn/ldhd/2009-09/18/content_1420717.htm

  戴秉国转交了胡锦涛主席致金正日的信函。胡锦涛在信中表示,中国党和政府高度重视中朝关系,始终把中朝友谊视为两党、两国和两国人民的宝贵财富,本着“继承传统、面向未来、睦邻友好、加强合作”的精神,巩固和发展中朝友好关系。胡锦涛表示,作为半岛的近邻,中方高度关注半岛局势,实现半岛无核化目标,维护和促进半岛及东北亚的和平、稳定与发展,是我们的一贯宗旨。我们愿同朝方共同为此作出不懈努力。 (太字は引用者)

 「朝鮮日報」の朴勝俊特派員の(正確にはファン・ジャンヨプ氏の)洞察「北朝鮮に対する中国の影響力は100パーセント」がただしいとするなら、核問題で金総書記が「対話モード」に急旋回した理由は明らかだ。 

「外交部 戴秉国国務委員の朝鮮訪問、中日韓指導者会見、東亜共同体について」 から (承前)

2009年09月19日 | 日本史
▲「環球網」2009-09-18、「中国愿与日本建东亚共同体 日需尊重我政治底线」 (部分)
 〈http://world.huanqiu.com/roll/2009-09/581815.html

  他〔日本JCC新日本研究所副所长庚欣〕表示,建立东亚共同体不仅仅是中日等大国之间的事情,也需要东亚各个国家的认可,其政治基础就是要符合各国核心利益关切。比如,日本前不久在对待达赖问题上的态度就引发了中日关系的风波。日本只有分清主次、尊重各国的政治底线,东亚共同体的建立才不是一句空谈。

 あれ、ちがうのかな。では「不征之国」にしておいてください。ところで礼部はいつ復活させるんですか。

「外交部 戴秉国国務委員の朝鮮訪問、中日韓指導者会見、東亜共同体について」 から

2009年09月19日 | 抜き書き
▲「中国網 チャイナネット」2009-09-18。 (部分)
 〈http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2009-09/18/content_18551758.htm

 姜瑜報道官:東亜共同体を創設し、東アジアの経済と社会の全面的で調和の取れた持続可能な発展、および持久的な平和を促進することは、東アジア諸国の協力の長期的な目標であり、東南アジア諸国連合(ASEAN)と中日韓の共通認識でもある。中国は日本を含む東アジア諸国との地域協力を深め、東亜共同体の目標に向かってまい進できるよう努めていく。

 日本はせいぜい「互市国」で結構です、個人的には。そちら様もたぶん、今のところその御積りとは思いますが。

木村肥佐生著/スコット・ベリー編/三浦順子訳 『チベット 偽装の十年』

2009年09月18日 | 東洋史
 原著:Japanese Agent in Tibet: My Ten Years of Travel in Disguise, by Hisao Kimura and Scott Berry, Serindia Publications, London, April 1, 1990.

 パタン出身の家族に会うのは初めての経験だった。パタンの人間は、平均的なチベット人と比べると多少色合が違った。パタンはチャムドと打箭炉(ダルツェンド)の間に位置し、反乱にみちた歴史と一風変わった方言をもつ地方である。その反乱精神にもかかわらず、家族は全員中国名とチベット名をもち、いずれの言葉にも堪能だった。 (「十二 交易人兼密輸業者、時には活動家」 本書295-296頁)

 この家族はプンツォク・ワンギャルの伯父江新西の一家なのだが(それは『チベット潜行十年』にも書いてある)、彼らがバイリンガルであったことはこちらの著書で初めて知った。江新西は国民党の国防機関の駐チベット連絡将校で、河北省の保定陸軍軍官学校を首席で卒業した経歴の持ち主というから(これもこちらの著書で初めて知った)、漢語ができて当然ではある。

(中央公論社 1994年4月) 

川島真・清水麗・松田康博・楊永明著 『日台関係史 1945-2008』

2009年09月18日 | 東洋史
 台湾(中華民国)政府が日本の沖縄領有を認めず「琉球」と呼んで独立国もしくは中国領土と見なしていた(あるいは今でも見なしている?)のは、沖縄が琉球王国時代に明・清に朝貢していたという歴史的経緯のほかに、1972年の沖縄(施政権)返還に際して、米国と日本が自らと協議することなしに交渉を進めたためである由(松田康博「第5章 日台関係の安定化と変化への胎動――1979-87年」本書142頁)。
 ゆえに台湾から沖縄への渡航ビザ発行は、返還後もながらく日本に対する「台北駐日経済文化代表処」とは別組織の「中琉文化経済協会琉球弁事処」(1958年設置)がおこなっていたのか。ただし2006年5月に「台北駐日経済文化代表処駐琉球弁事処」、さらに2007年2月には現在の「台北駐日経済文化代表処那覇分処」へと改組・名称変更されているが。
 大人げないといったらいかんのか?

(東京大学出版会 2009年3月)