西洋のレトリックに擬人法があるが、擬物法はさほど例がなく、日本語においてより多用され、後者のかなり特徴的で独自の修辞法として見なせると、このあいだ何かで読んだ憶えがあるのだが、書名を思い出せない。当座の宿題とする。
それに関して、べつに思い出せるのは、韓愈「送孟東野序」 の「人聲之精者為言;文辭之於言,又其精也,尤擇其善鳴者而假之鳴。 其在唐虞,咎陶、禹其善鳴者也,而假以鳴。夔弗能以文辭鳴,又自假於韶以鳴。夏之時,五子以其歌鳴。伊尹鳴殷,周公鳴周。凡載於詩書六藝,皆鳴之善者也。」のくだりである。これは擬物法である。漢語にはともかくも有るわけだ。
それに関して、べつに思い出せるのは、韓愈「送孟東野序」 の「人聲之精者為言;文辭之於言,又其精也,尤擇其善鳴者而假之鳴。 其在唐虞,咎陶、禹其善鳴者也,而假以鳴。夔弗能以文辭鳴,又自假於韶以鳴。夏之時,五子以其歌鳴。伊尹鳴殷,周公鳴周。凡載於詩書六藝,皆鳴之善者也。」のくだりである。これは擬物法である。漢語にはともかくも有るわけだ。